雑渡さんと一緒! 158


「え?じゃあ、全部思い出したの?」

「…はい」

「で、何でそんなに元気がないの?」

「だ、だって…私、なまえに酷いことを…っ」

「あぁ、結婚指輪を投げ捨てたりとか?」

「そう…」

「離婚届を書くように迫ったり、浮気したり?」

「う、浮気は未遂じゃない…」

「私が男の人に肩を抱かれて帰宅したらどう思います?」

「絶対許さない。男をその場で殺す」

「ねぇ?」

「…はい、大変申し訳ありませんでした」


ふるふると震えながらファミレスで小さくなる昆に私は早く食べるよう促した。折角の唐揚げが冷めちゃう。
病院で何も異常がないことが分かって私は一安心したけど、昆の元気がないからどうしたんだろうかと心配していた。元気がない原因が分かってよかったような、よくなかったような。辛いことも思い出してしまったのだから、少し申し訳ないなぁと思った。前世のことはそんなに気に病まなくてもいいのに。浮気未遂のことは反省してもらわないと困るけど。


「本当、反省して下さい」

「…はい」

「ほら。早く食べて帰りましょう」

「ねぇ、怒ってる…?」

「いいえ」

「じゃあ何で敬語なの!?ねぇ、何で!?」

「しっくりくるから?」

「嫌だよ!ねぇ、普通に話してよ!」

「呼び方も元に戻したいくらいです」

「何でそんなに距離を置こうとしてくるの!?」

「はいはい。人前なので静かにして下さい?」


もう食べている場合じゃない、と昆は机に顔を伏せた。私を傷付けたことを後悔しているというのが、はっきりと伝わってくる。別に私は本当に怒っていないし、何なら既に謝罪を受けている。そのことも覚えているはずなのになぁ。
よしよしと私が頭を撫でると、昆はふるふると震えた。


「お願いします、私を捨てないで下さい…」

「はいはい」

「本当に私にはなまえだけだから!本当だから!」

「はいはい」

「う、うぅ…っ」

「あ。泣きそう」

「泣くよ、泣くに決まってるでしょ!?」

「恥ずかしいので落ち着いて下さい?」


ちょっと意地悪を言いたくなって、揶揄ってみたんだけど、やり過ぎたかもしれない。そのくらい昆は反省していた。
タクシーで駐車場まで行き、車で家に帰る。車内でも気の毒なくらいに昆は謝ってきたから、本当に怒っていないと伝えた。15回くらい。あまりにもしつこいから私がうんざりしてきたあたりで家に着いた。昆に先にシャワーを浴びるよう促し、その間に砂だらけになった靴の手入れをする。海は楽しいけど、帰ってからが大変だ。明日は車の掃除もしないと。
バスルームを交代して、潮風でバサバサになった髪を洗い、さっぱりとした気分でリビングに戻ると、昆は床に座り込んでいた。また震えている。今度は何事だろうかと思い、後ろから覗き込むと、手には離婚届を握り締めていた。


「あぁ、それ」

「こ、これ…捨てていいよね?捨てていいよね!?」

「んー…取っておいてもいいんじゃない?」

「何で!?何のために!?」

「私、それ書くのすっごく嫌だったの。もう二度と書きたくないから、もしもの時のために保管しておこうと思って」

「もしもの時って何!?離婚なんて絶対に許さないから!」


それはあまりに理不尽ではないだろうか。離婚を望んだというか、迫ったのは私じゃなくて昆なのに。取っておいたのは私だけど、あれをまた書く日が来るのではないだろうかと思うとゾッとした。そのくらい書くことが辛かったのだ。
昆は「ふざけるな」と言って離婚届を破ってからゴミ箱に投げたかと思えば、頭を抱えて唸った。最悪だ、と言って。


「もう嫌だ。本当、最悪…」

「ふ、ふふ…っ」

「何が可笑しいの!?」

「いや、うん。私の好きな人だなぁと思って」

「はぁ!?」


記憶を失くした昆はこんな豊かな表情はしていなかった。穏やかに笑うことはあったけど、それでもここまでは喜怒哀楽が激しくなかった。それはそうだ。何年も一緒にいて、ゆっくりと昆は変わっていったんだから。そして、これからもどんどん変わっていくのだろう。
私はぎゅうっと昆を抱き締めた。昆は私を抱き返そうか悩んでいるかのような声を出した後、そっと抱き返してくれた。


「…犯すような真似をしてごめんなさい」

「あぁ。怖かったし、痛かったなぁ」

「ご、ごめんなさい。もう二度とあんなことはしないし、させないから。だから、その、こ…これからも抱いていい?」

「さぁ、どうしようかなぁ」

「…駄目?ねぇ、駄目!?私、なまえともう二度とセックス出来ないとか無理なんだけど!お願いだから、ヤらせてよ!」

「何てこと言うのよ。まるで身体目当てみたいに…」

「違うよ?違うけど、でも、ほら…ねぇ、しようよ!ねぇ!」

「あ。じゃあさ、スーツを焦がした時の罰って覚えてる?」

「あぁ、あれ…えっ、まさか…」

「私が卒業するまでは我慢してもらおうかなぁ」

「無理!本当に無理!絶対に襲っちゃうから!」


必死になっている昆が珍しくて、思わず笑ってしまう。
私は昆と同棲する前は昆が変わっていってしまうことがとても怖かった。だけど、今はもう怖くない。だって、とてもいい風に変わっていってくれているから。それに、自惚れかもしれないけど、私のことをどんどん好きになっていってくれている。必要としてくれている。だから私は昆がこれからどんな風に変わっていくのか楽しみだ。きっと、とても子供じみた、悪戯っぽい男性へと変わっていくような気がした。
お願いお願いと私を求める昆の口を唇でそっと塞ぐ。本当に軽い、触れるだけのキス。そして、昆に抱き付きながら「ちゃんと優しく抱いてね?」と言うと、昆は私の首筋に吸い付いた後「ごめんなさい」と言い、それから「愛しているよ」と言って私を抱いた。ちゃんとお互いの気持ちを確かめ合うような、優しくて気持ちのいい行為の後、また謝られた。しつこい。もう何も怒っていないし、嫌いにもなっていないのに。だから私は昆の胸に頭を擦り付けながら「大好き」と言った。その後、とても嬉しそうに笑いながら優しくキスをたくさんしてくれた昆の頬に手を伸ばすと、指を優しく絡めてくれ、そして、明日はどこに行こうかといつもと変わらない会話をした。たったそれだけのことだけど、私はとても幸せだったし、昆もとても幸せそうに笑い掛けてくれた。


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