雑渡さんと一緒! 146


「なまえ!ちょっと、話があるんだけど!?」

「なぁに?」

「なぁに?じゃないわ!雑渡さん、記憶喪失なんだって!?」

「あー…うん」


佐茂さんから聞いたんだろうか。きぃちゃんは随分怒っていた。それが私を心配してくれているからこそ生じている怒りであることは嫌というほど分かったけど、昨日昆奈門さんにされたことは黙っておこう。
離婚届を書くよう強制されたことも、無理矢理咥えさせられた上に犯されたことも、浮気されそうになったことも、ご飯を食べてくれなかったことも。どれもこれも今までの昆奈門さんからは想像も出来ないことだ。昆奈門さんが倒れなければ、間違いなくあのまま昆奈門さんは浮気しに行ってしまっていた。私は何となく「雑渡さん」が止めてくれたんじゃないかと思った。薬のにおいがしたような気がしたから。本当に何となくだけど。何にしても、止まってくれてよかった。


「で?どうするのよ」

「五日なんだって」

「何が?」

「違う。あと四日か…あと四日で昆奈門さんのことを好きにさせられなかったから、離婚するって言われているの」

「はぁ!?」

「どうしようかなぁ…」


あと四日で何が出来るんだろう。というよりも、昆奈門さんは私をこれからどうしたいんだろう。四日間、毎日のように昨日みたいなことをされるんだろうか。
私が溜め息を吐くと、きぃちゃんも溜め息を吐いた。


「やめちゃいなよ、雑渡さんなんて」

「い、嫌だよ」

「どうしてよ。いいじゃない、離婚しても」

「嫌だってば」

「どうしてよ」

「だって、私は昆奈門さんのことが好きだもの」

「それは前の雑渡さんなんでしょ?」

「そうだけど…で、でも…っ」

「雑渡さんって元々、超冷たい人だしね」

「そんなことないもん」

「私には超冷たいじゃない」

「佐茂さんのこと、紹介してくれたじゃない」

「あれはなまえがいたからでしょ?」

「まぁ、そうかもしれないけどさ…」


だけど、昆奈門さんはちゃんと佐茂さんを紹介してくれた。別に私がどんなに怒っても、拒むことくらい出来たのに。私と喧嘩をしたらちゃんと謝ってくれるし、口では厳しいことを言ってもきぃちゃんのことをちゃんと心配していた。
お婆ちゃんは昆奈門さんは今、暗闇の中を彷徨っているだけだと言った。強がっているだけだと言った。ちゃんと支えてあげろと言った。私もそうしたい。例え昆奈門さんの記憶が一生戻らなくても、一生側にいたい。そう思っている。だけど、心が折れそうだ。あんなに冷たい顔をした人の側に私はいられるだろうか。昆奈門さんの面影が微塵もないのに。


「あんた達は雑渡さんを好きすぎるのよ」

「あんた達って、私と佐茂さんのこと?」

「そう。なまえに雑渡さんの側にいて欲しいって伝えろとか勝手なことを言うから、怒ってやったわよ。絶賛喧嘩中」

「佐茂さんが…」

「なまえ。いいのよ、辛いなら逃げても」

「…ねぇ、きぃちゃん。佐茂さんに伝えてくれる?」

「何を」

「頑張ります、って」


きぃちゃんは呆れた顔をして溜め息を吐いた。ありがとう、私のことを心配してくれて。だけど、ちょっと元気が出たから私は大丈夫だよ。まぁ、今日のところはだけど…
家に帰って夕飯の支度をする。今日も食べてくれないんだろうか。知らない人間の作ったご飯なんて気持ち悪くて食べられないと昆奈門さんは言っていた。だから、きっと私が夕飯を作っても気持ちが悪いとしか思わないのだろう。だけど、昆奈門さんに好きになってもらえるようにアピールするにはどうするのが正解なんだろうか。私は元々、昆奈門さんがどんなタイミングでキュンとするのかよく分からなかった。何度聞いても、普通のことを言った時にときめいているようだったから。仮に私の何気ない一言で昆奈門さんの心が動くんだとして、その一言が何を言えばいいのか分からない以上は手の尽くしようがない。つまり、詰んでいる。
溜め息を吐いていると、昆奈門さんが無言でリビングのドアを開けて入ってきた。私と夕飯を見て、溜め息を吐いた。


「私は人の作った食事は食べない」

「知ってます」

「ほぉ?じゃあ、何故作る?」

「習慣とでもいいましょうか…」

「あぁ。頭が悪いということか」


それなら仕方がないね、と昆奈門さんはコンビニのお弁当を広げた。パキッと割り箸を割って唐揚げを口にする昆奈門さんは特に美味しくもなさそうな顔をしてお弁当を空にした後、缶ビールを開けて飲み始めた。私のことなんて目にも入っていないかのような動作にまた胸が詰まる。
昆奈門さんは無言で鞄からパソコンを取り出し、何かを入力し始めた。月末までまだ時間があるというのに家で仕事なんて珍しい、と画面を覗き込むと「退職願」と書かれていた。


