雑渡さんと一緒! 122


自分の名前を書くことにここまで緊張したのは初めての経験だ。億を超える契約の時ですら緊張しなかったというのに。ドキドキとしながら判を押し、なまえに手渡す。なまえも心なしか緊張しているようで、ゆっくりと書き始めた。
まじまじと書き終わった婚姻届を二人で眺めてから目を見合わせた。ふわっと笑い掛けてくれたから、微笑み返す。


「これで夫婦になったんですね」

「まだ出してないけどね」

「あ、そっか。じゃあ、出しに行きましょう」

「ん…」


大切に婚姻届を鞄にしまって、車に乗り込む。随分と暖かくなってきた。来週はまた冷えるらしいけど。何なんだ、日本という国は。気候の変化が激し過ぎる。これで風邪をひくなという方が無理がある話だ。それでも私がこんなにも体調を崩さなくなったのは、間違いなくなまえのお陰だ。ちゃんとバランスのいい食事を摂っているし、夜更かしらしい夜更かしなんて滅多にしない。家はいつも適温に保たれているし、風呂も沸かして毎日入っている。人らしい暮らし方をすれば、ちゃんと身体は応えてくれるんだな、と驚いたものだ。
有給を取って市役所に来たわけだが、混み合っていた。春だから転入者や転出者が多いのだろう。普段なら別に待たされることは苦ではないけど、早く婚姻届を提出したくてそわそわと番号札を握り締める。それを見たなまえは笑った。


「落ち着いて下さい?」

「落ち着いてるよ」

「後は出すだけなんですから」

「そうだけどさ…あ!呼ばれた!」

「はいはい」


なまえは呆れたように笑っていたけど、私が今日をどれほど心待ちにしていたのか分かっているのだろうか。ようやくなまえと結婚出来る。なまえと夫婦になれる。認められる。
ドキドキとしながら婚姻届を提出すると、非常に事務的な対応をされて若干萎えた。あぁ、まぁ、向こうも仕事だしね。何にしても、戸籍上はなまえと夫婦になることが出来た。
デパートであらかじめ購入した指輪を取りに向かう。散々、迷いに迷って、ようやく決めた指輪。どのブランドにするかで悩み、どの指輪にするかで悩み、刻印するかで悩んだ物。私自身、指輪なんて初めてする。こだわりなんてないと思っていたけど、最後までこだわっていたのは私の方だった。


「わぁ、綺麗…」

「ん」

「ねぇ、早く着けましょう」

「後でね」

「後で?」


指輪を鞄にしまって、なまえの手を引く。煙草が吸いたくなったからカフェに寄って、珈琲を飲んでいると、なまえが早く早くと急かしてきた。何だ、なまえも楽しみにはしてくれていたのか。私が指輪を選ぶのを呆れた顔をして見ていたから、興味なんてないのかと少し寂しく思っていたのに。
私はアクセサリーには興味がない。だけど、結婚指輪は絶対に大切にしようと思っている。絶対に外さないし、絶対になくさない。新品の指輪の輝きがなくなっても大切に使い続けて、この指輪と共に生涯を終える。そう決めていた。


「ねぇ。どうして指輪をしないんですか?」

「だから、後でするって」

「後でっていつですか?」

「後では後で。とりあえず、報告したら?」

「何をですか?」

「義父さんに結婚したよーって」

「え、別にいいです」

「何で。してやりなよ」


絶対に喜ぶから、と言ったけど、なまえは嫌がった。まぁ、明日仕事で会うから私からも報告はするつもりだけど、実の娘の口から聞きたいものではないのだろうか。
いいから、となまえを促して店の外に出させる。ガラスから電話をしているなまえが笑っているのが見えて、本当に素直じゃない子だと思わず笑ってしまった。それは義父さんも同じだろう。親子というのは面白い生き物だ。いつか私にも子供が出来、そんな関係性となることが出来るのだろうか。
電話を終えたなまえは照れたような顔をして戻ってきた。


「義父さん、なんて?」

「おめでとう、と」

「よかったね」

「あれ、他人事ですか?」

「いいや?」

「それよりも、早く指輪がしたいです」

「そうだね。じゃあ、行こうか」


平日だから、駐車場も道も空いている。だけど、あと少ししたら帰宅ラッシュで混み合うことだろう。
高速を飛ばして初めて行った海の方へと向かう。海が見え始めると、なまえは二年前のように嬉しそうに笑った。あの時はまだ付き合ってもいなくて、なまえの気持ちを確かめることさえ怖かった。本当の自分を知られたくなくて、だけど、本当はありのままの自分を受け入れて欲しくて、自分でもどうしたらいいのか分からなかった。なまえの心が欲しくて欲しくて堪らなかった。なまえを自分だけのものにしたいと、そう願っていたことが最早懐かしい。
この二年、色んなことがあった。たくさん喧嘩をしたし、本音でぶつかり合うことも出来るようになった。潮江くんと和解することが出来たし、なまえは病に伏せたこともあった。それでもこうして私はなまえと一緒に過ごすことが出来ている。本当の私を知った上で受け入れ、側にいてくれた。
駐車場に車を停めて、小さな教会へと入る。本当に小さな教会だな、と入って驚いたけど、窓からは海が綺麗に見えた。


