雑渡さんと一緒! 173


「…ただいま」

「おかえりー」

「つ…」

「つ?」

「疲れた…っ」


はぁー、と溜め息を吐きながらソファにもたれかかる。忙し過ぎて死ぬかと思った。長期休暇を取るとこんなにも忙しいのかとゾッとするほどに今日は忙しかった。
なまえは夕飯を持ってきてくれたけど、ちょっと今日は食欲さえないくらい疲れている。今すぐにでも寝たいくらいだ。何故なら明日も忙しいから。明後日も確実に忙しいから。


「そんなに忙しかったの?」

「忙しいなんてもんじゃなかった。あいつら、私がいない間にちゃんと仕事してんのって怒鳴るくらいに酷かった」

「それは可哀想」

「でしょ?」

「いや、部下の人達が」


何で、と思わずなまえを睨む。私がいないくらいで売り上げをあんなにも落としてどうする。サボっていただろうと怒鳴りたくもなるほど酷かった。そして、大量の事務処理をこなさなければならない私は当分の間は外回りなんて出来そうもない。私でなければいけない取り引き先以外は部下に行かせなければならない。あんなにも酷い仕事しか出来ないというのなら、部下に契約に行かせるのも心配なくらいだ。そのくらい、本当に酷い状況となっていた。
最早、煙草を吸う気力さえもないくらい疲れている。というか、落ち込んでいる。私の指導が悪いのか、と。揃いも揃って、私に頼り過ぎだ。私だって死ぬまで働けるわけではない。ちゃんと定年になったら退職させてもらわないと困る。つまり、もっと育ってもらわないと困るわけだが…酷過ぎる。


「明日から厳しくいかないと」

「昆が希望してお休みを貰ったのに酷くない?」

「酷くない!あいつらときたら…」

「もう…はい、どうぞ?」

「どうぞ、とは?」

「ぎゅうってしたいんでしょ?」

「してもいいの?」

「嫌と言ってもするんでしょ?」

「する」


ぎゅうっとなまえを抱き締める。あー、落ち着く。なまえのにおいも体温も鼓動も抱き心地も全て気持ちいい。
カラカラに乾いた心が潤うのをはっきりと感じる。なまえさえ側にいてくれたら私はもう少し職場でも穏やかになれるのだろうか。いっそのこと私専属の秘書になって欲しいと一瞬思ったけど、なまえをあんな激務の会社に就かせるわけにはいかない、とすぐに思い返す。間違いなく倒れるし、身体を壊す。何なら心を壊すかもしれない。なまえは優しいから。


「…ちょっと、お腹空いてきた」

「あ。空いてなかったの?お昼が遅かったとか?」

「いいや。昼なんて食べに行く時間がなかった」

「なかったって…えっ!お昼食べてないの!?」

「時間が勿体無くてね…」


まぁ、よくあることだから、と私が言うと、なまえは慌てたように夕飯を勧めてきた。残念、もう少しこうしていたかったんだけど。まぁ、美味しそうな夕飯を見たら腹も減ってきたから、今は夕飯を頂くことにするか…と手を合わせる。
なまえと出会う前は食事らしい食事は思い起こせば毎日摂っていなかった。今日みたく疲れた日は夕飯なんて食べないこともよくあったし、一日何も口にしないなんて珍しくもなかった。そういえば、出会って初めての月末処理の時も何も食べる気もなく帰宅したらなまえが弁当を作ってくれたな。懐かしいなぁ…あー、後で手帳に挟んだメモを見よう。あれを見たら未だにあの時の気持ちが蘇ってきて頑張れるから。そうしよう、と胡麻和えを口にすると、なまえが申し訳なさそうな顔をしながら私を見てきた。何か言いたそうだ。


「なに?」

「いや、でもやっぱり…」

「うん?」

「何でもない」

「そう」


疲れていて深くは追求もせず、夕飯を終える。煙草と酒が身体に染みていくのを感じる一方、酷く怠くなってきた。もしかしたら、久々に風邪をひくかもしれない。
今まで忙しい時はどうやって生活していたんだったかと思い返してみようとしたけど、やめた。何も食べなくて風邪をひく。ストレスで毎日のように深酒をして体調を崩す。週末は寝て過ごしているうちに終わってしまい、また月曜が来てしまったとうんざりとしながら出勤する。そんな人生など思い返したところで何一ついいことがない。そして、本当につまらない人生というか、つまらない人間の手本のような生き方しかしてきていない。それは、つまらないと言われても何も言い返せやしない。あー、嫌なこと思い出した。やめよ。