「えっ!た、退職するんですか!?」

「まぁね」

「どうしてですか!?」

「居心地が悪いから」

「居心地?」

「お前には関係のないことだ。…あぁ、いや、なまえは仮にもまだ私の妻なのだから関係がないこともないのか」


タン、と昆奈門さんはキーボードを弾いて、満足そうに眺めていた。あんなに仕事が好きだった人なのに。クビになったと勘違いした時、あんなにも悲しそうだったのに。
だけど、退職願を読み直している昆奈門さんはどこか悲しそうに見えた。色んなことを思い出しているのかもしれない。居心地が悪いって何だろう。あんなにも部下の人たちは昆奈門さんを慕っているのに、この人はそれが分からないんだろうか。それとも、もしかして、分かりたくないんだろうか。


「…あなたが恐れているのは、人に嫌われることですか?」

「…なに?」

「それとも、人を失うことですか?」

「待て。何の話をしている」

「これからもずっとそうやって自分の気持ちに嘘をついて生きていくつもりなんですか?そうやって自分から人を遠ざけておきながら、居心地が悪いなんて言って…本当は昆奈門さんは多くの人に慕われています。なのに、どうして拒絶するんですか?あなたは一体何をそんなに恐れているんですか?」


じっと昆奈門さんを見つめる。昆奈門さんは人と深い関わりをしようとしない。だけど、心を開いた人には深入りしようとする。自分のことを分かってくれる人間が少ないと昆奈門さんはよく言っていた。そして、それでいいとも言っていた。だけど、本当はもっと多くの人に好かれたいと思っていることくらい、分かっていた。本当は寂しがりやで、誰よりも人から愛されることを望んでいる。だけど、それが怖いとも思っている。少しずつだけど、昆奈門さんは変わった。でも、私はもっと変わって欲しいと思っている。もっと、多くの人に昆奈門さんを理解して欲しいと、そう思っている。
昆奈門さんは私が直視したからか、目線を逸らした。私なんかに思考を見透かされて戸惑っているように見える。何て返事をしようか悩んでいる昆奈門さんを私は抱き締めた。


「な、何のつもりだ。離せ!」

「ねぇ、昆奈門さん。あなたは一人じゃないんですよ?」

「煩い!離せ!」

「本当は退職なんて、したくないんでしょ?本当は部下の方々が大切なんでしょ?受け入れて欲しいんでしょ?」

「だ、黙れ!」

「大丈夫。あなたが心を開いたら、きっと向こうも心を開いてくれますから。退職する前に一度、歩み寄って下さい」


私が昆奈門さんの頭を撫でると、昆奈門さんは動揺したような声を出したけど、しばらくすると黙った。そして、私を抱き締め、今にも泣きそうな声で言った。


「お前、何なんだ…」

「さぁ?何でしょう」

「まだガキのくせに、生意気言って…」

「ふふ。お礼ならコンビニのシュークリームでいいですよ」

「はぁ!?何故、私が」

「嬉しかったんでしょ?退職を止めてもらえて」

「……っ、くそ…」


図星だったのであろう昆奈門さんは悔しそうに抱き返してきた。あまりにも昆奈門さんらしくて、笑ってしまう。
お婆ちゃん、本当だね。昆奈門さんは記憶がなくなっても昆奈門さんだった。本当はずっと誰かに受け入れて欲しいと思っているのに、傷付くのが怖くて自分からは一歩踏み込むことが出来ない。だから、向こうから歩み寄って来てくれるのをずっと信じて待っている。自分が傷付きそうになったら人を拒絶して全てを手放そうとするけど、本当は失いたくないと思っている。本当にまるで小さな子供みたいな人。
だから、私が導いてあげたいと思っていた。勇気が出るように側で支えてあげたいと思っていた。本当はとても優しい人なのに、それを理解してもらえないことは私も辛かった。


「大丈夫。あなたは一人じゃないから」

「………」


もう昆奈門さんは何も言わなかった。だけど、しばらく私は離してもらえなかった。私の存在をまるで確認するように優しく触れられ、出会った時のことを思い出す。あの時も昆奈門さんは本当は怖かったんだろうか。だけど、勇気を出して一歩踏み込んできてくれたのだろうか。
愛しくて、そして、切なくて私は静かに泣いた。あと四日で私たちの関係は終わるかもしれない。だけど、お願い。自分をもっと認めてあげて。自分をもっと愛してあげて。
私は抱き締める力を強めたけど、特に抵抗はされなかった。


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