雑渡さんと一緒! 171


「いい加減にしてよ!」

「それはこっちの台詞なんだけど」

「何よ、それ!」

「煩い。ウザい」

「あぁ、もういい!もう昆のことなんて大嫌い!」

「はぁ!?」


例え喧嘩したとしても、感情的になったのだとしても、それは言ってはいけないのではないだろうか。この私でも言わないし、言えない。なのに、なまえはあっさりと言った。
所詮はその程度の愛情しか私に抱いていないということなのだろう。私ならなまえのことが嫌いだなんて絶対に言えない。あぁ、そう。そうなのではないかと思ってはいたけど、やはり私の方がずっとなまえに惚れている。愛情の重さが全然異なる。そうだよね、お前は私を遺して死ぬような女なのだから。それで、その悲しみを未だに傷跡として残しているのは私だけだ、と。そう、あぁ、もういい。馬鹿らしい。


「…出掛けてくる」

「どうぞ、私も出掛けるから」

「そう。勝手にどうぞ」

「言われなくても勝手に行くもん」


何、その言い方。可愛くない。本当に可愛くない。
苛々しながら外に出ると異様なまでの熱気で思わず外に出るのをやめたくなった。だけど、このまま家にいても間違いなくロクなことがないから我慢して駐車場まで歩く。車内の熱気は言うまでもなく、運転席に座るだけで身体が汗ばんだ。
行くところなんて特にあるわけでもないからジムに行って適当に運動して、シャワーを浴びてから外に出るともう夕方になっていた。8月ももう終わりに差し掛かっているというのに、夕方になってもこの暑さかとうんざりする。だけど、気が付けばあっという間に涼しくなって、気が付けば冬になっているのだから、一年は本当にあっという間だ。夏の暑さは身体が怠くなるから好きではないけど、冬の寒さからみればまだ大分マシだ。少なくとも冷え性の私にとっては。
夕飯はどうするかな…と車内で携帯を開く。なまえはどんなに喧嘩しても、ちゃんと夕飯を作ってくれていた。だから今日もきっと用意してくれていることだろう。だけど、今日はちょっと家でなまえと一緒に夕飯を摂る気分にはならない。
大嫌い、ね。そう言えば私が傷付くと思って言ったわけではないことくらい分かっている。なまえは私と違って相手を不快にさせようとして言葉を選ぶような子ではない。ただ、感情的になって言ったのだろう。そんなことは分かっている。分かっているけど、あまりにも酷くはないだろうか。
行く宛てもなく、適当なカフェに入る。いつも混み合っているカフェは閑散としていた。平日はこんなにも空いているのかと驚きながら案内された席に座り、煙草をふかす。私の夏休みももう明日で終わりだなぁ…と頬杖をつきながらメニューを開くと、隣のボックス席に山のような荷物を持った若い女が座った。旅行帰りなのかと思わず隣を見ると、若い女ではなかった。私よりも歳は上だろう。なのに、随分と派手というか、攻めた格好をしている。白いシャツの袖は短く、二の腕のほとんどを露出しているし、何なら丈も短くて腹が見えている。その腹にピアスらしき物が刺さっているのを見て、ギョッとした。銀色に染められた髪は随分と短い。何なら私よりも短いくらいだ。おまけに後ろは刈り上げてある。耳には大量のピアスが刺さっている。何だ、この女。
私のなまえも将来こうなったらどうしようかと思ったところで我に返った。またなまえのことを考えてしまった。考えないようにしようとしているのに、どうしてこうもすぐになまえのことを考えてしまうのだろうか。
なまえは最早私にとって生活の一部だった。空が綺麗だと「なまえも見ているだろうか」と思い、街で新しいケーキ屋を見つけると「今度なまえと来よう」と思い、花屋を見る度に「あの花はまるでなまえのように愛らしいから卒業先であれを用意しようか」と思う。離れていてもなまえのことを考えない日などない。喧嘩している今でさえも。本当に馬鹿らしい。私ばかりがなまえを好きなようだ。片恋どころか結婚までしているのに、未だにこんなことを考えてしまう自分は何と女々しいのだろうか。情けないし、悔しいし、虚しい。


