雑渡さんと一緒! 147


夜中にふと目が覚めて隣を見ると、あどけない顔をしてなまえが寝ていた。よく私の隣で寝息など立てられるものだ。私のことが怖くはないのだろうか。いつ犯されてもおかしくない状況だというのに、つくづく度胸のある女だ。
何を恐れている、ね。こんな幼い女にまさか諭される日が来ようとは思ってもみなかった。退職したくない、とまでは思ってはいないけど、本当はあの職場が好きだった。会社の居心地は悪かったけど、営業部の雰囲気は悪くなかったから。なのに、今の雰囲気は良いとはとても言えない。それは私がこの子のことを忘れたからなのだろうか。佐茂は私に「なまえに会う前に戻った」と言った。そう、私は昔からこうだった。何も変わってなどいない。だけど、なまえが側にいたことで私に何かしらの変化が生じていたのだろうか。だから、あんなにも部下にがっかりとした顔をされるのだろうか。
何を恐れているのかと問われれば、私は人に失望されることが怖い。昔から失望されてばかりいたから。主に女に。
初めて自覚したのは確か小学生の時だった。一つ上の学年の女にデートに誘われて、特に断る理由もなくゲームセンターに行って。別に好きでも何でもなかったけど、きっとこうして過ごすうちに好きになっていける、きっと自分を愛してくれると思っていた。だけど、現実はそう甘くはなかった。同級生たちに「一緒にいてもつまらないけど、顔がよくて友達に自慢出来るから付き合いたい」と話しているのを耳にしてしまったから。あぁ、今思い出しても嫌な気分になる。そのくらい、当時は傷付いた。
中学生になると今度は色んな女に身体の関係を持ち掛けられた。だけど、決して好きだとは言われなかったし、一緒に過ごしたいとも言われたりはしなかった。そのあたりで私は悟った。自分の価値は顔だけなのだと。更に成長するに伴って近付いてくる女は私の成績や学歴、職業、役職に興味を示すようになった。価値が一つ増えたところで誰も私自身には関心を持ってはくれなかったけど。自分は何なのだろう、と思春期の時にはそれなりに悩んだこともあったけど、割と早い段階で自分はつまらない人間だから誰も愛してはくれないと思うようになった。私の価値など顔と肩書きしかないと、そう認めなければいけなかった。初めは寂しいとか、辛いなどと思っていたけど、もう何とも思わない。誰にも心など開かないから。もう、誰にも期待などしていないから。
一歩踏み出せ、ね。簡単に言ってくれる。人から拒絶されることが、失望されることがどれほど恐ろしいか知らないからそんなことが言えるんだ。一度体験してみればいい。自分は誰からも受け入れられず、ずっと一人なんだと知ることの恐ろしさなど言葉にも出来ないほどの恐怖だというのに。
そっとなまえの髪を梳くと、眠っているというのに嬉しそうな顔をして笑った。妙な女だ。そして、これまでに関わったことのないタイプの女だ。大人しそうに見えるけど、大人しくなんてない。どちらかといえば、強い女なのだろう。だから私は惹かれたのだろうか。この強さに魅了されていたのだろうか。特別可愛い顔をしているわけでもないと思っていたけど、こうして見ると可愛らしい顔をしているような気も…
くだらない。危うく流されるところだった。私はこんな女など好いていないし、この女も私など好いていない。この女が求めているのは記憶を失くす前の私だ。違う人物だ。
嫌な気分を払拭するように煙草をベランダで吸う。川の流れる音、虫の鳴く声、遠くに見える街明かり。どれも落ち着く。職場からは決して近くはないけど、この空間は落ち着くような気がする。そんなこと、今まで思っていただろうか。
寝直すと、あっという間に朝になった。昨日も感じたことだが、私が起きるとなまえは驚いた顔をする。何年社会人をやっていると思っているんだ。一人で起きられて当然だろう。


「じゃ、あと三日よろしく」

「それより、朝ごはんは?」

「要らない。じゃあね」

「食べて行って下さい」

「しつこい」

「じゃあ、せめて持って行って下さい」

「本当に頭が悪いんだね。私は手料理が気持ち悪いと言ったはずだ。ましてや、おにぎりなんて気持ち悪くて無理だ」


手料理なんて何が入っているのか分からなくて口になど出来やしない。どうせそのおにぎりの中に髪やどこの物かも分からない毛が入っているんだろう。もう分かっているんだよ。何度経験したと思っているんだ。あぁ、朝から嫌なことを思い出した。まったく、この女といると嫌なことばかり思い出させられる。勘弁してくれ。
踵を返して玄関へと向かう。革靴の紐を玄関に座って締め直していると、背後から名前を呼ばれた。馴れ馴れしく。


「あのさ、だから、その馴れ馴れしい呼び方…っ!?」

「いいから食べて行って下さい」

「ぐ…っ、な、何するん…だ…?」


振り向くと、口に無理矢理おにぎりを突っ込まれた。反射的につい齧ってしまい、思わず吐き出そうとしたけど、出来なかった。異様なまでに美味しかったから。
驚いて無理矢理突っ込まれた物を眺める。ごく普通のおにぎりだ。なのに、米の甘さ、程よい塩気、大きな具材。どれを取っても美味しい。そして、中には異物など入っておらず、一つ食べ切ってしまった。信じられない、この私が人の手料理を食べ切るなんて。そして、美味しいと感じるなんて。


「…お前、どこかで店でも出しているの?」

「いいえ?」

「じゃあ、これから出すの?」

「いいえ?」

「へぇ…」

「そういう時はね、美味しかったって言うんですよ」

「調子に乗るな」


えへ、と笑うなまえは心なしか嬉しそうだった。何がそんなに嬉しい。ただ、与えられた物を食べただけだろうに。
私は逃げるように家を出た。あの女は何なんだ。一緒にいると調子が狂う。だいたい、あんな色気も何もない食わせ方があるか。動物に対する餌付けじゃあるまいし。
営業部に入るなり、そこにいた全員が私を見た。それでコンビニで退職願を印刷してくることを忘れたことを思い出す。


「おはようございます」

「あぁ、おはよう」

「何か良いことがありましたか?」

「何故、そう思う」

「随分と嬉しそうな顔をしておられたので」

「は!?私が?」

「ええ。鏡をご覧になって下さい」


嬉しそうに笑う陣内を叩き、トイレで鏡を眺める。そこには確かに、にやけている自分が写っていた。思わずギョッとして頬を叩く。何をやっているんだ、私は。これではまるで、なまえの餌付けに喜んでいるようではないか。好意を抱いているようではないか。この私が、あんなガキに好意を抱いて…いや、そんなはずはない。違う、これはただ、調子が狂っただけだ。なまえを好きになど、まだなってはいない。…まだ?まだって何だ。これでは今後、好きになる可能性があるようではないか。あんな女のことを好きになんて…っ、何なんだ、あの女は。この私をここまで翻弄するなんて。悔しい。
あと三日か…気を引き締めよう。そもそも、今は仕事中だ。もうすぐ朝礼が始まる。顔を洗って、営業部に戻った。営業部の居心地は何故だか昨日のように悪くはなかった。


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