雑渡さんと一緒! 151


「この週末で随分と穏やかになられましたね」

「そう?」

「ええ。表情も話し方も、変わられた」

「へぇ…」

「やはり、部長にはなまえさんが必要なのでしょうね」

「………」


誰に何を言ったわけでもないが、私がなまえと仲を戻したことは薬指を見て明らかだろう。婚姻関係を継続するにあたり、私はなまえと幾つか約束をした。その一つが「結婚指輪は不要に外さないこと」だった。なまえが言うにはこの指輪は私が悩みに悩んで選んだ物らしい。全く覚えてはおらず、不思議な感覚ではあるものの、妙に納得した。なまえの細い指によく似合っていたから。恐らくではあるが、自分も身につけることなど度外視してなまえに似合う物を探したのだろう。いかにも自分らしい発想であるから、納得もする。
穏やか、か。自分とは無縁の単語だ。それでも、人から穏やかと評される人間になれるのならば、これほど嬉しいことはない。まぁ、多分無理だろうけど。人などそう簡単には変われない。だけど、ほんの少しずつでも変わっていくことが出来れば、と思った。なまえの手によってなら可能だろう。そのくらい、自分の中に変化が見られていることが分かった。ただの部下だったはずの陣内がいかに私を案じていたのか理解出来たから。いや、私だけを案じていたわけではない。なまえのことも案じてくれていた。なまえが傷付かないよう部下たちはなまえを守ろうとしてくれていたそうだ。なまえが言うには私を案じた結果、そうなっただけだと言った。言われた時は意味が分からなかったが、今ならよく分かる。なまえを傷付けたことで私が自分を責めないよう、私から遠ざけてくれようとした。なまえはそれでも私に近付こうと勇気を出してくれたからこそ、今の関係があるのだが、それでも、味方がいると思えたからこそ頑張れたのだと言っていた。だから、私は部下たちに感謝してもしきれない。


「きっと、私は記憶を失う前の私には戻れない」

「ええ。そうかもしれませんね」

「それでも着いてきてくれる?」

「勿論。あなた以上の上司はおりませんので」

「それは言い過ぎだけど…ありがとう」


色々と、と付け加えると、陣内は嬉しそうに笑った。恥ずかしくなってきて、慌ててエレベーターに乗る。二つ目の約束「人を信頼すること」を遂行するため、経理部に顔を出す。
佐茂を呼び出し、廊下に出ると、佐茂は驚いた顔をした。


「あれ。何か思い出したのか?」

「いいや、何も」

「その割にいい顔してるな」

「そう?そんなに違う?」

「全然違う。雰囲気が穏やかになった」

「あ、そー…」


心を許せる女が側にいるだけでそんなにも変わるのだとすれば、それはそれでどうなのだろう。私はそんなにも単純な人間なのだろうか。何より、周囲にこうも変わったと言われること自体が恥ずかしかった。頬でも緩んでいるのだろうか。
佐茂は本当に嬉しそうに笑っていた。佐茂も部下たちも、私のことをこんなにも気に掛けて、気が知れない。私には無理だ。人のことまで心配するだけの余裕がないというのもあるが、そこまで人に関心を持つことが出来ない。怖いから。信じていた人間に裏切られるというのはとてつもない恐怖だ。だから、本当は誰かを信頼するのは怖い。それでも、なまえは言った。「人を信頼しないと、誰にも信頼されない。ちゃんと自分を気に掛けてくれる人を大切にしろ」と。


「佐茂。お前さ、早く部長にまで出世してよ。で、一緒にこの会社を変えていこう。私一人では流石に荷が重い」

「あれ、退職するのはやめたのか?」

「まぁね」

「俺は役職には興味ない」

「どうして」

「俺は下っ端で走り回ってる方が性に合ってる」

「大丈夫。部長になっても走り回ってるから」

「それはそれでなぁ…」

「ねぇ、佐茂」

「なんだよ」

「ありがとう」


私なんかにも気を許してくれて。この会社で部下以外に私が信頼出来る存在でいてくれて。だから、最後まで一緒にこの会社で粘ってやろう。出来れば、同じ立場で会議に出て、風通しのいい会社にしていこう。お前となら、やれる。
私がそう言うと、佐茂は肩を抱いてきた。過剰なスキンシップに思わずギョッとする。元々、社交的な奴だとは思っていたけど、まさかここまでしてくるとは思っていなかった。


