雑渡さんと一緒! 167
「へぇ…凄いね、こんなに綺麗なんだ」
「今なら私でも泳げる気がする」
「それは気のせいだからやめておきなさい」
南国の海というのは美しいと聞いてはいたが、まさかここまで綺麗だとは思わなかった。コバルトブルーの海は透けていて、カラフルな魚が泳いでいることが確認出来る。
そういえば、海に行くことはあっても泳いだことはなかったなぁと思いながらなまえを見ると、波打ち際で砂を掬って遊んでいた。ハワイの砂浜は砕かれた珊瑚がたくさんあるから素足で歩くことは出来ない。逆に言えば、珊瑚で覆い尽くされているから白くて綺麗だ。日本の海ではなかなか見られない砂は確かに珍しいものだし、美しい。砂の質が全く違う。
「手を切らないでよ?」
「えっ。切れるの?」
「そりゃあ切れるでしょ。珊瑚なんだから」
「珊瑚ってなに?」
「は?」
「珊瑚って貝なの?」
「違うんじゃない?知らないけど」
「昆でも知らないことがあるんだ」
「私を何だと思ってるの」
「物知りですぐ私を馬鹿にする人」
「ほーお?」
水辺でそんな生意気なことを私によく言えたものだ。
なまえの手を引いて海へと入り、適度に深くなったあたりで手を離してやる。私はまだかろうじて足が着くが、背の低いなまえはあっという間に沈んでいった。なまえは人ではないのだろうか。普通、人間は水に浮くはずなんだけど。ましてや、ここはプールではなく海。海水は身体が浮きやすいはずなのに、重しもなく沈むとはなまえはどうなっているんだ。
「し、死ぬ!」
「大丈夫。浮くよ、普通は」
「た…すけ…っ」
「あ」
「ぎゃあっ!本当に死ぬ!」
波を頭から被ったなまえはいよいよ溺れそうになっていた。泳げるとまではいかなくても、水に慣れさせてやろうと思ったけど、これは難しそうだな。ちょっとよく分からないけど、どうやら泳げない人間は水に浮くことが出来ないものらしい。もしくは、なまえが人間でないのか。
なまえを抱えると必死に私にしがみついてきた。本当に死を意識したのだろう。あまりにも必死な顔をしていて可愛い。
「ふ、ふふ…っ」
「な、何が可笑しいのよ!?」
「いや、可愛いなぁと思って」
「また私を馬鹿にしてぇ…っ」
「してないよ。しかし、水に慣れるかと思ったんだけどね」
「スパルタ過ぎるから!」
「はいはい。悪かったね」
そう怒るな、となまえを抱き締める。怒っているのだから、本当はなまえは私から離れたかったことだろう。だけど、離れたら間違いなく溺れることが分かっているから私の腕を離そうとはしなかった。これはいい。今度から喧嘩したら海に連れて行って脅してやろう。
しかし、海とは静かで穏やかなものだ。青い空と青い海、白い砂浜のコントラストが美しい。こんな景色を見て、思いを馳せるほどの情緒が自分にもあったとはね。人とは本当に変われるものだとつくづく思う。自分にとって海とは決して好ましいものではなかった。嫌でもなまえを思い出したから。
なまえは海が好きな子だった。それは私が前世では叶えてやれなかった約束事があるからだろうか。海なんてどれだけでも連れて行ってやればよかった。例えなまえの寿命が縮むことになろうとも、最期の願いくらい叶えてやればよかったのだ。こうして私が海に固執しているのは、過去の悔いからなるものなのかもしれない。それでも、こうして共に健康な状態で海へと赴くことが出来るのだから、私は恵まれている。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてから少しベッドに横になる。炎天下の下で過ごすというのはなかなかに疲れる。
「ねぇ、昆」
「んー?」
「ありがとう。連れて来てくれて」
「んー…」
「私、すっごく楽しい」
嬉しそうになまえは笑った。おいでおいでとベッドに手招きしてやると、なまえはそろっとベッドに近付いてきた。痺れを切らせて手を掴み、覆い被さるように抱き締める。
こんなことで喜んでくれるのなら、海になど何度でも連れて来てやる。朝日が水平線から昇るのも、日に輝く水面も、陽が水平線に沈むのも、暗闇に染まった深い水底も、全て見せてあげる。いくらでも望みを全て叶えてあげる。なまえが側にいてくれさえすれば、私は何だって出来るから。だから、どこにも行かないで。ずっと側にいて。先に逝かないで。そんなこと、もう口にはしないけど。あえて言わなくても嫌というほど分かってくれているだろうし、せっかくの新婚旅行に嫌なことをあえて思い出させたくないから。
