雑渡さんと一緒! 150


昆奈門さんは記憶を失くしてから自分でちゃんと起きて来るようになった。今日は休みだというのに自ら起きてきて、ソファに怠そうに座りながら煙草を吸い始めた。
まだ朝食の用意が出来ていないから、昨日作り置きしておいた物を温め直して出す。出ていかなくてもよかったのなら、こんなにも作らなければよかったなと昨日は少し後悔したけど、作っておいてよかった。冷凍していた卵焼きとご飯、鮭をテーブルに並べる。あらかじめ煮た状態で冷凍していた野菜を鍋に入れ、出汁と味噌を入れて朝食の完成だ。あ、これは楽でいいかもしれない。今後も冷凍野菜のストックは用意しておこう。そうしたら、朝はもう少しのんびり過ごせる。


「凄い。ちゃんとした朝ごはんだ」

「ちゃんとしたって何ですか」

「私は朝は何も食べないから」

「えっ。そうだったんですか?」

「知らなかったの?」

「知りませんでした」


だって、私が知る限りいつも朝ごはんを食べていたから。私が入院していた時でさえも、ちゃんと食べていた。そして、まぁまぁの量をきちんと食べていたから、朝が食べられないという人でないことは明らかだった。つまり、面倒だったということなんだろう。あぁ、私が側にいられてよかった。ちゃんと朝ごはんは食べないと。
昆奈門さんは手を合わせてから、嫌そうに味噌汁の具材を睨んでいた。そういえば忘れていたけど、野菜が元々は嫌いな人なんだっけ。生野菜ですら美味しいと食べている姿を見ていたから、忘れていた。意を決したように人参を口にした昆奈門さんは驚いたように味噌汁をまじまじと見つめた。


「嘘でしょ。美味しい」

「何ですか、嘘って」

「野菜がこんなに美味しいはずがない」

「だから、野菜に失礼ですよ、それは」

「いや、だって、本当に美味しいんだけど…ねぇ、本当は店を何店舗か既に持っているんでしょ。そうなんでしょ」

「あ、お店で他の方にお出ししてもいいんですか?」

「駄目」

「何なんですか。いいから、早く食べて下さい」


今日はドライブに行く予定になっていた。目的もなく、本当にただただ車を適当に郊外に走らせる。そんなことをして何が楽しいんだと昆奈門さんは言ったけど、二人で過ごせるのなら何だって楽しいですよと私が言うと昆奈門さんは顔を赤くして黙った。とても悔しそうだったけど。
と、いうわけで出発だ。五月も終わりに差し掛かっている。もうすぐ梅雨が来てしまうけど、大きなドラム式の洗濯機が私にはついているから梅雨も怖くない。多分。


「あ。私、行きたいカフェがあるんですよ」

「ほぉ。どこ?」

「隣の隣の隣の隣の街です」

「いや、遠くない?県境までいきそうな遠さだよ」

「駄目ですか?」

「いや、いいけど…何で行きたいの?」

「ベッドがあるんですよ」

「ホテルのカフェってこと?」

「いいえ。ただのカフェです」

「???」

「いいから。ナビ、入れますね」


きぃちゃんに教えてもらったカフェに連れて行ってもらう。聞いていた通り、大きなソファベッドが並んでいて、寝転んでケーキを食べている人もいれば、座ってドリンクを飲んでいる人もいた。うーん、異空間て感じで面白い。
ベッド席に案内されて、わくわくとケーキセットのケーキを選ぶ。ショートケーキにすべきか、チーズケーキにすべきか。ティラミス…あー、スモアか…いいなぁ、マシュマロを思いっきり伸ばしながら食べたいかも。うーん、でも、ケーキもなぁ…と私が悩んでいると、昆奈門さんは笑った。


「幸せそうな顔をしているね」

「悩ましい顔、の間違いでは?」

「ふーん?」


昆奈門さんは私を見てふ、と笑った。思わず照れてしまうほど、愛しそうに。
本当は私は昆奈門さんに捨てられるはずだった。だけど、昆奈門さんは私のことが好きだと言ってくれた。照星さんは五日も必要ないと言ったけど、本当にそうなった。だけど、その理由はよく分からない。そして、聞いてもきっと素直には教えてはもらえないだろう。何にしても、まだ私は昆奈門さんの側にいることが許されている。また、愛することが許されている。そして、愛されている。それが嬉しかった。
結局、スモアを注文した。マシュマロを引っ張ると、よく伸び、そして、下からチョコレートが出てきた。美味しそう。


