雑渡さんと一緒! 148


昆奈門さんと過ごせるのもあと三日となった。そして、最終日は土曜日だ。きっと、昆奈門さんは出掛けてしまうだろう。だから、期限は実質あと二日のようなものだ。
振られる覚悟をそろそろし始めないといけない。そう思っていたけど、なかなか覚悟なんて出来ずにカフェテリアで一人離婚届を眺めていると、前にスーツ姿の男性が座った。それは昆奈門さんでも佐茂さんでもなく、照星さんだった。


「あれ、照星さん?」

「久しぶりだね。少しいいかな」

「はい…」


どうして照星さんがここにいるんだろう。不思議に思いながら私は離婚届を畳んで片付けた。照星さんは私にとても静かに頭を下げてきた。あまりにもその所作の美しさに思わず息を飲んだけど、ここはカフェテリアだ。非常に目立つ。それ以前に私は照星さんに頭を下げてもらうようなことをされていない。申し訳なくて、あわあわとしてしまった。


「や、やめて下さい。そんな、私に頭を下げるなんて…」

「雑渡が失礼なことをした」

「失礼…?」

「聞かなくても分かる。酷いことをされたのだろう?」

「…昆奈門さんに会ったんですか?」

「あぁ。昨日、仕事で少し。酷い顔をしていた」

「そうですか。そうですよね…」


酷い顔、というのは冷たい顔という意味なのだろう。昆奈門さんは照星さんと幼少の頃からの付き合いだと言っていた。きっと、あんな顔をした昆奈門さんを知っている。
照星さんは私に詳細を聞いてきたから、答えられる範囲で答えた。頭を殴られて私に関する記憶がなくなってしまったこと、あと三日以内に昆奈門さんに好きになってもらえなければ離婚して家を出ていかなければいけないこと。だけど過去のことを忘れていることと、犯されたことは黙っておいた。照星さんに前世の記憶があるのか私は知らなかったから。
話し終わると、照星さんは頭を抱えて深い溜め息を吐いた。


「はぁ…本当に馬鹿な男で申し訳ない」

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「そ、その…自分でこんなことを言うのも恥ずかしいんですけど、昆奈門さんは私のどこが好きだったのかご存知ですか」


言葉にして少し後悔した。こんなことを人に聞くのは恥ずかしい。だけど、昆奈門さんの性格を考えると、照星さんには話しているような気がした。心を開いた人には割と包み隠さずに何でも話すような人だったから。
藁にも縋る想いで照星さんに聞いてみたけど、恥ずかしくて私は思わず俯いた。馬鹿だと思われたかもしれないし、昆奈門さんが照星さんに惚気ていたと思っていること自体が自意識過剰だと笑われるかもしれない。ドキドキとしながら照星さんの言葉を待っていると、照星さんは低い声でふ、と笑った。だけど、それは決して私を馬鹿にしたような笑い方ではなかった。どちらかといえば、嬉しそうに見えた。


「なまえさんは雑渡をまだ想ってくれているんだね」

「…あの人、馬鹿なので」

「そうだね。私もそう思っている」

「だけど、本当は優しい人なので」

「あぁ、そうだね。知っているよ」


照星さんは私にまた頭を下げてきた。馬鹿な友人が迷惑を掛けて申し訳ない、と。だけど、やっぱり私は照星さんに謝られる立場ではないから、辞めて欲しいと懇願した。


「聞いていた通り、君は強い」

「別に強くなんか…」

「いいや。普通なら雑渡から逃げ出す」

「そうでしょうか?」

「そんな芯の通った強さが好きだと言っていた。それに、美しい心も。それに関しては私も同意だ。なまえさんは純粋で、綺麗な心を持っている。雑渡が夢中になるのが分かる」


そんな、綺麗な顔で微笑まれながら言われてしまったら、まるで口説かれているみたいでドキドキしてしまう。
私は別に強くなんかない。それに、綺麗な心なんて持っていない。嫌なことがあったら落ち込むし、逃げたくなる。私が昆奈門さんから逃げ出さないのだって、彼が本当は優しい人だと、弱い人だと知っているから。知らない人にあんなことをされたら絶対に怖くて逃げ出している。受け入れたいなんてきっと思わなかった。昆奈門さんだから、私の好きな人だから彼の全てを受け入れた上で愛したいと思っているだけ。
照星さんは私にまた深々と頭を下げてきた。昆奈門さんも所作の綺麗な人だけど、照星さんの所作も美しいと思った。


「雑渡の側にいてやってはもらえないだろうか」

「私はそうしたいと思っていますけど、でも、期限が…」

「大丈夫。雑渡は必ずなまえさんを好きになる」

「そう、でしょうか…えっ、あと三日ですよ?」

「何なら、余るくらいだろう」

「えぇ…」


余る。余るのなら、こんなにも心配していない。だけど、照星さんはまた私に「雑渡は君を必ず求める」と言った。
たくさん照星さんに励ましてもらい、私は授業に出て家へと帰った。今朝、無理矢理おにぎりを食べさせたけど、夕飯は食べてくれるのだろうか。本当は食べてもらえなくて辛い。だけど、作り続けているのは昆奈門さんに少しでも食べてもらいたいからだ。毎日毎日コンビニのお弁当ばかり食べていて、倒れられでもしたら嫌だから。ただ、それだけだ。


