雑渡さんと一緒! 177


直撃しないとはいえ、台風がきた。折角の休みだというのに、どこにも出ないことが正解だと言わんばかりに窓に雨がぶつかる音が聞こえる。ガタガタと風で窓が揺れ、時折雷が鳴り響いていた。なまえは雷が鳴るたびに律儀に悲鳴をあげている。家にいるのだから雷など自分自身に落ちることはないし、マンションには避雷針があるのだから家にいる限りは安全だ。なのに、どうしてこうも雷で怯えるのかよく分からない。分からないが、実に美味しい状況だ。
震えているなまえを抱き締める。大丈夫だよ、と頭を撫でると助けて欲しいと言わんばかりに抱きついてきた。


「怖い…っ」

「綺麗じゃない?稲光って」

「どこが!」

「私は嫌いじゃないけどねぇ」

「私は嫌なの!怖いの!」

「お。近いね」

「ぎゃあ!本当に怖い!」


息も荒く、目に涙を浮かべながら本当に震えていたなまえを見ていると可哀想になってきた。何がそんなに怖いのか分からないが、きっと本当に雷が恐ろしいのだろう。
邪な気持ちなど吹き飛んでしまった私はどうにか安心させてやりたいと思った。どうすればなまえは落ち着くのだろうかと考えていると、電話が鳴った。ディスプレイに「会社」と表示されているのを見て、嫌な予感がした。休日に会社から電話を掛けてくるということは警備、もしくは今日のような災害級の台風の日だとするならば情報システム部からだろう。どちらにしても、出たくない。間違いなく呼び出しだ。


「…はい?」

「あ、お疲れ様です。情報システム部なんですが…」

「あー。なに、バックアップのこと?」

「そうです。週末にバックアップ取ってますか?」

「どうだろ…」

「怪しいようなら至急、来社下さい。落ちました」

「げっ。復旧は?」

「こっち今、停電してるんですよ。なので、時間かかりす」

「…はぁ。分かった、至急行く」


こんな田舎町に雷が鳴ると間違いなく我が社に落ちる。それは日頃の行いが悪いから…などではなく、単純にうちほど高いビルが周りにはないからだろう。
何にしてもデータが飛んでしまってはマズい。週末にバックアップを取っていなければ全員召集を掛ける必要がある。運の悪いことに明日は振り込み日だ。データが飛んでいたら残業なんてレベルの仕事量ではなくなってしまう。
とはいえ、なまえを一人残して行くというのも憚られる。現になまえは電話を切った後から私を無言でじっと見つめている。置いていかないでくれと切に目線で訴えてきていた。


「…ごめん。行かないと」

「い、嫌っ!私を置いていかないで!」

「だけど、この天気だよ?家にいた方が安全だ」

「お、お願い!私を一人にしないで!」

「だけど…」

「ぎゃあっ!?」

「あ。うちにも落ちたね」


部屋が暗くなったところを見ると停電なのだろう。復旧までどのくらい時間が掛かるのか分からない。天気が悪いからかまだ夜ではないというのに部屋は暗くなってしまった。
この状態のなまえを一人残していくのも心配だけど、台風の中、連れ出すのも心配だ。間違いなく濡れるし、下手をしたら怪我をするかもしれない。身体を守るか、心を守るか。どっちも守ってやりたいけど、やはり家にいた方が安全であることは間違いがない。よしよしと頭を撫でてから私は立ち上がり、鍵を待とうとするとなまえは私に抱きついてきた。


「お願い!私も連れて行って!」

「家にいた方が安全だよ」

「安全とか、そんな話じゃないの!昆といたいの!」

「あのね。そう言えば私が連れて行くと思ってるのかもしれないけど、今回は駄目。大人しく布団でも被っていなさい」

「お願い!私を一人にしないで!置いて行かないで!」


何でも言うことを聞くから、とまで言ってきたなまえは本当に一人にはなりたくないのだろう。致し方がなく、着替えやタオルを用意してから二人で外に出る。本当はエントランスまで車を持ってきたかったけど、片時も一人になりたくないと泣くなまえは私の腕を離そうとはしなかった。
案の定、会社に着いた頃には上から下まで濡れてしまった。それでも、暗い会社に入るとなまえはどこか安心したような顔をした。家にいる時よりも落雷音が聞こえにくくなったからだろう。エレベーターが停止していたから階段で13階にまで登らなければならず、うんざりとしながら足を動かす。着いた頃には二人とも息が上がっていた。出来れば帰りは電気が復旧するまで待ちたいところだ。膝が死ぬかと思った。
やれやれとデスクに向かうと、なまえは私の後ろに立った。


