雑渡さんと一緒! 149


風呂上がりのなまえを煙草を吸いながら眺める。やはり、幼い顔をしている。昨日見たのは幻だったのだろうか。
昨日、なまえは私に今の地位は私が努力したから成し得たものだと言った。そんなこと、初めて言われた。評価されるのは結果で、その過程は知ろうとしない奴ばかりだったから。いや、私になど興味がないから、過程は気にならなかったのだろう。その気持ちはよく分かる。私も取り引き先の重役を評価する時は今の実力を見る。少なくとも、過去に積み上げてきたものに興味はない。なのに、なまえは違った。私の小さな努力の積み重ねを認めてくれた。とても美しい顔で。その大人びた微笑みを見て、胸がきゅうっと締め付けられた気がした。鼓動が早まり、顔が熱くなるのを感じた。
長い髪をバスタオルで拭いているなまえの首筋に薄くなってはいるが、明らかに男がつけたのであろう痕が見える。それを見ていると、胸が痛んだし、嫌な気持ちになった。なまえを自分だけのものにしたいと、そう思った。また犯したくなるほどに。なのに、なまえをもう無理矢理犯したくないと思っている。ちゃんと私をベッドの中でも見て欲しい。私の名を呼んで、笑い掛けて欲しい。そんな不思議な欲求が芽生えていた。この感情に名をつけるとするのなら、それは「恋」なのだろうか。未知の感情過ぎて私にはよく分からない。いや、分かりたくない。認めたら私の負けだと思った。
なまえは私が見ていることに気付いたのだろう。私に微笑み掛けてきてくれた。その笑顔を見ると、胸が熱くなった。


「どうしましたか?」

「…別に」

「ねぇ、昆奈門さん。これ、もう渡しておきますね」


なまえは棚から離婚届を渡してきた。既に記入されている。自分が三日前に渡した物だ。これを早く書かせてなまえを追い出し、早くこの生活に終わりを迎えたいとあの時は思っていた。なのに、今はそんなことを思っていない。むしろ、この生活を続けたいと思っている。
本当はなまえの作った食事が食べたかった。もう気持ち悪いなんて思っていなかった。今朝無理矢理食べさせられたおにぎりも美味しかったし、一つでは足りないとさえ感じた。今日も習慣でコンビニに寄って帰ったが、本当はなまえが作った食事を食べたいと思っていた。なのに、なまえは用意していなかった。用意しなくていい時には用意するくせに、用意して欲しい時には用意していないとは何て女だろうかと思ったが、そういうわけではなく、冷蔵庫に作り置きが山のように入れてあると言われた。少しずつ食べて欲しい、と。まるで私から離れて行こうとしていることに焦りを感じた。だけど、それは当然のことだった。明日で五日だ。自分で決めた期限であるというのに、そんなことをしなければよかったと後悔した。明日でなまえは私から離れていってしまう。この記入済みの離婚届がそれを嫌というほど裏付けていた。


「…あと一日ある。それとも、もう音をあげるのか」

「だって、明日は土曜です」

「そうだね」

「昆奈門さん、休みの日に一日私となんて過ごしたくないでしょ?だから、今日で終わりってことじゃないですか」


コン、と左手の指輪を外し、なまえはテーブルに置いた。前に同じような物が自分の指にも入っていた。それを見て気味が悪かったから、私はそれを投げ捨てた。
これをなまえの指に挿れたのは本当に自分なのだろうか。何故何も覚えていないのだろう。何も覚えていないのに、どうしてなまえのことが気になるのだろう。側にいたら嬉しくなり、笑い掛けられると胸が締め付けられ、他の男の影が見えると堪らなく嫌な気持ちになる。なまえを手放したくない。


「今までお世話になりました」

「…いても、いい」

「はい?」

「出ていかなくてもいい」

「そんなわけにもいきません。約束ですから」

「………」

「ねぇ、昆奈門さん。あなたは一人じゃありません。たくさんの人から愛されています。だから、ほんの少しだけ周りをよく見て下さい。あなたは本当は優しい人だって、ちゃんと分かってくれる人が昆奈門さんの側にたくさんいますから」


何だ、それ。そんなの、分かってもらえなくていい。その他大勢に理解なんてして欲しいと思っていない。
私はなまえを抱き締めた。もう、いい。悔しいけど、私の負けだ。本当は分かっている。同級生や部下から嫌という程聞かされてきた感情と同じだから。未知の感情だけど、人はこれを「恋」と呼ぶのだろう。悔しいけど、認める。私はなまえに恋している。なまえが好きだ。ずっと側にいてほしい。私のことを理解し、受け入れ、そして、私を愛して欲しい。


「…側にいて欲しいって言っているのが分からないの?」

「え」

「なに、その素っ頓狂な声は」

「えっ、だって、昆奈門さん、五日以内に好きにさせられなかったら離婚するって私に言いませんでしたっけ?」

「言ったね」

「なのに、離婚しなくてもいいってことは、私のことが好きになったってことですか?えっ、そうなんですか!?」

「…うるさいな」

「あ、違うんですか?」

「…っ、分かるでしょ」

「いいえ?ご存知の通り、私は頭が悪いので分かりません」


随分と性格の悪いことを言うものだとなまえの顔を見ると、とても嬉しそうに笑っていた。もう、完全に私の負けなのだと思った。初めから、勝負になどなっていない。
私にはなまえのような純粋さも、優しさも、懐の大きさもない。こんな強さなんて持っていない。だから、敵わない。
なまえに触れるだけのキスをして、首筋に痕をつける。私だけの女でいて欲しい。他の男なんて見ないで欲しい。こんな独占欲が自分にあるなんて、知らなかった。誰かをこんなにも求める日が来るなんて、思ってもみなかった。私は一人で生きていくつもりだった。だけど、もう一人には戻りたくない。なまえと一緒に生き、なまえを愛し、愛されたい。


「私、昆奈門さんが好き。大好き」

「…そう」

「はい、どうぞ?」

「どうぞ、とは?」

「私のことが好きなんでしょ?」

「…まぁ」

「想いは言葉にしないと伝わらないですよ?」

「嘘をつけ。分かっているくせに」

「ふふ。明日、どこに出掛けましょうか?」


本当に嬉しそうに笑うなまえが可愛く思えて仕方がなかった。こんなにも愛らしい顔をしているのに、何故今まで気が付かなかったのだろう。可愛い。世界一可愛い。
なまえをソファに押し倒す。ソファが軋み、愛らしい喘ぎ声が部屋に響いた。知らなかった、セックスってこんなにも心が満たされるものだったのか。こんなにも気持ちのいいものだったのか。なまえは私の頬にそっと手を当ててきた。まるで縋るように。そして、愛しいと言うように。私はなまえの小さな手に自分の手を重ねた。すると、とても可愛い顔で笑ってくれた。愛しい。なまえが堪らなく愛しいと感じた。
ソファでゴムも着けずにセックスをして、事後、なまえを抱き締める。無駄に大きなベッドがあるというのに、こんな狭いソファで事に及ぶなんて愚かな行為だ。汗ばんだ身体で触れる革張りのソファの感触は決していいとは言えない。だけど、私はとても幸せな気持ちに包まれていた。思わず、自然に口から「好きだよ」という言葉が飛び出るほどに。


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