雑渡さんと一緒! 159


過去になまえは「首に紐を掛けて働いていた」と言ったし、私も「そんな奴隷のような真似はしたくない」と思った。だけど、ネクタイを締めると気も引き締まるから私は好きだった。加えて、スーツという名の戦闘服を着込むことで更に気が引き締まり、今日も一日やってやるという気になる。
なまえの手によって手入れされた革靴を履き、キスをしてから私は出勤した。車のセルが回る音、エンジン音、ブレーキ音。どれも休日に聞くものと同じはずなのに違って聞こえるというのも不思議な話だ。なまえが助手席に座っていると車内の雰囲気は柔らかなものとなるのに、仕事中はとても緊張したものへと変化する。だけど、どちらの雰囲気も私は好きだ。物に思い入れなどしないと思っていたけど、この車には案外思い入れているものがあるのかもしれない。駐車場で缶珈琲を開け、煙草を吸いながら自分が従事する会社を見上げる。評判が決していいとは言えないけど、私の大切な城だ。誰にも落とさせやしないし、まだまだ大きくしてやる。


「おはようございます」

「おはよ。もう揃ってる?」

「ええ」


別に重役出勤などしているつもりはないが、私が出勤すると部下はみんな揃っている。上司が遅くに出勤しても部下は決して遅くには来ないのだから、律儀というか、社畜というか…つくづく馬鹿な奴らだと思う。
鞄からファイルと手帳を取り出し、大方のスケジュールを確認した後、朝礼を始める。不本意ながら私はこの営業部の一番上の立場へと昇進し、部下を取り纏めることとなってしまったが、まぁ、致し方がない。私を部長にまで推したのがお前たちなのだ、ちゃんと最後まで着いてきてもらおうか。


「さて。この度は記憶喪失という厄介な事案を抱えることとなってしまい、申し訳なかった。不満も不安もあったことだろう。それでもちゃんと私に着いてきてくれたこと、それから、なまえを護ろうとしてくれたことに陳謝と感謝をする」

「部長…まさか、思い出したのですか!?」

「まぁね」

「誰が!誰が部長を襲ったんですか!?」

「我々が報復致します!」

「おい!誰か縄と鉄パイプ持って来い!」

「私にやらせて下さい!証拠は残しません!」

「いえ!私が!」

「いや、落ち着いて。別に報復なんてしなくていいし、そもそも誰に襲われたのか忘れて、思い出せもしないから」


本当、血の気が多いというか、物事を争い事で解決しようとするというか…揃いも揃って馬鹿ばかりだ。もう過去に忍びをやっていたことなんて捨て置きなさい、と私が言うと、部下たちは怒りの矛先を私に向けてきた。
誰がやったんだ、とか、何故抵抗しなかったんだ、とか、本当は誰にやられたのか覚えているんだろう、とか言われた。覚えているとも、勿論。だけど、私は敢えて忘れているふりをした。言ったら本当に誰かしらが報復をしに行きそうだったし、そんなことになったら私は更に罪を重ねることとなってしまうから。あいつは元気にしているのだろうか、と昨日気になって株価を見たけど、鰻登りだったから元気に東京で走り回っているのだろう。ま、今はイーブンな立場での取り引きをしているけど、そのうちお前が守っている城は私の手によって落としてやるから。それが私からの報復であり、そして奴に与えた今を生きる道だ。いいライバルとなってもらわないと、つまらない。ま、私は私でコツコツと成長していくつもりだから、負けるつもりは微塵もないけどね。
朝礼を終えてからデスクの引き出しを開ける。一見、ごちゃごちゃとして見えるが、こうなっていてよかったと心から思った。奥からファイルを取り出し、指でなぞる。記憶がなくなったことにより、このファイルの存在も忘れてくれていて本当によかった。そして、危なかった。ちゃんと前もって大切にファイリングしておいた自分を褒めてやりたい。
私は手帳になまえから貰ったメモと手紙を大切に挟んで持ち歩いていた。記憶を失くした自分の手により破いて捨てられてしまったが、実はあれはただのコピーだ。原本はここにある。裏の裏をかくことを習慣としていて本当によかったものだとカラーコピーしてから手帳に挟む。これさえあれば今日も一日乗り切れる。辛い時や落ち込んだ時にも、これさえ見ればまたやる気になるのだから。私の大切な宝物の一つだ。
午後、車内で電話を掛ける。本当は営業部から掛けたいところだけど、修羅場と化したら困るから敢えてそうした。