「なにそれ」

「スモアです」

「いや、だから、なにそれ」

「マシュマロです」

「げぇ。あんな物、どこが美味しいの」

「食べたことがあるんですか?」

「あるよ。多分、30年前くらいに」

「よくそんな小さい頃のことを覚えていますね」

「そのくらい、不味かったからね」


あー嫌だ嫌だ、と昆奈門さんは珈琲を口にした。相変わらず甘いものは好きではないらしい。美味しいのになぁ。
ベッドで足を伸ばしながらスモアの甘さを堪能していると、昆奈門さんは私に聞いてきた。「なまえのことを教えて欲しい」と。確か、何日か前にも似たようなことを聞かれた。だけど、表情があの時と全然違う。私のことを本当に知りたいと思ってくれているのだと、ちゃんと分かる。


「私は甘い物が好きです」

「成る程」

「あと、海が好きです。水族館に住みたいです」

「それは無理でしょ」

「それから、あなたのことが大好きです」


にこっと笑い掛けると、昆奈門さんは「やられた」と言って俯いた。してやったり、と私が笑うと、昆奈門さんの冷たい指をそっと絡められ、結婚指輪にそっと唇を落とされた。今度は私が照れる番だった。
昆奈門さんの左手には結婚指輪が入っている。病室で捨てられた物だ。勿論、私は拾って大切に保管していた。傷付いたけど。ちょっと、夢にまで見そうなほど悲しかったけど。それでも、昆奈門さんは「もう二度と外さないから、あの時のことは許して欲しい」と言ってくれた。仕方がないから私はケーキをテイクアウトさせてもらうことで許すことにした。
カフェを出て、川沿いを歩いてみる。せせらぎの音が心地いい。吹く風は暖かく、初夏の気配を感じた。気が付けば、どちらともなく手を繋いでいた。特に昆奈門さんは何も言わなかったけど、照れていることはよく分かった。これを茶化すのは流石に意地が悪いから、私も特には何も言わなかった。
そこまで深くない川底に揺れている水草を見ていて、ふと川に魚がいないだろうかと思い、覗き込む。それらしいものは見当たらない。がっかりしていると、昆奈門さんは笑った。


「明日は水族館に行こうか」

「えっ。いいんですか」

「うん。ただし、一つ条件がある」

「何でしょうか」

「明日の朝も玉子焼きを出してね」

「あぁ…美味しかったですか?」

「凄く」

「玉子焼きにほうれん草を混ぜてもいいですか?」

「嫌だ」

「分かりました。混ぜますね」

「嫌だってば」

「大丈夫。ほうれん草って案外、美味しいんですよ?」

「本当だろうね?嘘だったら水族館に行かないからね」

「あら。私とデート出来なくてもいいんですか?」

「…お前、そんな女だったんだ」

「さぁ?私のことが知りたいのなら、ちゃんと側で私のことを見ていて下さいね?目を離したりしないで下さいね?」


私が笑い掛けると、昆奈門さんはそっと触れるだけの優しいキスをしてきた。人様に見られたらどうするんだと私が怒ると、見せつけてやればいいと意地の悪い顔をされる。


「ごめん、何も覚えていなくて」

「…はい」

「いつか思い出せるだろうか」

「さぁ。思い出せなくてもいいんじゃないですか?」

「どうして」

「思い出なんて、また作ればいいんです。記憶がなくても、昆奈門さんは何も変わっていない。私が好きな人ですよ」


私がそう言うと、昆奈門さんは繋がれていた手を離し、私を抱き締めてきた。だから、こんな所で…と私が咎めると、昆奈門さんは私の耳元で「愛している」と囁いた。
狡い。そんなことを、こんな所で言うなんて。ずっと言われ続けてきた言葉だったけど、もう二度と聞くことは出来ないのではないだろうかと五日間、不安だった。もう二度と私に笑い掛けてきてくれないのではないかと不安だった。私が好きだった昆奈門さんは記憶を失くしたことでいなくなってしまったと思った。だけど、記憶があっても、なくても昆奈門さんは昆奈門さんだった。何も変わっていない。朝は起きられるけど、基本的にはだらしなくて、寂しがりやで独占欲が強く、人に好かれたいと思っているのに嫌われるのが怖くて一人になりたがる、そんなちょっと面倒で可愛い人。私が生涯側で支え続けていきたいと思っている、大好きな人だ。
車を家まで走らせていると、途中で海が見えた。来る時には通らなかったのに、わざわざ海岸沿いを走ってくれたことが分かって嬉しくなる。私が海を見てはしゃぐと、昆奈門さんはくすくすと笑った。
夕飯は何にしましょうかとスーパーに寄ってから帰る。冷蔵庫のストックは朝用にして、夜は唐揚げを揚げることになった。ついでに茄子を揚げて出汁で浸し、テーブルに並べると昆奈門さんは嫌そうな顔をした。何なら、サラダに至っては見えていないフリをしている。だけど、促したら昆奈門さんは嫌そうではあったけど、ちゃんと食べてくれた。そして、驚いた顔をした後で「どれも美味しい」と笑ってくれた。


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