雑渡さんと一緒! 111


雑渡さんの仕事が始まった。去年、大変ご迷惑をお掛けしてしまったから私は雑渡さんと一緒にご挨拶に伺った。社長さんに私が頭を下げると、雑渡さんはのんびりと謝っているところを見ると、多分出した損失を無事に埋めることが出来たんだろうなと思った。雑渡さんが復帰してからあまりにも早いけど、雑渡さんならやれるだろう。仕事復帰してから今まで以上に真剣に仕事に打ち込んでいたから。
次に営業部に私は顔を出した。私と雑渡さんが顔を出すなり、大勢の人が寄ってきた。雑渡さんは面倒くさそうに追い払っていたけど。本当は一人一人に頭を下げたかったけど、とてもではないけど無理だと思った。そのくらい多くの人がいたから。雑渡さんはこれだけ多くの人を束ねている。そして、とても好かれている。その事実がとても嬉しかった。
無事にお菓子をお渡しして、どうにか挨拶を終えた私は雑渡さんにエントランスまで見送って貰った。エントランスにも多くの人がいて、やっぱり前みたくジロジロと見られていたけど、雑渡さんが一睨みしたら一瞬で気にならなくなった。


「…別にそんなに睨まなくても」

「ウザい」

「雑渡さんがそれだけ人気があるってことですよ」

「佐茂みたいなことを言うね」

「あぁ、そういえば佐茂さんに会いませんでしたね」

「部署が違うからね」

「成る程…残念です」

「ほぉ?」

「あっ!違いますよ、他意はないですからね!?」

「覚えておこう」


ぎうぅ、と心なしかいつもよりも強めに頬を掴まれてから私は雑渡さんと離れ、家に帰った。洗濯物が乾かないから、早く年明けに買ってくれた乾燥機付きの洗濯機が届かないかなぁと思いながら洗剤を入れる。
洗濯機が回っている間に掃除機をかけ始めた。同棲前と違って家具が随分とこの家にも増えた。教科書がたくさん並んでいる本棚に掃除機をぶつけると、ノートが一冊落ちた。私が雑渡さんの好みを書いているノートだ。そういえば、入院してからは書いていなかったなぁと思いながら開くと、雑渡さんの字で何ページか追加されていた。それを見て、ひゅっと心臓が縮まった気がした。見られた。これを雑渡さんに見られてしまった。こんな恥ずかしいノートを雑渡さんに…そう思うと顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
このノートには雑渡さんの小さな癖が書いてある。例えば、ご飯の時は家では緑茶、外では烏龍茶とか。食後に必ず珈琲を飲むとか。そういうごく小さなことが書いてある。それと、雑渡さんが喜んでくれたご飯のざっくりとしたレシピ。醤油が多めが好きとか、みりんよりも砂糖で味付けた方が反応がよかったとか、本当にメモ書きだ。そのメモの隣に雑渡さんの字で「人参はもう少し小さく切って欲しい」とか「コンソメの方が好き」とか書いてあった。いつの間に見られたんだろう。そして、いつの間に書かれたんだろうかと思いながらページを捲っていくと「なまえの作ってくれるご飯が一番好き。いつもありがとう」とか「私のことを分かろうとしてくれてありがとう。愛しているよ」と書いてあった。だけど、その文字は震えていたし、ところどころページが濡れたような跡が残っていた。
雑渡さんは私が入院中にこのノートを見つけて、私が目を覚ますのを信じて、ずっと待っていてくれたのだろうか。私のご飯をずっと心待ちにしてくれていたのだろうか。
今日は雪が多く積もっている上に、まだまだ積もると言わんばかりに降っている。だけど、仕方がない。スーパーに買い物に行こう。この季節に歩いて買い物に行くのは億劫だし、大変だ。手に持った荷物に気を取られて転ぶこともある。こんなことなら、さっき行っておけばよかったと後悔しつつも、急に献立が変わったのだから、覚悟を決めるしかない。
コトコトと煮込んて、よく味が染みていることを確認していると、雑渡さんが帰ってきた。心なしか寒さで震えている。