「や。久し振り。元気にしていた?」

「…生きていたのか」

「生きていたとも。まぁ、打ちどころが悪くて、ちょーっと記憶喪失になっちゃったんだけどね。ま、無事に全部思い出せたし、妻とも仲が深まったから結果オーライってことで」

「俺を訴える気か?」

「いいや?そんな気はさらさらない。たださ、ほんの少しでいいからうちに有利な条件にして欲しいなーなんて思って」

「無理だな。お前の妻に手を出さないだけ有り難く思え」

「いや、そんなことしたら間違いなくお前の頭を割に行くから、妙な気は起こさない方が身のためだよ。覚えておいて」


電話口が黙ったから、言い過ぎたのだと気付いた。部下に血の気が多いように、私もまた血の気が多い。それでも、なまえに手を出そうものなら百回殺しても足りないくらいの報復は確実にする自信があるから、忠告はしておかないと。


「過去のことも含めて色々と悪かったね、切羽。ま、トフンタケ社はいずれタソガレドキ社が貰うから、そのつもりで」

「いいや。絶対にタソガレドキ社には渡さない」

「そ。じゃあ、次からは互いの営業技術で殴り合いだね」

「ふ、負けやしない」

「それはこちらの台詞だよ。首を洗って東京で待っていろ」


電話を切って、一息つく。これが正解かなんて分からない。こんなことで罪滅ぼしになったのかも分からない。
きっと、これからも私を恨む奴が出てくることだろう。だけど、その時には今世で培った能力で戦いたいものだ。少なくとも、もう頭を殴らせるのはやめよう。弊害が多過ぎる。
無事に仕事を終えて帰宅すると、いい匂いがした。昨日買ったばかりのホットプレートが活躍しているのだと分かる。


「おかえり」

「ただいま。わぁ、絶対美味しいやつ!」

「さぁ、どうでしょうね」

「いただきま…あ、いや、着替えてきます…」

「あら、お利口さん」

「だって、なまえ怒ると怖いから」

「いいから早く着替えてきて。先食べちゃうよ?」

「えっ、待って。すぐ着替えるから!」


部屋着に着替えてから手を合わせる。肉汁が溢れるほど入った餃子を噛むと、紫蘇の香りがした。皮はもちもちだし、もう言うことはない。あ、やっぱりあった。ビールが欲しい。
私が立ち上がる前になまえは冷蔵庫からビールを取り出してきてくれた。流石、よく私のことを分かっていらっしゃる。


「どう?初めて作ったんだけど」

「美味しすぎてやばい」

「よかったぁ。皮がよく伸びるから大きくなったけど」

「あ、やっぱり皮から手作りなんだ?」

「うん。もちもちでしょ?」

「もうね、店出せるよ、本当に。出させないけど」

「いつも思ってたんだけど、その口癖、何なの?」

「だって本当に凄く美味しいもの。なまえの作ってくれるご飯を食べられるのはなまえの夫である私だけの特権だから」

「ちなみに、〆用にお茶漬けの出汁も作ってみたんだけど」

「えっ!えぇー…また太っちゃう…」

「じゃあ、食べない?鮭茶漬け」

「食べる。いいとこ突いてくるねぇ」

「昆、好きかなーと思って」


ふふ、と笑うなまえと隣り合って食事を摂るのもあと少しの間だ。昨日、食卓を遂に買ったから。ちなみに、そこで煙草を吸うことは許可されていない。焦がす恐れがあるから。
些細なことかもしれないけど、本当に少しずつ私たちの生活は変わっていく。だけど、変わらないものもある。なまえに私が惹かれることは必然だった。こんなにもいい女が他の誰にも獲られなかったことは幸運としか言いようがない。
私は多くの罪を犯してきた。糾弾されても言い逃れも出来ないような、とても重い罪だ。私はその罪を一つずつ償っていかなければならないだろう。それは絶望にも似た暗闇を感じさせるものだけど、私は大丈夫。なまえがいてくれるから。私の側で明るく照らしてくれるから、導いてくれるから、私は闇に飲まれない。逆に言えば、この光を失えば私は闇へと飲まれ、死に至ることだろう。だから、ちゃんと側で護らないといけないし、護り抜いてみせる。なまえは今も昔も私にとって生きる希望であり、闇夜を照らす月なのだから。


[*前] | [次#]
雑渡さんと一緒!一覧 | 3103へもどる
ALICE+