雑渡さんと一緒! 143


なまえ、ね。確かに戸籍謄本に記載されている。この春にどうやら私は本当にあの女と結婚したらしい。まだ成人して間もないような、幼い女と私が。特別可愛いだけでもなければ、綺麗なわけでもない。大人しそうで、丸め込むことが簡単そうな、頭の悪そうな女だった。ということは、あの女を婚姻関係に置いておくことで私に何らかの利益があったということなのだろう。そうでなければ私が結婚などするはずがない。初めから利益がなくなれば離婚するつもりだったのだろう。私は別に誰とも結婚などする気はないのだ、戸籍にバツが一つや二つ付いたくらいのことなど気にもしない。
帰社して、押都にあの女のことを調べさせることにした。どこの大企業の令嬢だか知らないが、場合によってはまずいことをしてしまったかもしれない。突き飛ばしてしまったのだから。機嫌を損ねないよう立ち振る舞う必要があるのだとすれば、少々面倒だ。まぁ、単純そうな女だから、適当な言葉を並べて転がしておけばいいだろう。もう我が社に必要のない存在なら、さっさと離婚しよう、と離婚届を持ち帰った。


「押都。なまえという女はどんな女だ」

「どんな、とは…」

「どこの企業の令嬢だ」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味だ。あの女にはどんな価値がある」


私がそう言うと、周囲から残念そうな目で見られた。その目線が不快で、何事かと睨む。誰にそんな目をしている。
押都は私の命令には基本的には背かない。だが、なまえという女について調べることも、情報を教えることも拒んだ。押都がこんなに頑なに拒むことなど初めてかもしれない。


「何故、言えない」

「あなたに怒られますので」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ」


押都は悲しそうに笑った。こいつ、まさか係長に昇進したから調子に乗っているのか。何にしても、押都は使えそうにもない。ならば、自ら調べるしかないだろう。面倒だが、あの女と接触しなければ。
昨日、家に帰ると家にはたくさんの荷物があった。知らない服、知らない家具、知らない雑貨。とても自分の家とは思えないほど物に溢れていた。自分の家のはずなのに落ち着かなくて、全然眠れなかった。無駄にベッドは大きいし。
溜め息を吐いていると、陣内が恐る恐る話し掛けてきた。何か思い出したか、と。私が首を横に振ると、陣内は俯いた。


「お前たち、あの女のことを知っているな」

「…はい。存じております」

「あれは誰だ。どういう経緯で私と結婚した」

「一言で言えば、大恋愛であったかと」

「は?誰が?」

「部長となまえさんです」

「ほーお?それは面白い冗談だね」


恋愛。それも、大恋愛。私と、あのガキが。そんなこと、あるはずがないだろうと私が鼻で笑うと、陣内は溜め息を吐いた。その溜め息の深さに不快になった。
病院で目が覚めてから部下が私を見る目が違っていた。悲しそうで、なおかつ憐れむような、他の誰かを求めるような目で見てくる。実に不快だった。私は今までこんな目で見られていただろうか。少なくとも、こんなに職場の居心地が悪いとは思っていなかったはずだが。何なんだ、こいつらは。
喫煙室に行き、苛立つ気持ちを昇華するように煙草を吸い始めると、同期が笑い掛けてきた。相変わらず馴れ馴れしい。


「よぉ。また荒ぶってんな」

「………」

「話くらい聞いてやるぜ?」

「…煩い。話し掛けてくるな」

「おー怖…あれ、お前…、どうしたんだよ、その顔?」

「は?」

「あれ、なんか…」


佐茂は戸惑ったような顔をした。ただの同期程度にもこんな顔をされる筋合いは絶対にない。私は不快で煙草を投げ捨てて、喫煙室を出ようとした。ここも居心地の悪い場だった。



