雑渡さんと一緒! 152


「ねぇ、きぃちゃんは佐茂さんのこと、何て呼んでる?」

「普通に名前で呼んでるけど?」

「そっか、呼び捨てってことかぁ…」

「何で?」

「昆奈門さんのこと、何て呼ぼうかなぁって」


私は昆奈門さんと約束をした。その一つが「敬語で話すのをやめる」ことと「気安く名前を呼ぶこと」だった。記憶を失くす前の昆奈門さんと同じことを言うものだから、これは本当にそうして欲しいんだろうなぁと思う。思うけど、そう簡単なことではない。どうしても、過去の雑渡さんのことがチラつくから。そもそも私が昆奈門さんのことを名前で呼ぶのだって、どれほど勇気がいたか。更に気安くなんて、なかなか難しい。だけど、今のままだと距離を感じると言われてしまったから、仕方がない。何かしら、考えないと。


「昆奈門、でいいんじゃない?」

「それはなぁ…」

「どうしてよ?」

「なんか、偉そうじゃない?」

「あんた達、夫婦なのに偉そうも何もないでしょうよ」

「そうなんだけどさぁ…」

「じゃあ、あだ名ってこと?こーくん、とか?」

「わぁ。誰のことか分からない」

「何なのよ、文句ばっか言って。幸せか」


きぃちゃんは呆れたように溜め息を吐いた。呼び捨ては私には無理だ。お父さんが昆奈門さんをそう呼んでいるし、呼び捨てなんてもっと目上の人がするものな気がする。少なくとも、昆奈門さんに対しては。これは遠慮とか、そういう話ではない。尊敬しているからこそ無理というか…とにかく、昆奈門さんを呼び捨てになんて出来ないし、したくない。
悩みながら家に帰り、魯肉飯を作る。初めて作ったけど、美味しく出来ているのだろうか。正解が分からないけど、昆奈門さんからのリクエストだったから気合いを入れて作った。


「ただいま」

「おかえり」

「雨、凄いよ。寒いし」

「もう梅雨入りかな」

「流石に早いでしょ」


ネクタイを外すと、昆奈門さんは「あ」と言った。嫌な予感がしてネクタイを見ると、穴が開いている。丸く開いた穴を見て、私は思わず溜め息を吐いた。またか、と。
どうして煙草でこの人はすぐ物を焦がすんだろう。去年なんてスーツを焦がして一枚駄目にした。次にやったら怒るからと念を押したのに…と思ったけど、昆奈門さんは何も覚えていないのだから、と堪えた。だけど、次は怒るからそのつもりで、と厳重注意をさせてもらう。次は絶対に許さないから。


「いい?次は怒るからね!」

「はいはい。いただきます」

「ちゃんと聞いてるの!?」

「聞いてるって。気を付けるよ」


昆奈門さんは面倒くさそうに返事をしたけど、本当に分かっているんだろうか。昆奈門さんのスーツもネクタイも高級品だ。そう簡単に焦がされたら困る。焦げたまま着用するというのも、立場的にまずいだろうけど、そう何着も買えるほど安い物ではない。つまり、気を付けてもらわないと困る。
夕食後、皿を洗っていたら昆奈門さんに「あのさぁ」と呼びかけられた。何となく名前のことを言われるのだろうと察した私は手を止めずにお椀をスポンジでゴシゴシ擦り続けた。


「今日、一度も名前を呼ばれていないんだけど」

「そうだっけ」

「そうだよ。更に距離を感じるんだけど?」

「気のせいだよ」

「いーや、気のせいじゃない。寂しいんだけど」


後ろから抱き締められ、すりすりと顔を擦り付けられたところをみると、拗ねているのだろう。名前かぁ…


「ねぇ、昆奈門さん」

「なに」

「あだ名とかなかったの?」

「ない。友達なんていなかったし」

「照星さんは?」

「あー。昔は"昆"て呼ばれてた」

「昆?」

「本当に昔ね。もう名字で呼ばせてる」

「なんで?」

「照星とは色々とあったから」

「あぁ…」


そういえば、照星さんとは仲違いしていたんだっけ。元のように仲良くなったのに、呼び方は戻らないのかな。
洗い物を終えてソファに移動すると、昆奈門さんは煙草に手を伸ばした。オイルライターをキン、と音を立てて開ける姿が様になっている。私が灰皿を手前に引き寄せ、絶対に部屋着は焦がすなと視線を送ると、昆奈門さんは面倒くさそうに私から目を逸らした。この人、本当に反省してるのかな。


「だいたい、何で結婚してるのに私にそんな仰々しいの?」

「仰々しいかな?」

「遠慮が感じられる。私が側にいることを許すのはなまえだけなんだから、そんな遠慮なんて必要ないと私は思うけど」

「あ、それ、前にも言われた」

「誰に」

「昆奈門さんに」

「あー。じゃあ、嫌だったんだろうね」


トン、と灰を落としながら昆奈門さんはテーブルの上にあった珈琲を手に取った。すると、灰がテーブルに落ちた。これはスーツを焦がす日はそう遠くないかもしれない。
嫌…だったのかな、昆奈門さん。遠慮なんてしていたつもりはなかったんだけどな。昆奈門さんは私にとって尊敬している男性だ。仕事熱心で、仕事のことになると自分に厳しく、部下には優しい昆奈門さん。私が好きだった雑渡さんと全く同じ。それが無自覚なところがまた、かっこいい。だからこそ私は昆奈門さんのことを尊敬の意も込めて「さん」付けしていたし、敬語だって使っていた。だけど、それで寂しさを感じられるのだとしたら、本末転倒だ。だって、昆奈門さんは尊敬している人だけど、私の好きな人でもあるのだから。


「…昆」

「は?」

「昆、て呼んでもいい?」

「いいけど…えっ、そういう感じなの?」

「どういう感じ?」

「普通、呼び捨てじゃない?」

「だって、お父さんがそう呼んでいるから」

「あー。どんな人なんだっけ?」

「頭の固い人」

「うわ、私無理かも…」

「大丈夫。案外、うまくやっていたから」

「あ、そ。で?何であだ名なの?」

「だって、昆と呼ぶ人はもういないんでしょ?」

「いないね」

「だったら、私だけの特別感があるじゃない」


ね、と私が笑い掛けると、昆は私から目を逸らした。よかった、案外すんなりと受け入れてもらえたようだ。
こーくん、なんて人前で呼ぶのは流石に恥ずかしい。付き合ったばかりのカップルみたい。だけど「昆」なら呼ぶことが出来る。今後、何十年も側にいて、昆がおじいちゃんになっても違和感なく呼ぶことが出来るだろうから。昆とした約束の一つである「歳をとっても名前でお互い呼び合う」を守ることが出来るから。その頃までにはきっと、お互い呼ぶことも呼ばれることも慣れていることだろう。だから、これから先、何十年も先のことだけど、その時までよろしくね、と私が笑い掛けると、昆は嬉しそうに優しく笑い返してくれた。


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