雑渡さんと一緒! 133


「わ、ぁ…っ」

「ほら、行くよ」

「え、あ…っ」


あまりの人混みに呆然としているなまえの手を引いて駅まで歩く。見渡す限り人しかおらず、手を繋いでいないと絶対に見失うことだろう。なまえは歩きにくそうによたよたと歩いていた。地元から出た経験が少ないと言っていたけど、本当にこんな都会を歩いた経験がないのだろう。
東京という街は本当に人が多い。見えるのは人とビルばかりといっても過言ではない程だ。そして、電車の混雑具合も尋常ではない。うんざりとしながら下車し、ホテルまで歩く。


「こ、ここが六本木…あの、あの有名な…」

「はいはい。いいからチェックインするよ」

「チェックインって15時ですよね?」

「あぁ。昨日から抑えているからもう入れるよ」

「え!?も、勿体無い…っ」

「私の仕事が終わるまでなまえが休める所がないからね」

「カフェで待ってるから別によかったのに…」

「6時間以上も?」

「ほ、ほら!服を見に行ったりとか…」

「迷わない自信があって言っている?」

「…いいえ」


勿体無いはずはない。これは安心料なのだから。
なまえは間違いなく東京を一人で出歩いたら迷子になることだろう。それどころか、何かよくない事件の一つに巻き込まれたとしても何ら不思議ではない。東京はよくも悪くも人が多い。なまえがあからさまに困った様子を見せて、どこかの男に声を掛けられているのではないかと思うと気が気ではなくて仕事の話なんて出来る気がしなかった。よって、何も勿体なくない。私の心の平穏がたかだかホテル一泊の料金で買えるのなら、むしろ安いくらいだ。
私は絶対に連絡するまではホテルから出るなとなまえに伝え、取り引き先へと向かった。うちと変わらない位の大きさのビル一つ東京に構えているのだから、田舎にあるタソガレドキ社よりも地位としては遥かに上であろう。今は、ね。
受け付けを済ませて案内された会議室はいかにも金を持っていますといった感じ。これは心して掛からないといけないな、と思っていると、ノックされて男が二人入ってきた。


「あぁ、雑渡さん。わざわざありがとうございます」

「いえ、こちらこそ…っ」


一人は社長、もう一人は営業の者だろう。年は私よりも少し上くらいか。その男を見てゾワっとした。言いようのない嫌悪感を感じる。人当たりのよさそうな笑顔も、物腰の柔らかい話し方も全てが嫌な感じがする。
交換した名刺に書かれた名前に覚えはなかった。つまり、この男とは初対面のはずだ。なのに、鳥肌が止まらない。


「タソガレドキ社と比べると小さな会社でお恥ずかしい」

「これはまた、ご謙遜を」

「とんでもない。雑渡さんのお話は常々伺っておりますよ」

「それは光栄なことです」

「ふふふ。では、始めましょうか」


差し出された書類には到底納得の出来ない条件が記載されていた。舐めないで頂きたい。私が何故、この若さで部長に昇進出来たと思っているんだ。単に上が能無しだったからだと思われては困る。
ここから先は頭脳戦だった。飛行機の中でなまえの作ってくれたお弁当を口にしておいてよかったと心から思った。お陰で脳が冴え渡っている。そして、私は悪いが逆境に弱くはない。売られた喧嘩は買うし、決して負けはしない。
決して良いとは言えず、それでも、悪くもない条件で無事に提携を結ぶことが出来た私はホッと胸を撫で下ろした。この条件から始めて、ゆっくりとこの会社を食ってやればいい。
書類をまとめて会議室を出ると、後ろから男が着いてきた。


「流石ですね、雑渡さん」

「…いいえ。そちらこそ」

「ふふ、そんな警戒なさらないで下さい。どうです?この後、一緒に昼食でも。美味い店を幾つか知っているので」

「残念ですが、妻を待たせていますので」

「妻。あぁ、雑渡さんは既婚者でしたか」


ふ、と笑う顔に悪意を感じる気がした。何故だろう、この男と関わってはいけない気がする。だけど、私は初対面だ。過去の記憶を洗ってみても、こんな男は知りもしない。
会釈をしてから私はホテルへと急いだ。早くなまえに会いたい。この目でなまえが無事であることを早く確認したい。


「お、お疲れ様で…わぁっ!」

「なまえ…」


ぎゅうっとなまえを抱き締める。よかった、無事で。
ようやく安心出来た私は力が抜け、しばらく動けなかった。とても出歩けそうにない。ホテルを取っておいてよかった。


「…どうしたんですか?上手くいかなかったんですか?」

「いいや。上手くまとまった」

「では、何か辛いことでもありましたか?」

「いいや。ただ…」


不安で仕方がない。あの男といるとなまえを失うような気がする。関わりなんてないはずなのに、近寄っては危険だと本能が騒ぐ。漠然とした不安があって気味が悪い。
なまえは私の頭を悪夢を見た時と同じように優しく撫でてくれた。不安は消えないけど、すうっと息が楽になる。


「なまえは私が守るから。何があっても絶対に守るから」

「はぁ」

「だから、大丈夫…」


自分に言い聞かせるように私は口にした。なまえは私がこの身を挺してでも絶対に守る。誰にも傷付けさせはしない。
そっとなまえにキスしてから私は着替え、二人で出掛けた。仕事はこれで終わった。後は東京を観光するだけだ。なまえと行きたい所を二人で出し合い、事前に決めていた目的地へと向かう。これから振替休日も入れて四日も休みがある。二人で色んな所に行って、たくさん思い出を作ろうと話した。何日も前から私は今日をとても楽しみにしていた。なのに、言いようのない不安はなかなか消えてはいかなかった。


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