雑渡さんと一緒! 123


婚姻届を出してから初めての土曜日。起きたばかりでまだ眠そうな顔をした昆奈門さんが「ごめん、忘れてた」と紙を出してきた。一体何なのだろうかと思って小さな紙を受け取ると、それは3月の給料明細だった。一、十、百、千、万…!?


「ひぇっ!」

「んー…?」

「こ、これ…っ」

「ただのしがないサラリーマンのひと月の給料だよ」


並んだ数字を冷静に数える。105万?105万!?
私があまりの衝撃に震えていると、昆奈門さんは何でもないような顔をして分厚い封筒を渡してきた。恐る恐る中を覗くとお札が山のように入っている。思わず落としてしまった。


「ぎゃあっ!」

「なに。その可愛くない声」

「私にこんな大金を見せてどうするつもりなんですか!?」

「いや、管理して」

「私がですか!?」

「他に誰がいるの。あー、あと通帳か」


ん、と本当に何でもないような顔をして昆奈門さんは通帳を差し出してきた。桁が多すぎて残高がいくらなのか分からない。数えるのも怖くて、慌てて昆奈門さんに突き返す。


「む、無理です!こんな大金を預かれません!」

「なんで。なまえは私の奥さんでしょ?」

「嫌です。怖いです。私には管理なんて出来ません」

「いいの?私が管理して。一瞬でなくなるかもよ?」

「どうして?」

「私が金額を気にせずに買い物をすることくらい、もう知っているでしょ?あ、でもなまえが管理してくれないのなら明日にでもギャンブルで何十倍にでも増やしてこようかなー」

「や、やめて下さい!」

「ね?はい、よろしく」


昆奈門さんは笑いながら煙草を手に取った。私があげた何のブランドでもない、ごくごく普通のオイルライターで火をつけて煙草の煙を吐き、壁をぼんやりと眺めている。どうしよう、やっぱりハイブランドなライターを贈った方がよかったのではないだろうか。いや、そんな金額のライターなんて私には絶対に買えないんだけど。
昆奈門さんは何かを考え込むように首を傾げて私を見た。


「な、何ですか…?」

「もしかして私、この家が持ち家だって言ってない?」

「も、持ち家!?」

「やっぱり言ってなかった?このフロアはね、あと二つ」

「二つ…?」

「そう。あと二つ部屋を購入出来たら、ワンフロア全て私たちの物になる。そうなったら壁を抜いて家を広く使おうね」

「ひぇっ…」


にっこりと笑う昆奈門さんのスケールが大き過ぎて私は震えることしか出来なかった。ワンフロア?ワンフロア!?
確かにこのマンションは新しくない。駅からも特別近いというわけでもないし、田舎町だから値段も大都会ほど高くはないだろう。中古で買うことになるわけだし。だけど、それでも決して安い買い物ではない。何、この人は何を目指しているの?富豪なの?昆奈門さんってまさか大富豪だったの?


「今ね、他の部屋は貸してるんだよ」

「わぁ、大家さん…」

「そう。なまえの住んでいた部屋の大家は私だ」

「そうなんですか!?」

「今はね、若いサラリーマンが住んでるみたいだよ」


トン、と昆奈門さんは灰を落とした。自慢げでもなく、今日はいい天気だねと言う時と同じテンションで言う昆奈門さんが最早、怖かった。私の住む世界では考えられない。


「こ、昆奈門さん…」

「ん?」

「け、結婚相手が私なんかでよかったんですか?」

「どういう意味?」

「私、昆奈門さんみたく稼げませんよ!?」

「うん。それで?」

「私は昆奈門さんの隣にいる価値はありません…」

「あぁ、価値ね。価値かぁ…」


昆奈門さんは努力家だ。それは仕事に対しても、それ以外に対しても。だから、昆奈門さんは何でもスマートにこなすことが出来るように見える。だけど、その裏ではたくさん努力しているのも、苦労しているのも知っている。その直向きさというか、ストイックさが昆奈門さんのかっこいいところだとは思っているけど、私はそんな風には生きられない。私に出来ることなんて大したことはない。昆奈門さんのように上昇志向のある人の隣で生活していくのは身分違いも甚だしいと感じた。私はそんな価値のある人間ではないし、価値のある人間にはなれない。これは卑下でも何でもなく、事実だ。


「なまえは私の価値は何だと思う?金を稼いでいること?」

「いいえ!こんなに稼げるだけの努力が出来るところです」

「へぇ?」

「周りから期待されただけ、それに応えられるよう頑張ろうとするところです。部下の方々のことも常に考えていて、人望があるところです。そして、それを当たり前のように出来るところです。私にはそんなこと、逆立ちしても無理です」

