雑渡さんと一緒! 154


「好きだよ」

「ん…」

「愛している。本当に愛しているよ」

「分かってる」

「本当?本当に分かってる?」

「分かってる…から、ここではやめて」

「どうして」

「ここ、カフェなの!人前なの!」


人前ではいけないのか、と言う昆を小突く。記憶を失くして落ち着いたかと思っていたけど、どうやら微塵も落ち着いていなかったようだ。相変わらず好きだとか可愛いと外でも言うようになってしまった。つまり、戻った。
スーツを購入した後に入ったカフェで愛を囁かれ、居た堪れなくなってきて思わず俯く。何だろう、この前怒った時から昆がおかしい。いや、ある意味平常運転なんだろうけど。


「…どうしたの、急に」

「いや、可愛いなぁと思って」

「だから、どうしたの」

「うん?」

「そんなこと、あまり言わなかったのに」


そう、昆は記憶喪失になってからはあまり愛情を言葉にしなくなった。それまでは一日20回は言っていたけど、どちらかといえばそっちの方が異常だろう。それでも、外ではやめてと言い続けていたら家でしか言わなくなったけど。
どんな心境の変化があったのか知らないけど、またそんなやり取りをしなければならないのかと思うと少し疲れてきた。


「多分ね、溢れた」

「溢れた?」

「そう。器に水を入れると溢れるように、愛情が溢れた」

「はぁ」

「大好きだよ、なまえ」

「分かったってば…」


周りからはクスクス笑われたり、羨ましそうな顔で見られたりしている。目の前の昆は惜しみもなく笑い掛けてきているし。本当に居た堪れなくて、美味しそうだったアイスカフェオレの味もよく分からなかった。
カフェを出てから暑いというのに肩を抱かれ、ぷらぷらと歩きながら洋服やアクセサリーを眺めていると、ふとピアスが目に入った。可愛いデザインのものだったけど、穴が一つずつしかない私には着けられないデザインのもので、昆にどうにかバレないように三つ目のピアスホールを開けたいなぁと思っていると、昆がとても不思議そうに首を傾げた。


「欲しいの?あれ」

「あっ、その…新しく開けたら…駄目だよ…ね?」

「何で?いいんじゃないの?」

「えっ」

「うん?別に私が咎めることじゃないでしょ」

「まぁ、そうなんだけど…」


本当にいいの?と昆に聞くと、何故私が許可を得ようとしているのかよく分からなそうだった。本当にピアスホールを開けることを何とも思っていなさそうだ。
きっと記憶を失くす前の昆だったらそんなことは許してくれなかった。自分を傷付けてまで得られるものなど何もないときっと怒った。それは私が過去に昆を遺して死んでしまったことが理由なんだろう。過去を忘れる、ということは、昆の考え方も変わってしまうということに繋がるのか…と思うと、何となく寂しくなってきて買うのをやめた。記憶を失くしてから昆は少し変わった。過保護ではなくなったし、懐かしそうに空を見上げたり、花を見つめたりしなくなった。それは些細な変化だったし、だからといって昆を好きではなくなるということもない。ただ、たまに寂しくなってしまう。
昆は不安そうに私の手を繋いだ。だから、何でもないよと笑い掛ける。すると、昆はとても寂しそうな顔をして俯いた。


「…ごめんね、本当に」

「なに?」

「なまえが好きなのはさ、私ではないんだよね」

「そんなことないよ」

「いいや。なまえは時々私を見ていない」

「…そんなことないよ」

「………」


私が否定すると、昆は私の頭を撫でてから帰ろうと言って歩き出した。後ろから見る大きな背中はピンと伸びている。記憶を失くす前の昆はほんのりと猫背で、仕事の時は背筋が伸びているんだから、普段もちゃんとして、とよく背中を叩いたものだ。すると昆はいつも私の背が低いから屈むことが昔からの習慣となっていると笑った。
私が昆が記憶喪失になったことで悲しんでいるように、昆も記憶を失くして悲しそうだった。覚えていないというのはきっと堪らなく不安なことも多いだろう。その不安の一部に私がなっているというのなら、それは決してあってはいけないことだ。だって私は昆のことが変わらず大好きだから。過去の記憶があろうがなかろうが、私の大好きな人であることには変わらない。それでも、きっと私は前の昆のことを忘れられない。過去の過ちを引きずるだけの優しさや弱さ、多くの大切な人を失った悲しさや悔しさ。そういう経過から成り立っていた昆は見る人が見れば少しおかしな人だったことだろうし、とても弱く見えたことだろう。だけど、あの人はそれに負けない強さがある人だった。そんな昆が私は好きだったから、私は彼を忘れられないし、忘れたくない。
運転席に座った昆に着いて行くと、怪訝そうな顔をされた。