「おかえりなさい。今日、寒いですね」

「寒いなんてもんじゃないよ、もうね、極寒だよ、極寒。雪も凄いし…あーあ、明日から急に春になればいいのになぁ…」

「そんな雑渡さんに朗報です」

「うん?なに?」

「今日はおでんです」

「えっ!本当に?」

「はい。作ってみましたので、手を洗ってきて下さい?」


インフルエンザが猛威を奮っているんだから。当たり前のごとく予防接種を嫌がった雑渡さんはインフルエンザに罹るわけにはいかない。一週間は寝込むそうだから。
雑渡さんは赤い手を冷水で更に赤くして、手を擦り合わせながらソファに座った。そわそわと私の方を見ている。


「はい、どうぞ」

「わ…あ…おでんだ!凄い、本当におでんだ!」

「本当にって何ですか」

「いや、だって、家で作れると思っていなかったから」

「それ、去年も言っていましたね」


そう、私は雑渡さんと約束した。明日はおでんにしましょうって。だけど、私はその約束を果たすことが出来なかった。次の日に倒れてしまったから。だから、これは一年越しの約束だ。ようやく一つだけど、約束を果たすことが出来た。


「わぁー…美味しそう」

「あ、でも期待しないで下さいね?初めて作ったんだから」

「またまた」

「本当ですって。実家の味を再現したんです」

「ふーん?いただきまーす」


スーツのまま雑渡さんは手を合わせた。嬉しそうに皿に具材をよそっていく。はねてスーツが汚れでもしたらどうするつもりなんだろうか。まったく、仕方のない人だなぁ。
ドキドキとしながら雑渡さんの反応を待つ。一口しみしみの大根を口にして、ぱあっと笑顔になったからホッとした。


「美味しい!」

「よかった」

「えっ、本当に初めて作ったの?」

「そうです…うーん。お母さんが作ってくれたのはもっと美味しかったんだけどなぁ…もう少し改良してみますね」

「えー、いいよ。私、この味が好きだから。店出したら今すぐにでもミシュランに載るレベルに達しているから」

「昆奈門さんは私に甘過ぎるんですよ」


私が白いはんぺんを割ってから箸で出汁をずぶすぶと染み込ませていると、昆奈門さんが玉子を落とした。ボチャっと出汁が飛び散ったのを見て、思わず私は大声をあげた。スーツが、年末にクリーニングに出したばかりのスーツが汚れた!


「ほらぁ、だから着替えてっていつも言っているのに!」

「いや、待って。今、何て…」

「だから、着替えて下さい!もう…」

「ねぇ…もう一度、呼んで?」


昆奈門さんは私がタオルを取りに行こうとした手を掴んだ。ほんのりと頬を赤く染めて。
だって、私たちはもう夫婦になるんだから、いつまでも「雑渡さん」なんて呼ぶわけにはいかない。過去からずっと名字で呼んでいた私も、呼ばれていた昆奈門さんも違和感があるだろう。だけど、付き合っていたのにずっと名字で呼んでいた私もどうかと思う。想い合っている関係なんだから、本当はもっと前からもっと親しみを込めた呼び方をしたってよかったんだ。まだ慣れないけど、いつか慣れるだろう。その頃には今よりももっと思い合うことが出来ていたらいいな。そんなことを考えながら、ぼんやりとしている昆奈門さんのジャケットを脱がせた。すると、急に我に返ったように昆奈門さんはそのままネクタイを緩めて私をソファに押し倒し、私の服まで脱がせ始めた。これは呼ぶタイミングを間違えてしまったかもしれない。ご飯中なのに。本当に仕方のない人だなぁと思いながら、私は昆奈門さんの背に手を回した。


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