雑渡さんと一緒! 178
「奥方さま」
「…へ?」
「あぁ、失礼しました。私、部長の部下の者でして」
「はぁ…いつも、お世話になっています…?」
新学期に備えた買い物をしていると、男の人に話しかけられた。穏やかそうにも見えるし、厳しそうにも見える、そんな不思議な男性は確かにタソガレドキ社の社章を着けていた。だけど、私はこの人のことを知らない。過去の記憶や昆が現世で倒れた時の記憶を辿ってみても、この人の顔は出てこなかった。なのに、相手は私を昆の奥さんだと知っている。
これいかに、と私が首を捻っていると、相手はくすくすと可笑しそうに笑った。そして、何も変わらないと言った。
「私は前世では顔を隠していましたので」
「顔を」
「情報収集する上で素顔は邪魔なだけでしたので」
「あっ、もしかして押都さんですか!?」
「そうです。転生してからは初めてお会いしますね」
ふわっと柔らかい顔で笑い掛けられ、とても穏やかな口調で話されて少しだけ懐かしくなった。
押都さんは私にお買い物ですか、と聞いた。そして、いつまで部長に内緒にするつもりですか、とも聞いた。栄養学部に転科したことがバレているようで驚いたけど、相手が押都さんなら仕方のないことかもしれない。この人は私のことを多分、何でも知っている。昔もそうだった。私しか知り得ないことを知っていた。私が動揺していると、素性の知れない者を調べ上げるのが癖でして…と謝られたのが懐かしい。
「…あの人に言いました?」
「いいえ。情報というのは誰彼構わずに教えるものではありません。部長が望めば、まぁ話は別なのでしょうけど」
「望んでいないんですか?」
「ええ。あなたのことは自分自身の手で暴きたいそうです」
「そ、そうですか…」
「そして、あなたのことを信じておられます」
押都さんと話していて気が付いた。これは忠告だ。私が昆に隠し事をしていることは話そうと思えばいつでも話せる。だけど、昆がそれを望んでいないから黙っているだけだ。昆は私を信じているのだから、隠さずに早く話せ。そう忠告されているのだと思った。
私が顔を青ざめさせていると、押都さんは申し訳なさそうに謝ってきた。その声色の優しさが逆に恐ろしい気がした。
「申し訳ありません。怖がらせてしまいましたか」
「い、いいえ…」
「あのお方は数え切れないほどの傷を抱えておられる」
「…昆がですか?」
「ええ。きっと、あなたに隠し事をされていたと知れば、その傷は更に深くなってしまう。ですので、せめて奥方さまからお話頂きたい。私は、私たちはもうあの方が絶望するところを見たくはないんです。ですので、ご検討頂けませんか」
「昆の傷って何ですか…?」
「それは部長本人からお聞きください」
「…素直に話すとは思えませんが」
「そうですね。だけど、あなたならきっと出来ますよ。部長を救えるのは今も昔も奥方さまだけですので」
そんな大袈裟なことはありません、と私が言うと押都さんはまた私のことを「変わらない」と言った。これは私のことを馬鹿にしているのだと思った。私は今も昔も愚かだ、と。それは事実だから言い訳のしようもない。それでも、今も昔も私が昆のために出来ることを必死に考えて行動しているつもりだ。結果として、そのせいで私は過去に病で死んでしまったし、昆も私の後を追った。押都さんはそれだけはどうしても避けたいのだろう。
私が昆に転科していることを隠しているのには幾つか理由がある。資格を取る自信がないこと、取ったところで何の役にも立たなかった時が恥ずかしいこと、それに私にとって昆が…
「おや。随分と可愛い子を連れているね、押都」
「こ、昆!?」
「お疲れ様です。お戻りですか?」
「あぁ。で?二人で何をしているのかな?」
「偶然、奥方さまにお会いしただけですよ」
「…押都、もう下がれ」
「はい。では、私はこれで失礼致します」
後ろから現れた昆は私の肩を抱き、押都さんを睨んだ。すると、押都さんは私たちにぺこりと頭を下げてから離れていってしまった。言いようのない胸騒ぎが残った。私と押都さんが会ったのは偶然なのだろうか。私に忠告するために来たのではないだろうか。押都さんならそのくらいのことが出来るような気がした。だとすれば、押都さんは私が昆に隠し事をしていることで、これからとてつもない事件が起きると予知しているのだろうか。怖い。私は押都さんが怖い。
過去に私は押都さんに言われた。あなたなら組頭を殺すことなど容易もないことだ、と。その時は私はそんなことがあるはずがないと笑った。だけど、押都さんの声色は真剣そのものだった。そして、結果として私は昆の命を奪ってしまうことになった。私が望んだことではないとはいえ、タソガレドキ忍軍から忍び組頭を奪ってしまったのだ。押都さんの言ったことは本当になる。それに、押都さんは私を恨んでいる。いや、きっと恨んでいるのは押都さんだけではない。あのズラリと並んだデスクに座る人の半数以上が本当は私を恨んでいる。私を尊重してくれているのは昆がそれを抑えているからに過ぎない。押都さんと話して何となくそんな気がした。
「…なまえ?大丈夫?」
「あ、うん…」
「押都に何か嫌なことを言われでもした?」
「…ううん。大丈夫」
「そう。押都はね、難しい奴なんだよ」
「難しい?」
「過去にあまりにも多くの人を探り過ぎたんだろうね。人間不信に近いものがある。だけど、別に悪い奴じゃないんだ」
分かってやって、と昆は困ったように言った。昆と押都さんは深い関わりがある。それはそうだ、タソガレドキ社営業部の係長なのだから。いつもなら昆は「もう関わらないで」と言う。なのに「分かってやって」と昆は言った。それは私が昆の妻であり、今後部下の方々と関わる機会があることを意味していた。そしてまた、昆の隣に居続けることが当たり前だと昆が信じていることを意味していた。妻として。
いつもならきっと嬉しかったと思う。だけど、この時の私は喜ぶことが出来なかった。押都さんが怖かったから、という理由だけではなく、このまま転科したことを隠し通すことが正解ではないと初めて人に言われて動揺していたからだ。
そして、折角押都さんに忠告してもらったというのに、残念ながらそれを活かすことが私は出来なかった。私はそれを悔やんで後々、泣くことになるとは今は知らない。
私が昆と離れるまで、あと30日。
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