「ちょっと、兄さん」

「…は?」

「火、貸してくれないかい?」

「あー、はいはい」

「悪いね。どこかでライターを落としたようだ」


まるで婆さんのような話し方をする女が咥えている煙草にオイルライターで火をつけてやる。ライターを手渡さなかったのは、触れられたくなかったからだ。このライターはなまえから貰った大切なものだ。他人に、ましてや知らない女に触られたくなかった。
あぁ、またなまえのことを考えてしまった…と眉間に皺を寄せながら溜め息を吐くと、女はケラケラと笑ってきた。


「何だい、兄さん。ホストか何かか」

「そんなわけないでしょ」

「おや、そうかい。随分といい男なのに」

「そりゃあ、どうも」

「で?何だってそんな渋い顔をしてんのさ」

「あんたには関係のないことだ」

「どうせ嫁と喧嘩でもしたんだろ?若いねぇ」

「煩い。他人が口を挟むな」

「ふ…」


馴れ馴れしい女は薄く笑った。まるで私のことをガキだとでも言いたげな笑い方が勘に触る。
運ばれてきた珈琲を口にしていると、紙袋を手渡された。中にはチョコレートとドライフルーツ、粉珈琲、それに、私が使っている手帳メーカーのリフィルが数冊入っていた。何だってこんな物を私に渡してくるのかと女に突き返す。


「要らない。というか、何のつもりだ」

「本当は孫に渡すつもりだったんだけどね。兄さんに渡しておくよ。ちょっと詰め込みすぎて重くなったからね」

「いや、だからどうして私に渡す」

「私の娘はね、良妻賢母だったんだ。孫もそうなるよ」

「いや、だから…」


私の話など聞かずに一方的に話し続ける女のもとに珈琲と紅茶、それとケーキが二皿運ばれてきた。普通なら誰かと待ち合わせているのだろうと思うところだが、この女の向かいの席にはまだ荷物が大量に置かれている。とてもではないが、誰かが座れるような雰囲気などない。ということは、まさか二人分を一人で口にする気なのだろうか。
信じられない…と私が見つめていると、私の向かいの席の前に紅茶とケーキを置いてきた。本当に何でもないような顔で。


「えっ、なに…」

「座れないから、兄さんの向かいに座らせてやってくれ」

「は?何で…あぁ、もういい。私は帰る」

「まだ帰らない方がいいと思うよ」

「私はお前のような女と関わるのは好きではない」

「おや。言うじゃないか…あぁ、来たね」


私が帰ろうとしていると、女の待ち合わせ相手が来た。こんな妙な女と待ち合わせるなんて、どんな相手なのかと顔を上げると、よく見知った女がいた。向こうもまさか私がこの女と一緒にいるとは思わなかったのだろう、驚いた顔をしている。それは私も同じで、この女とどんな関係性なのかと問いたくなった。ある意味では北石よりもずっと関わって欲しくない女だ。こんな破天荒な女…と、ここで一つの可能性に気付いてしまった。いや、だけど、まさか、この女がなまえの…


「な、何で昆がおばあちゃんと一緒にいるの?」

「げっ、やっぱり…」

「いいからお婿さんの向かいに座りな、なまえ」


大人しくなまえは私の向かいに座った。やや気まずそうに。それはそうだ、私たちは喧嘩している最中なのだから。
ただ、私はそれよりも隣の女に何を言ったかと思い返すことで精一杯だった。失礼というほどのことはまだ言った覚えはない。むしろ、私が知りもしない女と話をした中では優しい方だ。相手にそれが伝わったかは別として。そして、全然気付かなかった。何なら未だに信じられない。微塵もなまえに似ていない。見た目も中身も本当に違う。
なまえは祖母のことを「かっこいい」と言った。かっこいいかと言われれば、まぁ確かにかっこいいのかもしれない。そして、義父さんとはあまり仲がよくなさそうだった。それも納得だ。あの堅物とこの派手な女の話など合うまい。


「なまえ、お婿さんに言うことがあるんじゃないかい」

「う…」

「それとも、電話で泣きながら言っていたのは嘘かい?」

「…泣きながら?」

「明日会えるか電話したらお婿さんに酷いこと言ってしまったって大泣きしていてね。今日は会うつもりがなかったのに急遽会うことになったわけさ。なまえ、子供じゃないんだから思ってもないことなんてそう簡単に言うもんじゃない」

