雑渡さんと一緒! 187
「お前、なまえに何を言った」
「何も申してはおりません」
「ほぉ?私のトラウマがどうとか言ったと聞いたが?」
「…ですが、その内容については申しておりませんよ」
「内容ねぇ…」
トラウマねぇ。それはどの事象のことを言っているんだろうか。親に捨てられたこと?女嫌いになったきっかけ?それとも、もっと昔のこと?何にしても、分かったようなことを言うな。お前が私の何を知っている。表面上の情報しか持っていないくせに、偉そうに私を分かったかのような言い方をしないでもらいたい。私の心は私だけのものだ。私の傷は私だけのものだ。誰も知らなくていい。どうせ理解されない。そのくせ、分かったようなことを言って慰め、遠くから憐れむのだろう。もういい。もう十分だ。
椅子の背もたれに体重を預けながら押都を睨む。成る程、私よりも歳は上だが、見ようによっては若くなって見える。それでいて、恵まれた環境下で育ち、何の苦労もせずにタソガレドキ社に入社した。いいね、お前の人生は順風満帆で。
「…欲しいなら、くれてやる」
「…はい?」
「なまえが欲しいんだろう?お前にやると言っている」
「な、何を…っ」
「あれはね、私にとってもう必要のない女だ」
なまえなど要らない。あんな女、愛したことが間違いだった。身を焦がすような熱を与えてくるくせに、簡単に私を裏切るような女。もう要らない。もう離れていたい。
押都に話は終わりだと告げたにも関わらず、呆然と押都は立ち尽くしていた。お前は私をまた裏切った。だけど、今回は許してやろう。その代わり、私はもう二度とこいつを信用しない。もう二度と従順な部下だとは思わない。それでも、あの時のように斬りつけたりはしない。睨みを効かせることもしない。今が平穏な時代であることに感謝するがいい。
「…まだ忘れられませんか?」
「それは誰のことを言っている」
「彼女のことです」
「なまえのことを言っているのだとすれば、見当違いだ」
「いいえ。私が言っているのは、幼少の…」
「…幼少の、何だ。言ってみろ」
自分でも驚く程に低い声が出た。それ以上口を開こうものなら殺してやる。そう言わんばかりに睨みつけると、押都は怯んだ。あまりにも恐怖に満ちた顔をしたものだから、思わず笑ってしまう。そうか、私は恐ろしいか。
押都は私に頭を下げて離れていった。遠慮がちに遠くから部下が見ていたが、目線をやると逸らされた。そのあからさまな反応を見ていると、自分はさぞ恐ろしい顔をしているのだろうと思った。私は今も昔も恐ろしい人間なのだろう。そうか、だから私は一人なのか。優しくなりたいと思っていたけど、もういい。優しく接したい相手などもういないし、どんなに頑張っても優しくも大切にも出来なかったのだから。
私はなまえを失ったら仕事なんて手につかなくなると思っていた。だが、実際のところ、異様に捗る。食欲だってある。ちゃんと一人でも何の問題もなく生きていけている。
「お。帰りか?」
「いや、もう少し残ってやっていく」
「そりゃあ、お疲れ」
家に早く帰る必要などもうないから、もう少し残って明日の分まで片付けてから帰るつもりで喫煙所近くの自販機に向かうと、仕事帰りの佐茂に会った。定時帰宅、ね。私も昔は羨ましいと思っていたものだ。だが、今はこの忙しさに救われている。仕事が楽しくて仕方がない。
佐茂は私を手招きした。何となく、なまえのことを言われるのだろうなと思った。北石あたりから聞いたのだろう。
「なまえのことなら話すことはない」
「いや、まぁ聞けよ。なまえちゃん、今…」
「話すこともなければ、聞くこともない。もう関係ない」
「なんだよ、関係ないって。離婚でもする気か?」
「そうなるかもしれないね」
私自身は別にそこまで離婚を望んでいるわけではない。だけど、近いうちに離婚することになるだろう。離れて冷静になればなまえは私のような男に嫌気がさすだろうし、私もなまえのことはもう愛していないのだ。離婚することになるのならば、それはそれで構わないし、自然な形だろう。
あっさりと私が離婚する可能性があることを告げると佐茂は驚いたような顔をした。それもそうだろう。数日前の私ならそんなことは口が裂けても言えなかった。そんな発想には辿り着けなかった。本当になまえを愛していたのだから。
「雑渡、なまえちゃんを逃したら一生一人だぞ!?」
「そうだろうね。別に構わない」
「なにをそんな意固地になってんだよ!後悔するぞ!」
「意固地になっていないし、後悔もしない」
「何があったんだよ!?」
「別に佐茂には関係のないことだ」
「あれか?栄養学部のことか!?」
「…あぁ。佐茂も知っていたんだ?」
「知ってたよ。お前、ちゃんと理由を聞いたのか!?」
「………」
「なぁ!聞いてんのかよ!?」
「そうか。知らなかったのは私だけだったのか…」
