雑渡さんと一緒! 116
「雑渡課長」
「ん」
「これはないわ。経費で落とせない」
「えっ、駄目?」
「何だよ、温浴施設巡りが偵察って」
「いや、だって偵察目的なんだけど」
「彼女と行ってるよな?」
「まぁ」
「それ、ただのデートだから」
営業部に領収書を持ってきた佐茂は私に突き返してきた。別に私だって、こんな金を経費で落としたいなどとケチなことを言うつもりはなかった。だけど、私が前例を作らないと部下が経費で落とせなくなる。私はともかく、部下に偵察目的で行かせた所は経費で落とせるようにしてやりたい。
私のデスクの前で佐茂は大きな溜め息を吐いたものだから、喧嘩でも売っているのかと思わず睨みつけてしまった。
「なぁ、少しいいか」
「なに」
「少しいいか、って言ってんだよ」
「あぁ…」
これは仕事の話ではないと察した私はコートから煙草とライターを持って立ち上がった。自販機で珈琲を買ってから喫煙所に入る。この会社の喫煙所は全部で三つあるが、一番人気の少ない、いつ行っても誰もいない箱へと入った。
私が煙草を吸い始めても佐茂は煙草を手に取ろうとはしなかった。疑問に思っていると、佐茂は青い顔をしていた。
「えっ、どうしたの?」
「雑渡、俺、やらかした…」
「何が」
「照ちゃんと付き合っていないのに、ヤッてしまった」
「…あの、一応聞くんだけど、何を?」
「お前…分かるだろ、普通。抱いたんだよ、ホテルで」
「嘘でしょ!?」
驚いて煙草を落としてしまった。佐茂が付き合ってもいない女を抱いたなんて、とてもではないけど信じられない。
信じられないには信じられないが、まぁ、佐茂も男だ。そういうこともあるだろう。今まで浮いた噂一つなかったこと自体が不自然だったくらいだ。お互い合意の上での性交渉なら別に何ら問題はないだろう。ただ、なまえは何と言うだろうか。怒るのではないだろうか。この場合、怒られるのは佐茂と繋がりのある私ではないだろうか。だとしたら、まずい。
「…なぁ、俺、どうしたらいいと思う?」
「こっちが聞きたい。というか、何でそんなことしたの?」
「そりゃあ、あまりにも可愛くて」
「誰が?」
「照ちゃんが」
「はぁ!?お前、女なら誰でもいいわけ!?」
「何でだよ!可愛いだろ、照ちゃんは!」
優しくて、情に深い。そして、一途で、男を立ててくれようとする。だけど照れ屋で素直ではないから、すぐに軽口を叩く。そんな素直じゃないところがまた可愛い。
そんな気味の悪いことを言われた。それは北石のことではない。少なくとも、私の知っている北石はそんな女ではない。
「…まぁ、北石がどんな女なのかは今はどうでもいい。それで、佐茂はどうするつもり?このまま北石と付き合うの?」
「まぁ…」
「なに、その煮え切らない言い方は」
「いや、何かさ…あぁ、いや…」
「なに」
「振られるのが怖いな、的な…」
佐茂は溜め息を吐いてから、ようやく煙草を取り出した。
意外だな、と思った。こんなに人あたりがいい奴でもそんなことを思うのか。どうやら、振られるのが怖いだとか、思っていた人物像と違ってがっかりされるのが怖いだとか、そういうことを思うのは普通のことらしい。だとすれば、それは杞憂だろう。私だって同じことを思ったけど、今もこうしてなまえは一緒にいてくれているのだから。ましてや私は初めは自分をひた隠しにして、どうにか大人の男を演じていたのだから。なのに、なまえは今の私の方が好きだと言ってくれる。だから、そんなことで悩む必要はないだろう。それに…
「付き合ったって振られるのは怖いよ」
「雑渡でもか?」
「なに。私でもって」
「いや、お前かなりの自信家だから」
「そう?」
「そうだろ。特に女にはかなり強気にいくし」
「あぁ。どうでもいい女に何と思われても構わないからね」
「あ、そー…」
「というか、佐茂は前の女の時も同じこと思ったでしょ?」
「いいや?」
「は?」
「いや、だって前世からの繋がりがあるから運命だとか勝手に思ってたし?嫌われるとか、離れるなんて思わなかった」
佐茂は煙を溜め息と共に煙を吐いた。私には佐茂の思考がよく分からなかった。私はなまえに嫌われることが怖い。前世からの縁があり、そしてまた、運命だと信じて疑わないが、もう私のことなど必要ないと言って離れていかれることが堪らなく怖い。どんなに縁があろうとも、ずっと好きでいてもらえる自信などない。だからこそ、なまえを大切にしないといけないと思っている。それは私が前世でなまえと死に別れたからなのだろうか。
この間、なまえは私に前世の記憶がなくても好きになったかと問いてきた。これは自信を持ってなまえを好きになったと言える。だけど、それはあくまでも長い時間一緒にいたらの話だ。恐らく、他の女のように冷たく接しただろうし、なまえを知るほど長い時間を共有はしなかっただろう。だから、間違いなく付き合うには至らなかった。自分の記憶がなまえと出会ったことで蘇ってよかった、と思う反面、記憶が蘇らなかったら私はどうなっていたのだろうかとも思う。引っ越してきたと挨拶に来たなまえを追い返し、二度と関わることがなかったのだとしたら、私は今も一人だったのだろうか。誰のことも信じられず、一人であの家で暮らし、毎日退屈だと思いながら過ごしていたのだろうか。隣に住むなまえのことなど微塵も気には掛けなかったのだろうか。それとも…
「おい、雑渡」
「…ん、あぁ。悪い、考え事をしていた」
「お前ならどうする?」
「私が佐茂の立場だったらってこと?」
「そう」
「好きと言うでしょ、そりゃあ」
「躊躇いもなく言えるか?」
「言える。だって、他の男に渡したくないし」
「あぁ、まぁ…」
「へぇー。北石のこと、そんなに好きなんだ?」
「…悪いか」
「悪くはないけど、個性的な趣味だとは思う」
「なまえちゃんが聞いたら怒るぞ、それ」
「いや、それよりもなまえが怒るとしたら…」
話をしていたら携帯が震えた。どうせDMだろうけど、と開くと、送り主はなまえだった。内容を見て、ゾッとした。
「…佐茂、お前、責任取ってよ」
「は?」
「これ…」
私が震えながら佐茂にメールを見せたら佐茂は首を傾げた。何故私が震えているのか理解出来ないのだろう。
メールには『今日、佐茂さんと会う機会を設けて頂けませんでしょうか』と書かれていた。怒っている。なまえは怒っている。それも、物凄く怒っている。怖い。会うのが怖い。だから佐茂を紹介なんてしたくなかったんだ。こんな面倒ごとに巻き込まれてしまった。私はこの件に関しては全く悪くない。なのに、どうして私まで怒られなければいけないというのだ。佐茂が責任を取るべきだ。だって、私は本当に何も悪くない。まさか佐茂が北石と寝るなんて思わなかったし。
佐茂はあっけらかんと笑いながら「じゃあ、今日飯に行こうぜ」と言った。この笑顔が凍ることになろうとも知らずに。
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