雑渡さんと一緒! 156


「海に行きたくはない?」

「え?」

「どう?行かない?」

「行く!行きたい!」

「ん。行こうか」


七月も終わりに差し掛かり、どうにか長い梅雨が明けた週末に昆から海に誘われた。私が海に行きたいと言うと、昆は優しく微笑んでくれて、車で連れ出してくれた。
うちから海までは高速を使っても一時間はかかる。途中コンビニで飲み物を買い、お昼に美味しいハンバーガーを食べてから海へと向かった。日差しが厳しくて、だけど、海に光が反射して凄く綺麗だった。水着は持ってきていない。海に行くのなら事前に用意して、早起きしたのになぁと少し残念だったけど、新婚旅行で来月ハワイに行くから泳ぐのはその時までとっておくことにした。私は泳げないけど。
ミュールを脱いで海に足を入れると、ひやっとした。その冷たさが気持ちいい。ハワイの海水は温かいのだろうか。


「ねぇ、どうして急に連れて来てくれたの?」

「んー?ちょっとね」

「ちょっと、なに?」

「いや…それより、前を見ないと転ぶよ」

「平気だもん」


波が近付いてくるタイミングで走って逃げると、昆はくすくすと笑った。まるで子供みたいだね、と。
昆と海に来ること自体は初めてではないけど、実は入るのは初めてだ。私は昆の手を引いて、海に誘導した。この前買ったばかりのサンダルを脱ぎ捨てた昆は大きな足跡を砂浜につけた。私の小さな足跡と比べるとあまりにも大きくて、男の人だなぁという感じ。というか、私の足跡はまるで…


「ぷっ。なまえの足跡、子供みたい」

「こ、声に出さないでよ!」

「なまえは小さいからねぇ。キスすると首が痛いよ」

「それは歳だからなのでは?」

「ほーお?」


昆は私を抱えた。ふわっと身体が浮いて、昆と向かい合う形となる。ふ、と大人びた笑顔を昆は私に向けてくれた。


「歳の割に案外とやるでしょ」

「ちょ、ちょっと!人が見てる…」

「いいさ。見せつけておきなさい」

「嫌だよ!恥ずかしいよ!」

「さて。どうしようかなぁ」


くすくすと悪戯っぽく笑う昆の肩をべちべちと叩くと、ようやく砂浜に降ろしてもらえた。だけど、ぎゅうっと抱き締められる。子供から大人まで私たちのことを見ていた。


「ねぇ!本当に離して!」

「…私たち、前にどこかで会ったことがない?」

「え?」

「海に行きたい、となまえが私に言って、私は元気になったら連れて行ってあげると約束をした…そんな夢を見たんだ」

「それは…」


昔のことだ。私が流行り病に罹患して、ほとんど一緒にはいられなくなった。昆は私を助けるために必死になってくれたから。たまに戻ってきてくれた時には花を必ず摘んできてくれて、とても悲しそうな顔をして私を抱き締めてくれた。確か、海に連れて行って欲しいと言ったのは死ぬ何日か前のことだ。死期が近いことが自分でもよく分かっていた私は海に連れて行って欲しいと言った。だけど、それは楽しいデートの誘いのつもりではなかった。海に沈めて欲しかったのだ。私は彼の手で殺されたかった。私の命は彼のものだから、流行り病でなんて死ぬことは嫌だった。今思えば、とんでもない思考だ。そして、その思考を読み取ったように雑渡さんは言った。元気になったらね、と。もう、助からないと二人とも分かっていたのに、治ったら何をしようかとたくさん話をした。治ったら二人で色んな所に行こう、と雑渡さんは言ってくれた。今にも泣きそうな、とても悲しそうな顔で…
あの時の気持ちが蘇ってきて、私は涙を流した。すると、昆は慌てたように指で優しく涙を拭いながら謝ってきた。


「ごめん。変なことを言った」

「違うの、昆は悪くない。私が悪かったの…っ」

「いや、私が…実は、最近、妙な夢ばかり見るんだよね」

「妙な夢?」

「着物を血で染めた女が死ぬ夢。目覚めが悪くてねぇ…」

「えっ…」

「初めは似ていないと思ったんだけど、段々女がなまえに似ているような気がしてね…不吉な夢を毎日のように見るものだから、気が滅入りそうだよ。ストレスのせいなのかなぁ…」


そんなに今はストレスなんて感じていないつもりなんだけどね、と昆は困ったように溜め息を吐いた。
昆の記憶なんて戻らなくてもいいと思っていた。悲しいことを無理に思い出させることは酷だと思ったからだ。だけど、真実を知らない状態で毎日そんな夢を見ていたら気が滅入るのではないだろうか。過去のことを私は昆に教えるべきなのだろうか。私が躊躇するのは、記憶を失くす前の昆は自分を責めていたからだ。それに、私にうまく話せる自信がない。話した結果、余計に昆を苦しめてしまうくらいなら、話さない方がいい気がした。私にはどちらが正解か分からない。
パン、と昆は手を叩いた。この話はこれで終わりにしよう、と言って。そして、私の手を握って浜辺を歩き始めた。
サクサクと音を立てて歩きながら見た昆の表情は固い。言うのが正解かは分からない。だけど、知った方が昆にとっていいのなら、全て話した方がいいのかもしれないと思った。


「…私たち、前世でも恋人だったの」

「前世?へぇ…」

「あ。信じてないでしょ」

「いやいや。それで?」

「私、昆を遺して先に死んじゃったんだ」

「ふーん」

「…なに、その返事は」

「いや、珍しく非現実的なことを言うから」

「ほら!信じてない!」

「いや、だってさぁ…」


歩いていた昆の足が急にピタリと止まった。どうせ私の話を馬鹿にする気なんだろうと顔を覗き込むと、真っ青だ。水平線へと沈んでいこうとしている夕陽がこんなにも肌を赤く染めているというのに、対照的なほど昆の顔色は悪い。


「ど、どうしたの…?」

「に、逃げるよ!」

「えっ、ちょっと…っ」


昆は私の手を握り締めて、走り出した。足の長さが違う上に運動音痴な私はあっという間に息が上がり、足がもつれて転んだ。すると、昆は私を抱き抱えて車まで走った。
珍しく息が苦しそうにしている昆は駐車場で私を降ろし、助手席に押し込んだ。何事だろうかとシートベルトを締めて運転席に昆が乗るのをじっと待つ。だけど、どれだけ待っても昆は運転席に乗ってこなかった。不思議に思った私は車から降りて運転席側へとまわると、昆が地面に倒れていた。驚いた私は必死に名前を呼んだけど、返事はして貰えず、慌てて救急車を呼んだ。顔色が凄く悪いし、呻き声をあげている。
救急車で昆の手を握り締めたけど、握り返してはもらえなかった。あぁ、去年は私が倒れて、今年は昆が倒れるなんて。去年、昆はこんなつらい思いをしていたのかと思うと申し訳なくなり、そして、意識のない昆のことが心配で私は病院に着くまでの間、祈るように両手で昆の手を強く握り続けた。


[*前] | [次#]
雑渡さんと一緒!一覧 | 3103へもどる
ALICE+