雑渡さんと一緒! 144


「なまえ、こんなところで何をしているの」

「あれ、昆奈門さん…?」

「私は先に行っているよ」

「えっ、待って。すぐに用意するから…」


昆奈門さんに手を伸ばしたら目が覚めた。知らない天井、知らないベッド。一人ぼっちの空間に泣きそうになった。
昆奈門さんが記憶をなくした翌日、私は学校帰りに家に帰った。テーブルの上にはお弁当の容器とおにぎりのフィルム、缶珈琲、それと、未使用のコンドームが置いてあった。思わずギョッとして寝室を開ける。誰もいなくてホッとした。寝室のゴミ箱には特に何も入っていない。
ソファに座って、ぼんやりと空を眺める。この家はこんな雰囲気だっただろうか。もっと、過ごしやすかった気がしたけど。それに、いつもよりも心なしか荒れている。中途半端に開かれたカーテン、開きっぱなしのバスルームのドア、灰皿からはみ出た煙草の灰。たったの一晩で何があったのだろうかと思うほど、家は私が知っているものとは違っていた。
お弁当のゴミを片付けていると、ゴミ箱に破られた紙が入っていることに気付いた。何か重要な書類でも千切って捨てたのだろうかと思い眺めてみると、私が渡した手紙とメモの残骸だった。昆奈門さんが手帳に大切に挟んでくれていた、私がどんなに捨てて欲しいと頼んでも捨ててはくれなかったものだ。それを見て、現実が急に襲ってきた。
昆奈門さんは私のことを何も覚えていない。私のことなんて何とも思っていない。私のことを愛してくれていた昆奈門さんはもう、どこにもいない。そう分かってしまった。
悲しくて、どうしたらいいのか分からなくて泣いていると、電話が鳴った。涙を拭って出ると、相手は山本さんだった。


「あぁ、よかった!いま、どちらにいますか?」

「…家です」

「すぐにホテルにお戻り下さい」

「どうしてですか?」

「部長は過去のことさえ忘れておられます。我々に対する態度でさえ厳しいものです。あなたにまで危害が及んでしまっては部長に怒られますので、どうかホテルでお過ごしを」

「………」


それは、記憶が戻った昆奈門さんのことを言っているのだと分かった。山本さんをはじめとした部下の人たちは記憶を失くす前の昆奈門さんを求めている。だけど、だったら今の昆奈門さんは誰が必要としているの?あの人は一人になってしまう。あんなに寂しがりやの人なのに…
私はどうするのが正解なのか分からなかった。昆奈門さんは人に受け入れてもらいたがっていた。本当は一人で寂しかったと言っていた。そんな昆奈門さんはもういないの?記憶がなくなっただけで、彼はそんなにも変わってしまったの?
うだうだと悩んでいると、また携帯が鳴った。今度の相手に驚いて、私は思わずディスプレイをまじまじと見た。


「なまえ?今日、会えないかい?」

「お婆ちゃん…」

「お婿さんを紹介してくれるんだろ?」

「お婆ちゃん…お、お婆ちゃん!」


私はお婆ちゃんの声を聞いて安心してしまい、泣いた。お婆ちゃんに慰めてもらいたくて、意見を聞きたくて、駅前にあるカフェで会うことにした。
よく昆奈門さんと来たカフェでいつものように珈琲とケーキを頼む。よく昆奈門さんはそんな甘そうなケーキがよく食べられるね、と笑っていた。そんな思い出が溢れ出てきて、私が人前だというのに泣いていると、向かいの席に無言で黒い皮のパンツと革ジャン姿の女性が座った。お婆ちゃんだ。


「なまえは相変わらず泣き虫なようだね」

「お婆ちゃん…」

「で。お婿さんの件はどうなったんだい?」

「お婿さん…」


昆奈門さんはお婆ちゃんに会いたがっていた。だけど、今はもうそんなことは思ってもいないだろう。私にでさえ会いたがろうとはしないことは明らかだった。
私はお婆ちゃんに泣きながら今の状況を説明した。昆奈門さんが怪我をして記憶を失くしたこと、私のことを拒絶するようになってしまったこと、家には避妊具が置いてあって、これから浮気をされてしまうかもしれないこと。
話せば話すほど悲しくなってきて、私がまた泣き出すと、お婆ちゃんはハンカチを手渡してきて溜め息を吐いた。


「なまえが結婚したと聞いて大人になったと思ったけど、どうやらそれは私の思い違いだったようで残念だよ、本当」

「…どういうこと?」

「人の本質なんて、そう簡単には変わらないものさ」

「昆奈門さんは昆奈門さんってこと?」

「なまえはその昆奈門て男のことをちゃんと見たのかい。本当に何もかも、変わってしまったのかい?微塵も面影がない程に変わったというのなら、それは偽りではないのかい?」

「…偽り?」

「お婿さんは自分を偽るような人だったんじゃないのかい?本当の自分なんて誰にも見せはしないような人なんじゃないのかい?だとするなら、彼は今、彷徨っている。それをなまえが支えなくて誰が支えるんだ。なまえはお婿さんの何?」

「…奥さん。私は、昆奈門さんの奥さん」

「だろ?だったら、ちゃんと彼を見てあげなさい」


お婆ちゃんは馬鹿だね、と言って珈琲を飲んだ。私…私は記憶がなくなった昆奈門さんのことをちゃんと見ただろうか。自分が傷付くのが怖くて、一歩引いていた。
昆奈門さんは例え私のことを覚えていなくても、変わってしまっても、本質は同じなのだろうか。誰かに受け入れてもらいたいと思いながら人を拒み、自分は一人なんだと拒絶しては寂しがっているのだろうか。だとしたら、私はどうしたらいいんだろう。彼に受け入れてもらえなくても、突き放されても、側にいるべきなんじゃないだろうか。例え、結果として私が傷付いたとしても、昆奈門さんを私は支えたい。


「…お婆ちゃん、ありがとう。私、頑張る」

「そうだね。そうしな」

「あーあ。本当は昆奈門さんに会わせたかったのに」

「そうだね。今度、グアムに二人でおいで」

「行ってもいいの?」

「あぁ。パートナーがいるけど、泊めてあげよう」


くすっとお婆ちゃんは笑った。私のお婆ちゃんはかっこいい。お父さんとも、お母さんとも、昆奈門さんとも違うかっこよさがある。私の大好きな、尊敬するお婆ちゃん。
お婆ちゃんと別れて、私は家に帰った。きっと、この家にいたら傷付くことになる。そう思った。だから、本当は山本さんの言うようにホテルで生活する方がいいのかもしれない。だけど、私は昆奈門さんの側にいたい。あの人を生涯支えると、そう誓ったから。何より、私は昆奈門さんを愛しているから。だから、私は負けない。
ベチっと頬を叩いてから私は夕飯を作った。野菜がいっぱい摂れるメニュー。きっと、昆奈門さんは食べてくれないだろう。だけど、無理矢理にでも食べさせてみせる。大丈夫、私はもうお母さんを亡くしたばかりの弱かった自分ではない。私は強くなった。昆奈門さんがたくさん愛情をくれたから。


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