「逆立ちなんて、そもそも出来るの?」

「無理です」

「あはは。だろうね」


ふーん、と目を細めながら昆奈門さんは笑い、テーブルに置いた給料明細を見た。基本給もさることながら、歩合制なのであろう外勤手当てが物凄いことになっていた。これは昆奈門さんが努力した証だ。たくさん頑張っていることが、たった一枚の紙から嫌というほど伝わってくる。そんな想いをして得たお金を私なんかが管理なんて申し訳なくて出来ない。


「私は本当にいい女と結婚出来たものだ」

「は、はい?」

「なまえ。お前は自分の価値は何だと思う?」

「えっ…若さとかですか?」

「確かに若さとは時に価値があるものだろうけど、他は?」

「他?他に…あ、女子大生です!」

「あのね。私がそんなつまらないところに価値を見出しているはずがないでしょ。失礼なことを言わないでくれる?」

「…じゃあ、私の価値って何ですか?」


惨めになってきて、ちょっと涙が出そうになった。私の価値って何なのだろうか。大して可愛くもないし、スタイルもよくないし、頭もよくないし、お金だって持っていない。要領も悪いし、誰からも好かれるような社交性もない。
私が頭を抱えると昆奈門さんは馬鹿だね、と言って笑った。


「なまえの価値はね、私を支えてくれるところ」

「支えて…?」

「仕事を終えて帰ると夏には涼しく、冬には暖かい家でなまえは美味しいご飯を作って待ってくれている。ちゃんと私の健康のことを考えて作ってくれているバランスのいいもの」

「…そんなの、当たり前のことです」

「家はいつも綺麗に保たれていて、換気もされている。だから私は体調を崩すことが随分と減った。それに、なまえは私が努力していることを認めてくれる。だから、私はまた頑張れる。この金は私一人で稼いだものではない。なまえがいてくれたから得ることが出来たものだ。現に年収、増えたし」

「えっ。そうなんですか?」

「半年以上大した働きもしていなかったのに、1500万を超えたよ。この分なら今年は1800万くらいいくんじゃないかな」

「ひぃ…っ」


あまりにも非現実的な数値過ぎて、1800万円ってケーキ何個分なのかな…なんて現実逃避をしていると、昆奈門さんは私の左手を握った。そして、薬指に優しくキスされる。


「私は金に興味なんてない。価値もよく分からない」

「あぁ、お金持ち過ぎて逆に分からない的な?」

「さぁ。そうなのかもしれない。何にしても、年収や肩書きは私自身の価値を決める物ではないとなまえは言った。私が稼げなくなっても私の側を離れないと言ってくれたね。そんなことが平然と言えるところはなまえにしかない価値だよ」

「当たり前のことでは…?」

「ふ、どうだろうね」

「昆奈門さんはかっこいいからお金なんて関係ありません」

「見た目が?」

「いいえ。中身が」

「ふふ。そう」


くすくすと昆奈門さんは笑った。あれ、何か私、もしかして恥ずかしいことを言っている?
ちゅっと優しく唇にキスしてきた昆奈門さんは微笑んだ。


「先の収入がどうなるかなど分からないけど、妻としてこれからも私を支えては頂けませんか?女子大生のなまえさん」

「な、ば、馬鹿にして…っ」


にこにこと嬉しそうに笑う昆奈門さんは時計を見てから立ち上がった。今日は春ものの服を買いに連れて行ってくれるという。きっとまた、たくさん買ってくれる気だろう。
テーブルに積まれた昆奈門さんの資産を眺めてから私も立ち上がる。私は決してブランド品には興味がない。散財することも好きではないし、慣れていないから出来ない。こんな大金を管理しても、きっと使えずに貯金が増えていくことになるだけだろう。昆奈門さんの稼ぎに応えるだけの家事なんて出来ないし、何も私は変わらない。だけど、昆奈門さんがそれを望んでくれるというのなら、やっぱり私がした選択は間違っていなかった。
私はこの春から転科する。文学部で文字を眺めるよりも、栄養科で勉強した方がずっと昆奈門さんのためになると入院中に感じたからだ。実はこれはまだ昆奈門さんには内緒にしている。ちゃんと栄養士の資格を取り、昆奈門さんに還元出来るようになってから伝えるつもりだった。
昆奈門さん、待っていて下さいね。私、もっとあなたを支えられるように頑張りますから。だから、それまで倒れたりしないで下さいね。もうすぐ部長に昇進することが決まっているけど、きっと私はあなたを支え続けてみせますから。


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