「おい、待てよ」

「触るな」

「おい、雑渡。どうしたんだよ?」

「煩い。ウザい」

「…なんか、なまえちゃんと会う前に戻ったみたいな顔しちゃってどうしたんだよ?まさか喧嘩でもしたのか?」

「佐茂はなまえという女を知っているの?」

「まぁ、それなりに?」

「あれはどんな女だ?何故、私と婚姻関係にある?」

「んん…?どうしたんだよ、雑渡…」


佐茂は戸惑ったような声を出して私の顔をジロジロと見てきた。まるで私のことを知らない人間であるかのように扱うようで甚だ不愉快極まりない。
こいつからも情報は引き出せそうにないと判断した私は喫煙室から出てエレベーターに向かった。居心地の悪い職場だ。そもそも、何故私はこんな会社に執着していたのだろうか。こんな無駄に忙しく、居心地の悪い環境ならば転職してもいいかもしれない。そうだ、そうしよう。そもそも何故、私は今までこんな会社に固執していたのだろうか。無駄に古風な社長にも恩義など微塵もないし、部下も私を憐れむような目で見てくるし、こんな会社など辞めて転職した方がいいだろう。だいたい、家から遠いし。ヘッドハンティングなど頻繁にされているのだ、職には困るまい。帰宅して退職願を記載する意思を私が固めていると、追いかけてきた佐茂に腕を掴まれた。人肌が気味悪くて、振り払う。


「触るな、気色悪いんだよ」

「お前、まさか、あの噂は本当なのか…?」

「噂?」

「なまえちゃんを忘れたって、お前の部下が泣いていた」

「泣いていた?へぇ…くだらない」


それが本当だとするのならば、何と滑稽なんだろうと思った。部下が口を揃えて言うように私となまえが婚姻関係にあり、なおかつ大恋愛の末に結ばれたのが事実だとするなら、何故私はあの女を覚えていない。あの女だけを忘れる、そんなことがあるはずがない。仮にあったとするのならば、私にとってあの女は大した存在ではなかったからだろう。現に、あの女など側にいなくても何ら私は変わらない。初めからいなくてもいい存在だったのだ。だから、忘れたのだろう。


「あの女など私には必要ない。私は一人でいい。結婚など私には不可能だ。他人と暮らすなんてことも、女と心を通わせることも私には出来ない。女なんてただの道具に過ぎない」

「…成る程?」

「ま、近いうちに離婚することになるだろう。じゃあ」


営業部へと戻るため、エレベーターのボタンを押す。時計を見ると、14時過ぎだった。今日は22時過ぎには帰れるだろうか。コンビニで弁当と酒でも買って退職願を書き、あの女について調べなければ。無駄に忙しくてうんざりする。
ただ帰るだけの家とはいえ、あの家は古い。退職ついでに売り払って引っ越すことにしよう。あんな古いマンションの全てを我が物にしようなんて何故思ったのだろう。何の縁もない、ただの古いマンションだというのに。思い返せば、私は不可解な行動が多い。職場からも遠いマンションを自らの物にしないと気が済まない、何の恩もない会社に執着する。本当に馬鹿げている。無駄な時間と金を使ってしまった。


「…お前、どこまで忘れてんだよ?」

「どこまで、とは?」

「組頭だった頃のことは覚えてんのか?」

「組頭?どこの組織の話をしている」

「マジか…あぁ、そうか。そうか…」

「お前ともこれで会うのは最後か。せいぜい頑張りな」

「待てよ。どういうことだ」

「同期のよしみとして教えておいてやろう。私は退職する」

「退職!?」

「こんな会社など、いても仕方がない」

「あぁ…お前、本当になまえちゃんがいないと駄目なんだな」


佐茂は残念そうに私に言った。その表情があまりにも不快で、エレベーターのボタンを叩きつける。
どいつもこいつも何だというのだ。私は私だ。何も変わってなどいない。なのに、誰も私を見ようとはしない。そんなこと、慣れているはずだった。私の価値などたかが知れているのだから。なのに、信頼していたはずの部下どころか、同期にまであんな顔をされるなんて。信頼…いや、信頼など初めからしてはいない。私は一人だ。生涯、一人だ。誰も私を理解しようとしない。だから、私も誰も理解しない。そうやって生きてきたはずだ。なのに、私は何を期待していたのか。
あぁ、苛々する。人生など何も楽しくない。退屈で仕方がない。怪我をするまで私はどんな気持ちで生きていたのだったか。どんなに考えても何も思い出せなかった。


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