「わぁ、可愛い教会ですね」

「ね。前に来た時に小さな教会があるなぁと思って」

「えっ。そんな所まで見ていたんですか?」

「まぁね」

「…まさか、あの時から私と結婚する気でした?」

「流石にそこまでは考えていなかったよ。そもそも好かれていないと思っていたし。だから、あの時はなまえの心が欲しくて堪らなかった。本当の私を受け入れて欲しかったかな」

「受け入れていますよ、もうずっと前から」

「知ってる」


そんな贅沢な望みをなまえは叶えてくれた。なまえと付き合ったらまた来ようと思っていたのに、結局は来れなかった。恋人になったら来ようと思っていたのに、関係性は一つ先へ進んでしまった。あの時はこんなことになるなんて夢にも思わなかった。こんなにも幸せにな未来を得ることが出来るなんて、想像もしていなかった。
鞄から指輪を取り出す。あまりにもサイズが違っていて面白い。小さな指輪をなまえの薬指にそっと通した。なまえに指輪を贈るのは三度目か。ようやくお揃いの指輪を贈れる。


「ね、私の指にも挿れてよ」

「は、はい…」


そっと挿れられた指輪を見て、あまりの嬉しさに微笑む。市役所で婚姻届を出した時の何十倍も嬉しい。
なまえの薬指に唇を落とす。これでようやく、なまえの心だけではなく未来も私のものとなった。なまえの側にずっといてもいいと、私が誰よりもなまえを愛していると世間からも認められるようになる。あぁ、やっとだ。やっと叶った。


「私はきっと、これから忙しくなる」

「…昇進、決まったんですか?」

「まぁ、ほぼ確定だろうね。来月には内示が出る」

「おめでとうございます」

「あんまり嬉しくはないけどね。まぁ、なまえが何一つ不自由なく生活出来るくらいには稼いでは来るから安心して」

「別に私は昆奈門さんが元気なら、お金なんて要りません」

「そう、それ」

「はい?」

「思い出したんだ、今のなまえに初めて惹かれた時のこと」


潮江くんの家で聞かれてからずっと考えていた。今のなまえを好きになったのはいつだったのかを。
過去のなまえを追い求めていたはずなのに、気付いたら今のなまえを愛しいと思ったのは、確かコンビニで甘い物を買った時にお礼を言われた時だ。大した金額の物でもないし、死ぬ気で働いて稼いでいるから気にしなくていいと言ったらなまえは言った。「雑渡さんが健康に生きることが出来ないのなら、お金なんて最低限あればいい。それよりも、雑渡さんが元気でいてくれた方がずっと嬉しい。だから、死なないで下さい」と。そんなこと、女に言われたのは初めてだったから驚いた。私の価値は見た目と金くらいのものだと思っていたから。なまえが金よりも私の身体を気遣ってくれたことが嬉しくて、胸が締め付けられた。あれが明確に今のなまえを気にかけるようになったきっかけだった。まだ出会ってたったの五日程しか経っていなかったと記憶しているけど。


「なまえは私の価値を他に見出そうとしてくれた」

「そんな大袈裟なことはしていません」

「いいや?少なくとも私はそんな女はなまえ以外知らない。嬉しかった。なまえが私のことを認め、気遣ってくれて」


そっと頬に指を滑らせる。窓から夕陽の光がさしてきて、なまえの白い肌を赤く染めていく。これでまだ20歳なのか。末恐ろしいことだ、これからますますなまえは綺麗になっていくのだろう。きっと私はもっと夢中になってしまう。


「生涯、私はなまえを想い続ける。絶対に幸せにする」

「…もう、十分幸せです」

「なまえは欲のない子だ。もっと幸せにしたくなる」

「私、昆奈門さんを生涯、支え続けますから」

「神に誓ってくれる?」

「昆奈門さん、神様を信じているんですか?」

「いいや」

「罰当たりですよ」


笑うなまえの涙を拭う。神なんて信じていない。悪いけど、私は無宗教だ。だから、私は神になんて誓わない。なまえにだけ誓う。病める時も健やかなる時も、何もこの想いは変わらず、生涯、なまえだけを愛し続けると。


「なまえ、愛してるよ」

「はい。私も愛してます、昆奈門さん」


そっと触れるだけのキスをする。本当はなまえにはドレスを着せたかった。だけど、それは二年後の楽しみにとっておくことにした。なまえが大学を卒業してから結婚式は挙げることになっている。それでも、形だけでもいいから、ちゃんとした場でなまえに誓いたかった。
教会を出て、二人で海岸を歩いてみる。潮風がなまえの髪を揺らしていて、二年前と同じように髪を掻き上げる仕草がやはり綺麗だと思った。私が綺麗だよ、と言うと、なまえは驚いたような顔をした。二年前にも綺麗だと言ったけど、あの時は海が綺麗だと思ったことだろう。だけど、ようやく伝わった。なまえは頬を赤く染めながら微笑んでいた。
二年という歳月でこんなにも私たちの関係は変化した。結婚式を挙げる二年後にはまた今とは違っているのだろうか。だとすれば、どんな風に変わっているのだろうか。どんな風に変わったとしても、きっと身に余るほど幸せなことだろう。


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