「椅子を持っておいで。隣に来なさい」

「あ、うん…」

「バックアップ…あ、よかった。16時にしてある」

「大丈夫だったの?」

「少し入力するだけで済みそうだ」


何件か入れ直すだけで済みそうでホッとする。これなら私一人でも出来そうだ。こんな嵐の中、部下を呼ぶなんてことは流石にしたくない。こんな嵐の中、わざわざ休日に会社に来るのは私一人で十分だ。
入力を始めるとなまえは私の服をほんの少しだけ握った。その縋るような、頼るような所作に胸が締め付けられた。こういう何気ない仕草が本当に愛らしい。そして、頼られているようで嬉しい。愛しくて堪らなくなってしまう。そして、それを計算ではなく素でやってのけるなまえは男を翻弄する術を身に付けていると言えるだろう。この女嫌いの私が溺れてしまうくらいなのだ、きっとなまえに密かに想いを募らせている男が何人かいることだろう。その自覚のないところがまた可愛らしいのだが、心配でもあり、そしてまた、不安でもあった。こんなにもいい女を野放しにすることは堪らなく怖かった。それでも拘束するわけにはいかない。なまえにはなまえの人生がある。だから私は信じるしかない。なまえは私を捨てないと、そう信じるしかない。自分に自信のある男なら、こんなにも不安になることはないのだろうか。


「よし。終わり」

「お疲れ様」

「帰ろうか。雨、やんだかな」


外を見ると、ガラスに雨が勢いよく打ち付けていた。それでも落雷は落ち着いたように見える。帰るのなら今が最良だろう。この薄暗いオフィスにいつまでも留まっていたところで無意味だ。どうせそう簡単には雨はやまないことだろう。何せ、災害級の台風が来ているのだから。
早く帰ろう、と私は立ち上がったが、なまえは立ちあがろうとはしなかった。ぼんやりとオフィスを眺めている。


「なまえ?」

「あ、うん。帰ろう」

「どうしたの?」

「凄いなぁと思って…」

「凄い?」

「昆はこんなにも多くの人を束ねているんだね」


ズラッと並んだ100台以上のデスクを眺めながらなまえは言った。改めて言われると凄いことだ。私などにこんなにも多くの部下がいるというのは。だけど、別に私が凄いわけではない。ここまで多くの社員を雇えるだけの業績を持つ社長が凄いのだ。諦めずに暑い日も寒い日も外を駆けずり回っている部下が凄いのだ。私は何もしていない。ただ与えられた業務をこなすだけだ。部長に昇進してからはより自分が仕事の出来ない凡庸な人間だと思うようになった。私では役不足だ。
もっと効率よく仕事が出来るようになりたい。もっと業績を上げたい。もっと部下を楽させてやりたい。どんどん欲張りになっている。こんなことで満足など到底出来ない。私は自分が出来る限りのことをしていきたい。もっと成長していきたい。それがこれだけの人数を束ねる立場にある人間の責務だ。私自身は何一つ凄くない。普通のことだよ。
私が言い終わる前になまえは呆れたように溜め息を吐いた。


「相変わらず馬鹿な人…」

「…ほぉ、相変わらず生意気なことを言う」

「私、頑張るね」

「なにを」

「あなたの側でずっと支えてあげる。だから、昆は安心して頑張っていいよ。私がちゃんと側で見ていてあげるから」


その代わり、頑張りすぎていたらフライパンで叩いてでも止めるからそのつもりでいてね、となまえは笑った。
何となく気恥ずかしくなって俯く。褒めているんだか、貶しているんだか分からないようなことを言うなまえはいつも何気ないような顔をして私の些細な決意や小さな努力を認めてくれる。そして、いとも容易く私の心を掴んでくる。本当に恐ろしい子だとも狡い子だとも思うし、とてもいい女だとも思う。私はこんなにもいい女に恵まれて幸せだと思う反面、私がなまえにしてやれることは実に少なくて情けなくなる。
外に出ると遠くの方に稲光が見えた。どうやらまだまだ雨は降りそうだし、雷もやみそうもない。何なら今、稲光が見えた方角にこれから帰らなければならない。なまえは私の腕を握り締めながらふるふると震えていた。


「大丈夫。くっついていなさい」

「うん。信頼してるから」

「信頼?」

「私のこと、守ってくれるんでしょ?」

「…うん。命に替えても守るよ」

「そんな、雷くらいで大袈裟な…」

「あぁ。そう思っているから離れなさい」

「い、意地悪言わないでよ…」


なまえは私が欲しいと思っている言葉をいつも用意してくれる。そして、心を軽くしてくれる。本当に敵わない。
しがみついてくるなまえの頭を撫でてから、意を決して家へと帰った。傘なんて何の意味も成しておらず、二人して上から下まで水が滴るほど濡れてしまった。本当は風呂に入りたいくらいだったけど、まだ雷が鳴っているから入ることも出来ず、仕方なくベッドの中で過ごした。初めは別にいやらしいことなどする気はなかったのだが、風邪をひかないようお互い抱き合っていると、どちらともなく唇を重ね合い始め、気が付けば身体を重ねていたのは致し方のないことだろう。私たちはお互いに求め合い、愛し合い、そして、支え合うことが許されている仲なのだから。
この時は、本気でそう思っていた。信じて疑わなかった。


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