雑渡さんと一緒! 153


「おう。お疲れ」

「そっちこそ、お疲れ」

「近々、飲もうぜ」

「あぁ、そうだね」

「雑渡の家で飲ませてくれよ」

「なんで」

「照から聞いたけど、なまえちゃんのご飯、料理人並みに美味しいんだろ?是非とも御相伴に預からせて貰いたくて」

「嫌だね。なまえのご飯は私だけのものだ」

「心が狭いなぁ、相変わらず」

「煩いよ。飯なら彼女に作ってもらえ」

「いいだろ、一度くらい。な?」

「嫌だって」

「ちっ。もう、なまえちゃんに店出させろよ」

「無理。誰にも分け与えたくない」


喫煙所で佐茂に会ったかと思えば、不快なことを言われて思わず眉を顰める。なまえの作るご飯は確かに美味しい。店を既に持っていると言われても納得出来るレベルだ。我ながら非常にいい嫁を貰えたものだと記憶を失くす前の自分を褒めたくなる。あんなにいい子とよく知り合え、そして、よく私のような男が落とせたものだ。
が、なまえの作るご飯は私だけのものだ。あんなにも美味しいご飯を人に食べさせたくはない。つまらない独占欲かもしれないが、優越感に浸れる。なまえの作るご飯の味は私だけが知っていれば、それでいい。せいぜい羨ましがるがいい。
指で煙草を弾くと、灰が下に落ちた。スラックスに穴が開いたかもしれない。あーあ、やってしまったと私が溜め息を吐くと、佐茂がガタガタと震え始めた。何なら青ざめている。


「お、お前…なまえちゃんに怒られるぞ」

「あー。そうかもね」

「なに呑気なこと言ってんだよ!なまえちゃん、怖いぞ」

「へぇ」

「知らないからな…」

「何をそんな、大袈裟な」


あのなまえが怒るといっても可愛らしいものだろうに。言いくるめてやれば、大人しく黙るだろう。ま、今度の休みにスーツを買いに行けばいいだけのことだ。
と、思ったのが6時間前。で、私は今、土下座をしている。


「私、言いませんでした?次は許さない、と」

「…はい。すみません」

「ふふ…嫌だなぁ。そんな、土下座なんてならさないで下さいよ。いつもみたく、堂々としておられればよろしいのではありませんか?ねぇ、私、何か間違っていますでしょうか?」

「う…っ」


あまりにも怖くて自然と身体が震えた。なまえの背後に般若が見えるようだ。なのに、なまえはとても穏やかに笑っているように見える。それがまた怖い。そして、この丁寧過ぎるほどの話し方からひしひしと怒りが伝わってくる。言い訳などさせはしないと言わんばかりの冷たい視線、退路を絶たれた上で詰め寄ってこられるような話し方。何もかもが恐ろしかった。これがなまえの怒り方なのか。怖い。怖過ぎる。
とても、休みの日に一緒にスーツを選んでくれとは言い出せそうもない。というか、目の前の夕飯にもありつけそうもない。こんなにも美味しそうな赤魚の煮付けが用意されているというのに、恐怖のあまり胃に入っていきそうもない。


「ま、誠に申し訳なく思っています…」

「あら。何を申し訳なく思っておいでで?」

「ス…スーツを焦がしてしまい、本当に申し訳ありませんでした!深くお詫び申し上げますので、どうかお許し下さい!」

「ふ…」


なまえは薄く笑った。怖過ぎて直視できない。あれ、なまえってこんな顔をして笑う子だっけ。もっと、あどけなくて可愛い笑顔を向けてくれる子じゃなかったっけ。
ガタガタと私が震えていると、なまえは先日焦がしたネクタイを投げつけてきた。確か、捨てたと記憶しているのだが。