「お風呂沸かしたから、入って」

「あれ、早くない?」

「だって、早く寝たいでしょ?」

「あー…」

「あがったら私を待たずに先に寝ててね」

「…ちょっと、寂しい」

「何が?」

「なまえが欠乏しちゃう」

「ご飯も食べれないくせに何言ってるの」

「はぁ…左様で」


寂しいなぁ…と思いつつも、致し方がない。実際のところ、なまえとベッドでゆっくりと過ごすだけの体力なんて今の私にはない。正直、風呂にさえ入るのも面倒なくらいだ。
忙しい今だけ、と諦めて一人でベッドに潜る。なまえがエアコンをつけてくれていたから、寝室はよく冷えていた。一人でベッドに横になると、あっという間に眠くなった。だけど、いつも側にあった温もりがなくて落ち着かない。一人で眠るのはそういえば、なまえが倒れた時ぶりだ。あの時は寂しくて、不安で、悲しくて、本当につらかったなぁ…と思いながら私は眠ってしまった。そんな心理状態で眠っても当然ながら熟睡なんて出来ず、夜中に目が覚めた。ふと目を開けると、なまえが可愛い顔をして寝ていた。寝息をたてて寝ているなまえを抱き締める。このまま目を覚さなかったらどうしよう、と思うと、自然と腕の力が強くなってしまった。


「ん…」

「…あ、ごめん。起こしちゃったね」

「んー…」


私が怖い夢を見たと思ったのか、なまえは私の頭を撫でてくれた。幼子にするかのような対応だけど、とても落ち着く。何も心配しなくて大丈夫だと言われているようで安心する。
なまえの柔らかい髪に顔を埋めて、再び眠る。明日も激務なのだから寝ないと本当に倒れてしまう。
時々、こんなにも幸せなのは私の都合のいい夢なのではないかと不安に駆られる時がある。目が覚めたら、いつものつまらない日常しか送れない、つまらない自分しかいなかったらどうしようかと思うと怖くて堪らない。だから、実は起きているのにわざとなかなか目が覚めないフリをすることがある。目覚めが人よりも悪いのは事実ではあるが、それは過去にゆっくりと安心して眠ることが出来なかったからだ。いつ敵襲が来るか分からない日常を送っていたのだ、熟睡なんて昔はしたくても出来なかった。だから、こうして安心して眠ることが出来るのは幸せなことだ。そして、私が目を覚ますまで付き合ってくれる存在が側にいてくれるというのも幸せなことだ。この幸せを失いたくない。永遠に。
次に目が覚めたら朝だった。なまえは早く起きろといつものように私を起こしてくれた。起きたら既に朝食が用意されていて、本当に有り難いことだし、幸せなことだと思う。
出勤前、玄関で靴紐を締めていると、紙袋を手渡された。


「なにこれ」

「…お弁当」

「えっ。作ってくれたの?」

「食べに出られるなら手を付けなくていいから。迷惑かなと思ったんだけど、でも、ちゃんと食事は摂って欲しくて…」

「…迷惑じゃない。嬉しい」

「本当?じゃあ、よかった」


入れる物がなくて紙袋でごめんね、と言われて手渡された弁当の包みは、付き合う前に貰った物と同じだった。あの時も思ったけど、どのくらいの時間をかけて作ってくれたのだろう。私のために、それも、朝早くに起きて。
嬉しくてなまえを抱き締める。何で仕事に行かないといけないんだろう。このままなまえを抱き締めていたい。このままこうして過ごしたい。だけど、時間は許してくれなかった。
13時頃にようやく一仕事終え、弁当の包みを開くと中にメモが入っていた。メモにはなまえの可愛らしい字で「お疲れさま。午後も頑張ってね」と書かれていた。嬉しさのあまり、泣きそうになってしまったというのは内緒にしておこう。


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