雑渡さんと一緒! 120


「何をそんなに悩んでいるんですか?」

「え?」

「ここ最近、ずっと何か悩んでいるようなので」

「…分かる?」

「見ていたら分かりますよ」


なまえは笑った。どうして分かるんだろう。普通にしているつもりだったんだけどなぁ、と思いながら、なまえの膝に寝転んだ。なまえは私の前髪を撫でてくれて、細い指が額をくすぐる。この幸せな時間が失われるのは嫌だけど、それでも私は進むべきなのだろう。後は覚悟を決めるだけだ。


「…部長に昇進しようか悩んでいる」

「えっ。遂にですか?」

「そー…ちょっと、目に余ってさぁ」

「今まで我慢していたのに?」


なまえは意外そうな顔をした。今まで我慢していたのに今更とでも言いたいのだろう。私だって、昇進なんてするつもりはなかった。使えない部長の仕事のほとんどをこなしていたし、売り上げは自ら差し出していた。そうしてまでも部長の椅子にあの男を座らせ続けていたのには理由がある。私が部長に昇進したくないからだ。今までは出なくてもよかった会議に出る必要がある。私を恨んでいる奴らと肩を並べて闘わなければいけなくなる。それは言いようのないストレスを受けることとなるだろう。それに、売り上げだって課長と同じレベルというわけにはいかない。もっと上を目指す必要がある。流石に、今の部長のように部下から奪うわけにはいかないのだ、相当な労力を要することとなるだろう。
では何故、部長になろうか悩んでいるか。それは陣内から聞かされてしまったから。私が使い物にならなくなってから復職するまでの間の出来事を。課長不在となって真面目に働いていたかと思えば、これまで私にそうしていたように陣内に仕事を押し付け、挙げ句の果てには新入社員から定年間際の社員の分まで自分の売り上げにしていたそうだ。あの男にはプライドというものがないのか。これ以上、図に乗らせるわけにはいかない。売り上げは今年定年退職する部下の退職金に関わる。必死に部下が働いてきた分は本人に還元してやらないわけにはいかない。だから、これまでずっと黙っていた陣内も私に報告してきたのだろう。申し訳なさそうに。


「部下たち、今までずーっと我慢していたんだって」

「どうしてですか?」

「私が結婚するから」

「結婚と我慢が何の関係があるんですか?」

「部長に昇進したら忙しくなるから、黙ってたんだって」


馬鹿でしょう、と私が言うと、なまえは笑った。本当に優しいですね、と。部下のことを指しているのかと思えば、私のことを言っているらしい。優しい、この私が。優しくなんてない。少なくとも、部下には厳しいつもりだ。決して甘やかしているつもりなんてない。事実、私は厳しい上司だろう。


「私が優しくするのはなまえにだけだよ」

「まだそんなそとを言っているんですか」

「どういうこと?」

「昆奈門さんは部下の人たちが不当に辛い思いをすることが嫌で部長に昇進しようとしているんですよね?」

「そうだね」

「それを優しさと言うんですよ?」


くすくすとなまえは笑った。そうなのだろうか、突然のことだと思うけど。上に立つ人間には責任がある。着いて来てくれる者を導かなければいけない。当たり前のことだ。
そっとなまえの頬に手を伸ばすと、手を重ねて来てくれた。


「で?結局、何を悩んでいるんですか?」

「昇進する必要があるけど、したくないなぁと思って」

「どうしてですか?」

「なまえと一緒にいる時間が減るから」

「そうなんですか?」

「多分ね」

「あぁ。じゃあ、いよいよLINEを始める時が来ましたね」

「嫌だよ、絶対に」


携帯の機能の5%も使いこなせていない私がSNSだのメッセージツールを使いこなせるはずがない。おまけに、聞くところによると今時の若い子は語尾に「。」を付けると怖がるだの、スタンプを送らないと冷たく感じるだの、既読をつけたのにすぐに返信しないと怒るらしい。私には無理だ、ただの連絡ツールにそこまで気など使っていられない。
なまえは私といて退屈ではないのだろうか。私は佐茂のように若い今時の文化に明るくない。若い奴を理解出来ないことも多々あるし、それに寄り添う気もない。無理だから。私のようなおじさんが何をしたって、無理なものは無理だから。


「ね、なまえはさ、私がいなくなったらどう思う?」

「どいういう意味ですか?」

「もっと若い男と楽しく過ごしたいと思う?」

「いいえ?」

「私が不在の時にも男と遊んだりしないでよ?」

「しませんけど…あれ、私、不貞行為をしそうに見えます?」

「見えない」

「じゃあ、何が言いたいんですか?」

「…仕事が忙しくて、構ってあげられなくても私のことを見捨てたりしない?ちゃんと私のことを好きでいてくれる?」

「?」


なまえは首を傾げてから短く返事をした。当然のように。
今の部長も若い頃はそれはそれは仕事熱心だったと聞く。だけど、家庭を顧みることをしなかった結果、家庭が崩壊してああなったそうだ。私は大丈夫だろうか。忙しいあまり、なまえを蔑ろにするようなことをしたりはしないだろうか。私にそのつもりがなくても、結果としてそうなってはしまわないだろうか。それが私は怖かった。だから、ならなくてもいいものなら部長になんてなりたくない。だけど、あれを引き摺り下ろせば私以外に成り代わる者はいない。


「私はここで昆奈門さんの帰りをずっと待ってます」

「…本当?出て行ったりしない?」

「ええ、多分」

「ちょっと!」

「冗談ですよ。私はね、お仕事を頑張っている昆奈門さんが好きなんです。大丈夫、あなたなら出来ますよ。既にたくさんの部下から慕われているような素敵な課長なんですから」


笑い掛けてくれるなまえの頭を撫でた。強い子だな、なまえは。私などよりも余程、頼り甲斐がある。
仕方がない、なまえがそう言ってくれるのなら動いてみようか。まだ嫌だけど、別に自信がないわけではないし。私が昇進することで今よりも少しでも働きやすい環境が作れるというのならば、やる価値もやり甲斐も少なからずあるだろう。
きっと、あまりの忙しさと重責で後悔することもあるだろけど、その時はなまえを頼らせてもらおうか。狭く、小さな私の心を受け止めてくれる、ただ一人の子なのだから。


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