「貴方、仰いましたよね?反省している、と」

「…はい」

「で?反省とはどういう意味だったのでしょうか」

「こ、怖…っ」

「はい?よく聞こえませんでしたので、もう一度仰って頂いてもよろしいでしょうか?まさか怖い、と仰いましたか?」

「いいえ!」

「そうですか。で?どうなさるおつもりなんでしょうか?」

「こ、このまま着ようかなぁ…なんて」

「あら。仮にも部長であられる貴方が焦げたスーツを着て出勤なさるおつもりなんですか?どうかと思いますけれど」

「…ほ、本当にごめんなさい!許して下さい!」


頭を擦り付けるように土下座する。自然と頭が垂れた。腕を組んで仁王立ちしていたなまえは私の頭をそっと撫でた。許しを得られたのかと思い頭を上げると、ゾッとした。20過ぎの女がする顔をしていない。まるで上司のような、いや、冷酷な支配者がするかのような恐ろしい顔をしている。
なまえは普段はとても優しい。懐が深いから大抵のことは許してくれるし、私のことを受け入れてくれていた。だけど、今、目の前にいるなまえはそんな雰囲気などは微塵もない。


「罰として禁煙なさって下さい」

「えっ」

「嫌とは言わせませんから」

「む、無理…かなぁ」

「あら。じゃあ、もう二度と私は許しませんよ、雑渡さん」

「ひ…っ」

「さぁ、お選び下さい?禁煙なさるか、私の許しを得るか」


禁煙。そんなもの、出来るのならとっくの昔にしている。私にとって煙草は生活の一部だ。朝起きたら煙草を吸わないと目が覚めないし、帰宅して吸わないと仕事が終わった気がしない。無理だ、禁煙なんて私には出来そうもない。
私は代案を出した。好きな物を買ってやる、とも、好きな所に連れていってやる、とも言った。だけど、なまえは睨みつけてきた。愚かだ、と言わんばかりに。


「私は貴方の妻です。家計は同じなのですよ?」

「そう、だね…」

「無駄遣いは私にとっても不利益ですので結構です」

「じ、じゃあ、お小遣いを減らしてもいいから…」

「あぁ。じゃあ、今月は一万にしましょうか」

「い、一万…」

「スーツが幾らするとお思いですか?スーツが買えるだけのお金が貯まるまでは、ずーっとお小遣いは一万にします」

「………」


これは、どちらが正しい選択なのだろう。禁煙か、一万か。今月の小遣いは十万だ。そんなには必要ない。だけど、一万だと煙草も酒も買うことが制限される。昼も満足には食べられないだろう。いや、だけど禁煙よりはマシなのだろうか。少なくとも一日一本は吸えるのだから。
一万で、と私が言うと、なまえは出来るものならやってみろと言わんばかりに鼻で笑った。早々に音をあげると思っているのだろう。舐めないでもらいたい。これでも根性だけはある方だ。一度決めたことをそう簡単に覆えしたりはしない。


「見物です、貴方がどこまで耐えられるのか」

「ほう…言ったね。私はやる時はやる男だ」

「そうですか。ふふ…それは楽しみで仕方がありません」


喧嘩のような会話をして、私たちは夕飯にありついた。馬鹿にしないでもらいたい。一万だろ、煙草が一箱580円で、ビールが一本300円ほどとして…あれ、無理か?無理なのか、もしかして。あれ、一万て…あれ、無理だ。無理だ!
煮魚を崩すなまえに前言撤回を求める目線を送ったが、ふ、と笑われるだけだった。普段、金額を気にせずに買い物をしている私が一ヶ月一万で生活するのは不可能だ。これなら禁煙した方が…いや、禁煙は無理だ。苛々して確実に周りに当たり散らすことは目に見えている。なまえにもきっと心無いことを言ってしまうことだろう。それだけは避けたかった。
そんなわけで、ボーナスの支給も近いというのに、節約生活が始まった。財布から金を抜き取られ、一万しか入っていない薄い財布を見て溜め息が出る。こんなことなら煙草を吸う時に気を付けていればよかったと、遅いながらも後悔した。


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