雑渡さんと一緒! 183
「雑渡さん」
「あ。久しぶりー」
スーパーで声を掛けられたけど、知らない女だった。どこのどいつだと思ったが、なまえの友人のようだ。雑渡さん、かぁ。結婚してしばらく経つけど、なまえがそう呼ばれているのを耳にする機会が少ないから新鮮な気持ちになる。なまえは私の妻なのだと名字から感じることが出来て、聞いていて何となく嬉しくなった。
女を見ると会釈されたから、会釈し返す。ついでに軽めに笑顔を作ってやる。なまえの友人なら今後も会う機会がある可能性がある。印象は程々に良くしておいた方がいいだろう。
「もしかして旦那さんですか?」
「そうだよ。はじめまして」
「はじめまして。お噂はかねがね」
「おや。噂してくれているの?」
「に、日常的なことを話してるだけだよ」
「ふーん?」
それは惚気とは言わないのだろうか。何にしても、なまえが私のことを話してくれているようで嬉しい。話題になる程、私がなまえの生活の一部となっているのだとすれば、これ程までに嬉しいことはない。
私が上機嫌になっていると、年相応の笑顔で女は笑った。
「聞いていた通り、仲がいいんだね」
「ま、まぁ…」
「文学部だったのに、わざわざ途中から栄養学部に移ってくるくらいだもんね。いいなぁ、幸せそうで羨ましい」
「…栄養学部?」
「あ…っ」
「秋からも実習が忙しいけど、頑張ろうね」
手を振りながら離れていった女を呆然と見つめる。栄養学部?なまえが文学部から移った?一体、何の話だ。
腕を引かれて我に返り、なまえを見ると青ざめた顔をしていた。その表情から、本当のことなのだと知る。おろおろと狼狽えているということは、私に隠していたことがバレてマズいと思ったということなのだろう。つまり、それを分かった上で私に隠していた。相談さえしてもらえず、学部を変えても黙っていた。一緒にいたのに、ずっと隠されていた。
「…いつから?」
「春から…」
「…そう。気付かなかった」
「あ、あのね。私ね…」
「それよりさ、早く買い物をして帰ろう」
今日は夕方から雨だと言っていた。早く帰らないと濡れてしまうよ、と私が笑い掛けるとなまえは何故か青い顔を更に青くした。そして、震えながらカートを押した。
その後のことはあまりよく覚えていない。何が食べたいか聞かれたけど、あまり食欲が湧かなかったから確か、何でもいいと答えた。なまえは私の好きな物を作ってくれようとあれこれ提案してくれていたけど、その媚びを売るような振る舞いに嫌気がさしたのはよく覚えている。そして、こんなことで機嫌を取れると思われていることに心底がっかりした。私は確か、媚を売られるのは好きではないと、その裏に見える打算的な考えが見えることは好きではないと伝えたはずだったのに。あれはいつのことだったか、もう思い出せない。
「あ、あのね。私、栄養学部に春から通っているの」
「ふぅん」
「私、入院している時にね、栄養学に興味を持って…」
「そう。そんな前から」
「で、でもね。私ね…」
「もうその話はいい。なまえにはなまえの人生がある。好きなことをしなさい。私にはそれを止める権利などはないよ」
なまえにはなまえの人生がある。結婚していようとも、私がそれを邪魔する権利などない。なまえはなまえのしたいことをすればいい。だから、私は私の好きなように生きる。ただそれだけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。
なまえの作るご飯は美味しい。それは誰もが認めることだろう。だから、店でも出したくなったか。きっと繁盛することだろう。それでも、店を出すのなら調理師や管理栄養士の資格も必要なのではないだろうか。あぁ、いや、これから取ろうとしているのかもしれない。私は何も聞かされていないけど、きっと将来のことを考えているのだろう。私には専業主婦になりたいと嘘をついていたけどね。でも、もうどうでもいい。この子は私が思うような子ではなかったのだから。私を裏切り、きっとどこかへ行ってしまう。あの女のように。
「少し出掛けてくる」
「ど、どこに?」
「どこだって構わないでしょ」
「…遅くなる?」
「さぁ。どうだろうか」
家を出て、ぼんやりと考えながら宛てもなく歩く。今の感情を一言で言えば、怒りではなく「無」だった。照星に裏切られたと知った時には感じた怒りがまるでない。本当になまえに対して何の感情もなかった。それは、これまで自分が経験したことのないことで、ほんの少し動揺したけど、次第に辿り着いた答えは疑問だった。
私はなまえを愛しているし、なまえも私を愛していると信じていた。だけど、それが揺らいでいるのを感じる。私はなまえをこれからも愛せるだろうか。これまでのように何事もなく過ごせるだろうか。少なくとも、もう私はなまえを信頼出来ない。あの子は私を裏切り、いつか離れて行ってしまう恐れのある存在だ。そんな子にこれまでのように自分の全てを預けられはしない。だけど、夫婦といえども所詮は他人だ。だから、こんなものなのかもしれない。私がおかしかった、ただそれだけの話なのかもしれない。そう思った。
ふと顔が濡れていることに気付いた。そうだ、今日は夕方から雨が降るんだっけ。傘を持って出ればよかったと思いながら空を見上げたけど、雨は降っていなかった。街中だというのに自分が泣いているのだと知り、情けなくて目を擦った。
私がなまえと離れるまで、あと日。
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