「これからどうしようか」
「ちょっとお昼寝しない?」
「えー。あえて?」
「私ね、夜市に行ってみたいの」
「何それ。市場なの?」
「お祭り的なやつ…だと思う」
「ふーん?」
詳しくは知らないようだ。この行き当たりばったりな感じが思いの外、楽しい。いつも旅行に行く時にはどこに行こうか前もってある程度は決めていたけど、こういう旅の方が好きかもしれない。何があるか分からなくてわくわくする。
夕方に起こされて行った夜市で見たこともなければ聞いたこともないような夕飯を摂る。少なくともハワイの味ではない気がしたけど、別に不味くはなかった。なまえとシェアしながらいくつかつまみ、おもちゃのような値段のアクセサリーを買ってから薄暗い海辺を散歩した。潮風も波も穏やかで、このあたりが南国だよなぁと思う。地元は日本海だから波が高いし、お盆を過ぎたらクラゲが出るからもう入ることが出来なくなる。こんなにもいい所ならハワイに別荘でも買おうかとなまえに提案しようとして思い出した。グアムに挨拶に行っていない。というか、日本に来るという話はどうなったのだろうか。少なくとも、私は会った覚えがない。
疑問をなまえにぶつけると、あぁ…と簡素な返答をされた。
「昆が記憶喪失の時に来てたよ」
「えっ!私、会ってない!」
「だってその時、私と別れるって言ってたし」
「…まさか、事の詳細を話してないだろうね」
「離婚届を叩きつけられたこと?それとも、無理矢理事に及んできたこと?それとも、家に女の人の肩を抱いて帰って…」
「もういい!嫌なこと思い出させないで!」
「いや、嫌な想いをしたのは私なんだけど」
「ぐ…っ」
そう言われてしまってはぐうの音も出ない。誠に申し訳ないことをしてしまった。あの状況でなまえはよく私から離れなかったと思うと頭が上がらない。
何にしてもグアムに行かなければいけないのではないだろうかとなまえに提案すると、なまえはまた簡素な返事をした。
「お婆ちゃんはレアキャラなの」
「レアキャラ?」
「もうね、SSRなの」
「ちょっと何を言っているのか分からない」
「一度機会を逃すとなかなか会えない人なの」
「じゃあ、もう二度と会えないかもしれないじゃない!」
「うん。本当、そういうレベルの人なの」
つまり、私はその機会を逃した、と。それは絶対に心象がよろしくない。散々なまえを傷付けた上にしれっと元鞘に戻っているとか人としてどうなんだろうか。都合が良過ぎないだろうか。私の娘が万が一にもそんな目に合ったのだとするなら絶対に結婚なんて許さないし、何発か殴ってやらないと気が済まない。にも関わらず、義父さんもお婆さんも私に特に何も言ってこない。この状況に甘んじてもいいのだろうか。
「…お土産を死ぬほど買おうか」
「いやー、そんなに食べないと思うよ?」
「じゃあ、何て詫び入れればいいの!?」
「そんなの必要ないと思うよ?」
「いや、必要だよ!なまえの側にいられなくなる!」
「だって、お父さんとお婆ちゃんも言ってたもん。ちゃんと昆に大切にされていないのならすぐに別れろ。だけど、私が大切にされていると感じるのなら絶対に生涯手放すなって」
だから、大丈夫。そう言ってなまえは笑った。何というか、懐の深い一族だ。気が知れない。
なまえが私から離れていかなかったということは、少なくとも大切にされていると感じてくれているということなのだろう。大切に、か。私の独りよがりではなく、大切に出来ているのだろうか。改めてそう問われると何とも答え難い。大切に思っているし、大切にしているつもりではあるけど、では、昼間のように意地の悪いことをしないかというと、そうではなく。本当に自分を偽ることなくなまえと過ごしているけど、それでも大切にされていると、楽しいと感じてもらえているのだとすれば、それは本当に私のことを愛してくれているということなのだろう。それは何とも言い難い幸福感をもたらし、そしてまた、なまえを好きになってしまう。勝ち目が微塵も見えない。
それでも、帰国したら殴られる覚悟をして義父さんに謝りに行って、グアムに行く日程を考えないといけないだろう。私が欲していた家族であり、そして、きっと二人ともこんなにも幼い私を受け入れてくれているのだろうから。
[*前] | [次#]
雑渡さんと一緒!一覧 | 3103へもどる