「ごめんなさい…」

「私に言ってどうするんだ。お婿さんにちゃんと謝りな」


なまえは私の顔を見るなり泣き出した。子供のように泣きじゃくりながら私に頭を下げ、何度も謝ってきた。本当に後悔しているのだろう。あまりにも泣くものだから、見ていて胸が痛んだ。
本当になまえは狡い子だ。そんな風に泣かれたら怒りなんて消し飛んでしまった。根本的な解決には至らないけど。


「ほら。お婿さんも何か言うことがあるだろ」

「え」

「あんたも酷いこと言ったんだろ?ちゃんと謝りな」

「…はぁ、ごめん、言い過ぎた。明後日から仕事なのに、明日出掛ける約束が出来るかもしれないって言われて苛々したというか、悲しかったから。何か、私ばかりがなまえを好きなようで寂しかったし、悔しかったし、悲しかったんだよね」


情けない、と私が溜め息を吐くと、隣にいた義祖母は可笑しそうに笑った。それはそうだろう。大の男がこんなくだらないことで怒って喧嘩した挙句、大嫌いだと言われて傷付き、家を逃げるように飛び出したのだから。本当に情けない。
居た堪れなくなってきて思わず俯く。本当に馬鹿みたいだ、とまた溜め息を吐くと、なまえは私の手を優しく握ってくれた。そして、そのままなまえの濡れた頬に当ててくれた。違うよ、ちゃんと好きだよと言うように。


「何だい。喧嘩の原因は私かい。それは悪かったね」

「…別におばあちゃんは悪くないよ」

「二人でどこに行くつもりだったの?」

「昆も誘って三人でご飯行こうと思ったの」

「えっ。そんなこと一言も言ってなかったじゃない」

「昆が聞いてくれなかったんじゃない」

「あー…」

「まぁまぁ。大団円てことでいいじゃないか。よし、私が原因だというのも癪だからね、明日はご馳走してやろう」


だから二人仲良くするんだよ、と言って義祖母は立ち上がった。私も慌てて立ち上がる。荷物があまりにも多いからホテルまで車で送るべきだろう。しかし、私の提案を義祖母は「迎えが来るから」と断り、出て行ってしまった。
残された私となまえは何となく気まずくて目をなかなか合わせられなかったけど、一応は仲直りをしたわけだからと二人で家に帰った。途中、ほんの少しだけ言い合いにはなったけど、それでも喧嘩というほどの喧嘩に発展はせず、家に帰ってからどちらともなく身体を寄せ合い、二人でのんびりと過ごした。義祖母から貰った紙袋に入っていた手帳のリフィルはグアム限定の物で、なまえが私のことを話していたことが伺えた。何で手帳の話をしたのかは疑問だけど。


「ねぇ、そういえば訂正されてないんだけど」

「訂正?」

「ちゃんと訂正してよ。大嫌いって言ったこと」

「あ、謝ったじゃん…」

「訂正はされた覚えがないんだけど?」

「どうすればいいの?」

「ちゃんと言ってよ。大好きって」

「あー」

「なに、その返事は」

「昆のこと、大好きっていうかさ…」

「なに」

「愛してる」


ぎゅっとなまえに抱き締められ、本当だよと微笑まれる。どうしてこういう不意打ちのような真似をするのだろうか。狡いというか、恐ろしいというか。
明日で私の珍しく長い夏休みが終わってしまう。だけど、きっと明日もなかなかに新鮮な体験をすることになるのであろうことは想像出来た。何せあの破天荒な義祖母と食事に行くのだから。本当はのんびり過ごしたかったけど、これはこれで悪くはない。義父さんは義祖母のことが苦手なようだが、私は別に嫌いではないから。何なら明日会えることが楽しみなくらいだ。
夕食後、義祖母からお土産で貰った珈琲を飲みながら喧嘩をして家を出た後、どう過ごしたか話をした。私がどこに行ってもなまえのことを考えてしまって嫌になったと言うと、なまえもそうだと言う。だから、つい喧嘩をしているのに夕飯を作ってしまうと困ったように言われた。なまえも私と同じようにいつも私のとこを考えてくれているというのなら、これはもう致し方のないことなのだと受け入れられる。私の愛情は決して一方通行というわけではなく、ちゃんと想い返してもらえているということだから。


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