「いや、ウザい。離して」

「やっぱり俺、お前のこと好きだわ」

「分かった。分かったから離して…」

「お前にはなまえちゃんがやっぱり必要なんだよ」

「分かったから離せって!」

「お前となら俺、頑張れるかもしれねぇ」

「あぁ、そう。だから、離…せって!」


私は離そうとしない佐茂を投げ飛ばした。うちの営業部は護身術は必須だ。逆恨みをされることが珍しくはなく、襲いかかってこられることを前提として入社後一ヶ月間は合気道を嫌という程身体に叩き込まれるのだ。佐茂一人を投げ飛ばすくらい、何でもない。
会社の廊下で営業部の部長が経理部の係長を投げ飛ばすなんて、そうあることではない。というか、普通はない。ジロジロと見られた。場合によっては警備員が飛んでくるような事態だろう。だけど、誰も寄っては来なかった。投げ飛ばされた佐茂が嬉しそうに笑っていたから。みんな気味悪がって遠くから眺めていたし、近場にいる私も気味が悪かった。


「うわ、怖…」

「いや、よかった。そうかぁ」

「は?」

「なまえちゃんのこと、大切にしてやれよ?」

「…別に佐茂に言われなくても、そうするよ」


酷いことをたくさんしたし、たくさん言った。それでも私の身勝手な行動を許してくれた。人を拒むのは簡単だけど、受け入れるのは難しい。私の弱さや醜さ、愚かさを理解した上で受け入れてくれる女など、初めてだし、最後だろう。
家に帰る前にコンビニに寄る。いつもの癖で弁当を選んでいると、ふとカップルが目に入った。照星だ。相変わらず顔のいい女を連れている。だけど、珍しく楽しそうにしていた。


「や。なまえにわざわざ会いに行ったそうで」

「あぁ。お前、ちゃんとなまえさんを好きになったのか」

「癪だけど、照星の言う通りになった」

「だろうな。なまえさんが離れなければ、お前は必ずなまえさんを好きになる。あんないい子、そういないからな」

「あー…それよりお前の女、凄い顔してるけど、いいの?」


照星がなまえのことを話題にすると、じっと女は照星を見ていた。まさか嫉妬でもしているのだろうか。照星の女にしては珍しい。というより、初めてじゃないのか。
私がまじまじと女を眺めると、これも珍しいことだが、私には大して興味もなさそうな顔をして、照星の腕を引いた。


「ねぇ、照星さん。私もいい子ですよね?」

「さぁな」

「酷い!な、泣いてやるんだから!」

「うわ…」


顔は大人びているけど、中身は子供だな。そして、随分と若く見える。なまえとそう違わないのではないだろうか。聞けば、なまえと同じ大学で、学年は一つ下だと言う。
照星は面倒くさそうに買い物を済ませ、出て行こうとした。


「照星、お前も幸せそうで」

「お前に言われたくない」

「ふ…今度紹介してよ。なまえと飯にでも行こう」

「あぁ。今度な」


照星とは多くを語らなくても全て伝わる。長い付き合いだから。いつかなまえともそんな仲になれるのだろうか。
照星と話していて、もう弁当は不要であることを思い出し、缶ビールとコンビニスイーツを購入して帰宅した。玄関を開けると、味噌汁のいい香りがして、安心する。自分の家に人がいるのに安心する日が私にも来るとはね…面白いものだ。


「ただいま」

「おかえりなさい。ちゃんとお礼、言えました?」

「言えました?」

「あ…」

「私は約束を守ったよ。なまえも守ってね」

「…うん。分かった」


「敬語で話すのをやめる」はなまえとした三つ目の約束だった。私は恥ずかしかったけど、ちゃんと約束を守ったし、これからも守る。だから、私の希望にも沿ってもらわないと。
二人で夕食を摂り、私はビールを、なまえは苺の入ったロールケーキを口にする。今日あったことを話し、テレビを見ながら雑談した後、風呂に入って一緒に眠る。他人が見れば、本当にただの何でもない日常だろう。だけど、私にとっては何にも変え難い、とても温かく、そして幸せな時間だった。


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