なまえのことは私が真っ先に知っていたかったし、知れているのだと思っていた。夫婦なのだから隠し事などないし、互いに分かり合っていると思っていた。だけど、どうやら違ったようだ。私はなまえを愛していたし、愛されていると信じていた。だけど、違ったのかもしれない。
ズキッと胸が刺すように痛んだかと思えば、急に息が苦しくなってきた。嫌な思考が止まらない。私はずっと一人だったんだ。ずっと裏切られ続けていた。ずっと信じていたのに…
「お、おい…お前、顔色真っ青だぞ!?大丈夫か…」
「…いいや。もう私は駄目だ」
「待ってろ!今、なまえちゃん呼ぶから!」
「いいや、その必要はない。もういいんだ…」
「おい!雑渡!」
佐茂は本当にお人好しだ。私のことなんて放っておけばいいものを、わざわざ一緒にタクシーに乗ってまで着いてきたのだから。行き先を告げると、佐茂は驚いたような顔をしたけど、特に何も言わなかった。
タクシーがあまりにも静かで、ラジオのボリュームを上げてもらう。静かな所にいたら押し潰されそうだった。だから普段なら絶対に行かないような所へと向かう。あそこなら嫌なほど煩い。それに、分かりやすい奴しかいないから気が楽だ。私と同じように醜く、そして孤独な奴がたくさんいる。砂糖に群がる蟻のように近付いてこようとされる。普段なら吐き気がするほど嫌だった。だけど、今はそうされたい。偽りでもいい。誰かに求められたい。軽蔑するような人間を自分から求める日が来るなんてまさか夢にも思わなかった。
「いらっしゃいませ。ご指定はございますか?」
「ヨルお願い。あと、余ってる子全員つけて」
「かしこまりました。ありがとうございます」
「お、おい…」
「なに」
「なまえちゃん、怒るんじゃないか…?」
「もう関係ない」
「関係ないってなんだよ」
「煩い。文句があるなら佐茂は帰れ」
案内された席に座った女は私と佐茂の顔を見て驚いていた。まさか二人でキャバクラに来ることがあるなんて思ってもみなかったのだろう。何故かやや焦ったような顔をされたが、すぐに作った女の顔をした。
私が話す前に佐茂が女に話し掛けていた。やや怒りながら。
「お前…っ、早く返せよ!」
「やだー。こわーい」
「なにが怖いだ!雑渡がおかしくなってる!」
「そうなんだ。じゃあ、余計に返せない」
「なに。何の話?」
「何でもない。それより、何か飲む?」
「あぁ。ドンペリ入れて。一番高いやつ」
「プラチナ?」
「それでいい。というか、他の子はまだ?」
「お、おい…」
私がシャンパンを入れた途端にぞろぞろと若い女が群がってきた。これ見よがしにと社章をちらつかせてやる。どうだ、お前たちが好きな金を持った男だぞ、私は。私のことを落としたいだろう。誰でもいい、近寄ってこい。
これでいい。元々、私に近寄ってくるのはこんな女ばかりだったのだ、むしろこれが普通だ。愛なんて欲しいと願わなければよかった。金でだけ繋がった関係の方が分かりやすく、楽でいい。裏切るもなにもない、初めから利害関係しか存在しない。私は孤独を埋める、相手は売り上げを上げる。それだけの関係。その一瞬だけでも満たされればそれでいい。誰かからの愛情なんて私には初めから手には入れられないものだった。身の程知らずにも望んだことが間違いだった。
隣に座った女の肩を抱く。私の本指名が欲しいのだろう、必死に擦り寄ってきて哀れだと思った。だけど、哀れなのは私も同じだ。必死に孤独を金を使って埋めようとしているのだから。何と情けないことなんだろうと思わなくもない。それでも、誰でもいいから助けて欲しい。一人になりたくない。
「…あぁ。酒が足りない。もう一本入れて」
「やめとけって!いい加減にしろよ!」
「煩い。黙れ」
「もういい。なまえちゃんに…」
「きゃー。手が滑ったぁ」
「あー!てめぇ、何すんだよ!?」
「ごめーん」
ヨルの手によって佐茂の携帯に酒が掛けられた。見ていて、わざとなんだろうなぁと思ったけど、ようやく邪魔が入らなくなって安心した。なまえのことなんて考えたくない。なまえのことどころか、何も考えたくない。何も考えられなくなるくらいまで酔いたい。
泥酔するほど飲みたくて、馬鹿みたいなペースで酒を煽った。飲んでも飲んでも全然酔えなくて、追われるように酒を飲んだ。早く忘れたかった。なまえのことも、あの女のことも、ずっと一人だったことも、自分が孤独を恐れていることも。何もかも全て忘れて、何も考えずに生きたい。何も感じないくらいおかしくなりたい。そう願って飲み続けたというのに、飲めば飲むほど会いたくなるのは一人の小さな、つい先日まで愛しくて仕方のなかった女の子だけだった。
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