「着いて来てどうするの。助手席に乗って」

「…好き。本当だよ、私は昆が好き」


ぎゅっと昆に抱き付く。車の中は蒸されていて暑かったし、狭い車内で横から昆に抱き付いたから体勢だって無理している。駐車場だから人も車も通るし、とても恥ずかしい。それでも、ちゃんと伝えたかった。不安にさせたくなかった。
きっとお互いに何と言えばいいのか多分、分からなかったのだろう。しばらく無言で抱き合っていた。暑くてじんわりと汗をかいてきたし、何か言葉を紡がないといけないと分かってはいたけど、どう言えばこの気持ちが伝わるのかがよく分からなくて、何と言ってもきっと私の想いは伝わらないような気がして昆を抱き締め続けた。車内はとても静かで、お互いの腕に着けている時計の秒針が時を刻む音だけが響いた。


「…好きになればなるほど、不安になるんだ」

「不安?」

「なまえが求めている自分になれているだろうか、と」

「…私はそんなこと望んでいない」

「そうだろうか。なまえが好きなのは私ではない。記憶を失くす前の、多分今の私ではない私を好いているでしょ?」

「………」

「好きになればなるほど分かってしまう。なまえは私を求めているわけでは、私を好いているわけではないのだと…」


昆が悲しそうな声を出した後、また車内が静かになった。だけど、また静寂を破ったのは昆だった。重い溜め息を吐いてから、言っても仕方のないことだと私を離した。そして、作ったような笑顔を私に向けてきた。やめてよ、そんな悲しさや寂しさを隠すような笑い方は。私、分かってしまうんだから。あなたにそんな風に笑い掛けられたって嬉しくなんてない。私が見たいのは、あの子供のように笑う昆なの。誰にでも向けるような笑顔なんて私は要らない。
私は無言で車に乗り、駐車場に車を停めてから丘に行きたいと行った。私と昆が過去に何度も夕陽を見た、二人の遺体が眠っている丘。昆が私にプロポーズしてくれた、大切な思い出のある丘。別にここに来たら何か思い出してくれるだろうかなんて考えていたわけではない。どちらかといえば、過去にお別れをするために来たいと思った。昆は昆だ。記憶があろうがなかろうが、私の好きな人だし、大切な人。思い出なんてまた作り直せばいい。悲しい過去の記憶なんてない方がきっといい。そんなものがなくても昆は私を好きになってくれたし、私も昆を好きになった。それでいいじゃない。


「わぁ、街が真っ赤だね」

「へぇ、これは見事だね」

「ね、タソガレドキ社から家って見えるの?」

「見えるよ」

「そっか。じゃあ、今度手を振るね」

「流石にそこまではっきりとは見えないよ」

「昆は目がいいじゃない」

「2.0で捉えられるほどは近くないから」


そうかなぁ、と私が言うと、昆は呆れたように笑った。ようやく昆の笑顔が見れて安心した私は夕陽に向かって手を伸ばした。それはほとんど無意識な行動だった。


「…何をしているの」

「いや、何となく」

「まるで掴めそうって?」

「そう。私には無理だけど、昆になら出来るよ」

「出来るわけないでしょ」

「そうかなぁ。何でも出来そうなのに」

「私を何だと思っているの」

「凄い人」

「過大評価だし、限度があるよ」


まぁね、あの大きな夕陽が掴めるなんて私だって思っていない。だけど、昆は欲しいと思うものは何だって手に入れる人だった。それだけの努力を惜しまない人だったから。
さようなら、雑渡さん。愛していました。それでも、私はこの人が好きなんです。あなたとはどこか違う人だけど、不思議と惹かれるものがありました。だから、過去のことを忘れてしまった昆のことを許してあげて下さい。きっとその方が彼は幸せだった。だから忘れてしまったんだ。辛かったことなんて覚えていない方がいい。今を楽しく生きられればそれでいい。忘れていても、何も寂しいことなんてないんだ。


「夕方なのに暑いね。帰ろうか」

「………」

「昆?」

「…どうしてだろう。懐かしい気がする」

「それはそうだよ。何度も来たもの」

「なまえと?」

「うん」

「そう…だから、こんなにも苦しいのかな」

「苦しい?」

「何故だろう。凄くつらい…」


ぽろっと昆は涙を流した。だけど、昆自身がどうして泣いているのかよく分からないようだった。
私がそっと昆を抱き締めると、昆は私を抱き返しながら泣いた。つらいとか、苦しいとか、悲しいとか言いながら。だけど、どうして自分がそんな気持ちになるのか分からないようだった。私はその気持ちだけでもう十分だった。こんなにもあなたは過去のことを悔やんでくれていた。やり直したいと願ってくれていた。私のことを深く愛してくれていた。
そっと涙を拭うように手を伸ばすと、昆は目を閉じて私の手を頬へと持って行った。こんな何気ない仕草までも昆と同じなのに、私は昆を不安にさせるほど失ったものを追い求めていた。とても失礼なことをしてしまったし、出来ることなら改善していきたい。苦しみながらも私と一緒にいたいと思ってくれた人をこれ以上悲しませたくないと、そう思った。


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