雑渡さんと一緒! 186
家を追い出されてとぼとぼと歩く。握らされたお金はしわしわになっていた。失くす前に、と財布にしまう。
昆、これを渡す時に震えていた。私を叩いた後、今にも倒れそうなほど青い顔をしていた。きっと今、泣いているのではないだろうか。そう思った。多分、傷付いている。だけど、私も昆を傷付けた一人なのだ、偉そうなことはとてもではないけど言えない。それに、多分何を言っても聞き入れてはもらえない。そんな気がした。
これから私は、私たちはどうなるのだろう。何が正解なのかよく分からない。だけど、こうして離れてしまってはこのまま駄目になってしまう。それだけは確実だと思った。
実家に帰れと言われたけど、お父さんに根掘り葉掘り聞かれることが嫌で私は実家には帰りたくなかった。かといって、いつまでもこうして立ち尽くしていても仕方がない。バレたらまた怒られるのだろうけど、私は宛てもなく歩き始めた。明日は平日だからか、人も少ない。駅に向かう途中の歩道橋でぼんやりと車を眺めながら、先程した昆との会話を思い出す。昆は私のことをもう愛していないと言った。もう私を見ても何とも思わないと言った。昨日、抱かれたのも別に愛情があったからではないと言った。あまりにも信じられないことばかり言われて、あの時はすぐには涙は出なかったけど、改めて思い返すと涙が止まらなかった。私はもう何も出来ないのだろうか。これで全て終わってしまうのだろうか。私はまだこんなにも好きなのに、過ちを謝罪することさえ許されず、つい先日まで幸せだったことさえも色褪せてしまうのだろうか。そんなことを考えていると、人に話し掛けられた。
「お嬢さん、こんな夜更けになに泣いてるの?」
「その…」
「危ないよ?夜にはさ、曲者が出ちゃうかもだから」
「曲者…」
まるで昔の昆のようなことを言う。あの人は自分のことを自ら「曲者」であると名乗ることが多かった。まぁ、怪しい雰囲気を漂わせている人だったから、言い得て妙ではあると思っていた。しかし、この平和な現代でまたそんな単語を耳にすることは当然なく、可笑しなことを言う人だと思った。
綺麗な格好をした、綺麗な女の人はゴージャス気味に巻かれた長い髪を風になびかせながら私をジロジロと眺めてきた。
「うーん…家出少女?」
「ち、違います!ちょっと、夫と喧嘩して…」
「あらー。じゃあ、早く帰って仲直りしな」
「そうですね。そう…」
そう、仲直りしたい。というか、あれは喧嘩なのだろうか。私も昆も言いたいことを言い合ったりしていないし、昆はどちらかといえば怒っているというよりは失望していると言っていた。今の状況は喧嘩というよりは、破局の一歩手前のところにまできている気がする。
そんなことを初対面の人に言えるはずもなく、私は頭を下げた。だけど、涙が止まるはずもなく、泣き続けてしまう。
「ありゃ。これは訳ありさんだ」
「すみません。もう放っておいて下さい…」
「どうしよっかなぁ…」
「あの、私は自分でどうにかしますので…」
「そう言う人ってさ、どうにもならないパターンが多いもんなんだよね。それに、放っておくと後々余計面倒なことになりそうな気もするし…よし。うちに来なさい、なまえちゃん」
「…え?」
「ほら、行くよー」
強引に手を捕まれ、私は知らないお姉さんの家へと連れてこられた。お世辞にも綺麗とは言えない部屋には無数のブランド品が乱雑に置かれているし、壁が抜けるんじゃないかと思うくらいの数の服が掛けられていた。床は化粧品と服で見えない。ここまで汚い部屋は初めて見たかもしれない。
お姉さんは私の名前を何故か知っていた。その理由を聞きたいけど、家に着くなり誰かに電話していて聞く機会をまだ得られていない。座っててと言われたベッドの上に積まれていた服を隅に避けてから腰掛ける。彼女は誰と電話しているのだろう。彼氏さんなのか、お友達なのか。初めは静かに話していたけど、次第に白熱した話し方に変わっていった。
「あー、もういいわ。あんたも堅物なのね、結局」
そう言い捨てて、お姉さんは携帯をテーブルに叩きつけた。そして、苛々した様子で煙草を吸おうと灰皿を持ち、ベランダを開けた。部屋もさることながら、見えるベランダもなかなかに汚い。ゴミ袋が積まれているけど、あれはいつの物なのだろうか。あれ、この人、大丈夫なのかな。
よくよく考えると、女の人とはいえ知らない人の家にいるというのは、どう考えても危ない。昆が知ったら絶対に怒る。
「あ、あの!お邪魔しました!」
「ん?どこ行くの?」
「ど、どこかに行きますので!」
「ふふ。そういう時はさ、嘘でも家に帰るって言うんだよ」
「わ、私…っ」
「大丈夫。私、怪しいもんじゃないから。旦那と落ち着くまで家にいていいよ。というか、いて。あなた、危なそう」
「な、何が危ないんですか!?」
「ふらふら歩いて、見知らぬ人のことを簡単に信用した上に騙されて犯されて捨てられそう。なんか、頭悪そうだし」
「ひ、酷くはないですか…!?」
「あいつも何だってあなたを選んだんだろうね。不思議」
「あいつ…って」
「雑渡なんでしょ?あなたの旦那」
「えっ。ど、どうして…?」
「ま、その話はおいおい話すわ」
ベランダの戸を閉めてからお姉さんは笑った。呆然としている私を見て可笑しそうに「ちんちくりんな子」と言って、髪を撫でられる。色気があって、ぞわりとした。
この人の家に連れてこられて、動揺のあまり涙は止まっていたのに、昆の名前を出されてまた泣けてきた。お姉さんは私のことを「子供だね」と言いながらティッシュを渡してきてくれた。さっきから酷いことばかり言われている。だけど、不思議と嫌な気持ちにはあまりならない。それは心が悲しみのあまり麻痺しているからなのか、それともこのお姉さんの醸し出している雰囲気が怪しげであり、そしてまた艶っぽくて飲まれているからなのか。兎にも角にも、私は流されるようにこの日からお姉さんの家に寝泊まりするようになった。
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