「うわ、また作ってる…」

「あ。おかえりなさい」

「………」


昆奈門さんは私を無視して、いつものようにソファに怠そうに座った。そして、何事もないような顔をしてお弁当を食べ始めた。今朝、少しだけ柔らかくなったような気がした雰囲気は、やっぱり冷たいものに変わっていた。だけど、少し違和感を感じた。まるで本当は私が作った西京焼きが食べたいと言いたげな顔をしているような気がしたのだ。
私がじっと昆奈門さんを見つめていると、昆奈門さんは私を睨み、そして、鞄からシュークリームを投げつけてきた。


「え。これ、貰ってもいいんですか?」

「なまえが昨日買えと言ったんじゃない」

「確かに、言いましたけど…」

「勘違いするな。特別な意味などない」


確かに私はシュークリームをお礼に買ってくれと言った。だけど、本当に買い与えてもらえるとは思っていなかった。あまりにも意外で、生クリームとカスタードがたくさん入ったシュークリームをじっと見つめて、思わず笑ってしまった。昆奈門さんらしい。もっと小さな、カスタードが少ない安い物もあるのに、わざわざコンビニスイーツの中でも高そうな物を選んできてくれるなんて。おまけに、お弁当とビールは袋から出したのに、シュークリームは鞄から出したということは違うコンビニでわざわざ買ってきてくれたということなのだろう。
嬉しくて私がそっと西京焼きを昆奈門さんにお勧めすると、昆奈門さんは要らない、と断ってきた。だけど、じっと西京焼きを見つめていたから、今朝のようにおにぎりに入れて明日の朝にでも出勤前に無理矢理食べさせようと思った。


「あぁ。一応、教えておいてやろう。退職するのは辞めた」

「えっ。本当ですか?」

「勘違いするな。今日の営業部の居心地はそこまで悪くなかったから。ただ、それだけが理由だ。お前は関係ない」

「はい」

「…何がそんなに可笑しい」

「だって、嬉しくて」


私が嬉しくてにこにこと笑っていると、昆奈門さんは怪訝な顔をした。昆奈門さんが退職を思い直してくれた。逃げずにちゃんと自分がしたい仕事を続けてくれる決心をしてくれた。それが私は嬉しかった。それに、私には夢がある。昆奈門さんがこの街を手にした時、あの丘から二人で街明かりを見下ろす。きっと昆奈門さんは次の目標に向かって前進していることだろう。その昆奈門さんの自信と希望に満ち溢れた横顔を眺めることが私は本当に楽しみだった。いつか、きっと私はこの夢を叶えられる。そう断言出来た。だって、昆奈門さんだもの。この人なら、やれる。絶対にやり遂げる。
私が嬉しさのあまり笑っていると、初めは怪訝な顔をしていた昆奈門さんは次第に表情を曇らせていった。そして、自嘲的な笑みを浮かべ、私をじとりと睨みつけて来た。


「私が今の地位にいることがそんなにも嬉しいか」

「はい」

「ふ…やはり、お前もその程度の女ということか」

「喜ばない人なんていませんよ」

「だろうね。女は私の肩書きを好むから」

「まだ、そんなことを言っているんですか」

「事実だろう」

「他の女性はどうだか知りませんけど、私は昆奈門さんが部長に昇進したことが本当に嬉しかったんです。あなたの努力が周囲にちゃんと認められたということですから」

「…努力、だと?」

「そうでしょ?ちゃんと仕事に真剣に向き合っているから得られた役職です。だから、これからも大切にして下さいね」


今の地位も、部下の人たちに慕われているのも、昆奈門さんがちゃんと努力していることを周りから認められているからだ。そして、多くの部下の人たち一人一人を気に掛けているからこそ、ちゃんと昆奈門さんに全員着いてきてくれている。今の営業部は昆奈門さんが必死に頑張って作り上げてきたものだ。だから、それを簡単に手放さないでほしかった。
私がそう言いながらシュークリームに手を伸ばすと、昆奈門さんは無言で私を見ていた。頬杖をついて、本当にじっと見ていた。とても驚いたような顔をして。あまりにも惚けた顔をしていたから、昆奈門さんの名前を呼ぶと、昆奈門さんは慌てて立ち上がって、ベランダに灰皿を持って出て行ってしまった。暖かくなってきたから煙草はベランダで吸うことにしたのだろうか。そんなこと、今まで一度もなかったのに。
私はカーテンからそっとベランダを覗いてみた。昆奈門さんは部屋を背に、景色を眺めていた。だけど、灰皿は持っていなかった。いや、それどころか煙草もライターもテーブルの上に置きっぱなしだ。では、今は何をしているのだろう。まさか、照れているから、なんて都合のいいことを考えてみたり。そんなはずはない。だって、私はごく当たり前のことを言っただけだ。昆奈門さんのことを知る人間なら、きっと男女問わずに同じことを言うことだろう。
私がもくもくとシュークリームを食べながら昆奈門さんをじっと見つめていることに流石に気付いたのだろう。暗くてあまり表情はよく分からなかったけど、昆奈門さんはギョッとした顔をした気がした。本当にただの勘だ。そのくらい昆奈門さんの表情はよく見えなかった。だけど、私に向かって微笑んでくれたような、そんな気がした。とても優しい顔で。


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