雑渡さんと一緒! 185


ジムから帰るとなまえは蹲ってソファで泣いていた。私が家を出てから随分と時間が経っているというのに、まだ泣いているのか…と隣を通り過ぎて着替える。
自分でも信じられないくらい私はなまえに対して何とも思わなくなっていた。泣いていても、怒っていても、笑っていても何の感情も動かない。今まで経験したことのない不思議な気持ちだった。率直に言えばなまえに対して興味がない。どうでもいい存在と成り果てていた。そして、それを悲しいと初めは思ったけど、今では何とも思わない。そのくらい私の心は冷えていた。まるでなまえと出会う前の頃のようだ。
なまえは私を見るなり縋るように近寄ってきた。別にゾッともしなければ、愛しいとも思わない。何の感情も揺さぶられなかった。だから、簡素に帰宅を告げる言葉を発した。


「ただいま」

「おかえり…ねぇ、話をしようよ!」

「私は何も話すことはない」

「嘘!どうしてそんなに嘘をつくの!?」

「嘘ねぇ…」

「言いたいことがあるなら言ってよ!」


嘘をつく?それはなまえだろう。私に隠し事をしておきながら、私を責めるとはお門違いにも程があるのではないだろうか。どうせあの女のようになまえも私から離れていくのだろう。何ともないような顔をして、さも、私に関心があるような素振りを見せておきながら、あっさりと私を捨てていく。
それでも、私はなまえと離婚する気は毛頭ない。一度夫婦になろうと、共に支え合おうと誓い合った仲なのだ、これは一つの縁だろう。例え心が通っていなかろうとも、生活を支えてくれる存在がいるのといないのでは訳が違う。仮面夫婦という単語が世にあるくらいなのだ、こんな関係性の夫婦など山のようにいることだろう。だから、私たちはこれでいい。互いに信頼などしなくてもいい。互いに求め合うのは愛情ではなく、利便性だ。私は外で金を稼いでくる、なまえは私の世話をする。それでいいではないか。何が不満なのだろう。


「私にはお前の思考が理解出来ない」

「な、何が!?」

「なまえは私に隠し事をした。私があれ程、何度も隠していることはないか確認したにも関わらず、嘘をつき続けた。それで何故、私が責められなければならない。少なくとも私はなまえに隠し事はしていないし、嘘もついてはいなかった」

「だ、だから謝ってるし…ふ、普通に怒ってよ!」

「お前の言う普通が何なのか分からないけど、私は別に怒ってはいない。そうだな、敢えて言葉にするなら失望はした」

「失望…」

「ただそれだけだよ。もういい?寝たいんだけど」


明日も仕事だ。早く寝たい。明日は朝から会議があるから早く出勤しないといけないし、こんな無駄な会話を続けることは時間と労力の無駄だ。
寝室へと入り、布団をめくるとなまえが抱きついてきた。早く寝たいと言ったはずなのに、こうも私の意思を無視されると流石にうんざりとする。だから女は好きじゃないんだ。感情的で、自分勝手で、男を振り回し、嘘ばかりつく。なまえは違うと思っていたんだけどなぁ、見当違いだったようだ。


「…なに。今日もしたいの?好きだね、本当」

「わ、私は昆のことが…っ」

「あのさ。私は男だから愛していない女だって抱ける。だけど、私にだって感情というものがあるんだ。今日は何もしたくない。昨日みたく偽った言葉を並べるだけの気力がない」

「い、偽ったって何…」

「なんだ、気付いていなかったか。私は昨日、いつものように愛していると言ったね。あれはその場凌ぎの嘘だよ」

「わ、私のことを愛していないってこと!?」

「そうだね、もう愛していないんだと思う」


だからこんなにも何の感情も動かないのだろう。なまえと過ごす時間よりも仕事をしている時間の方が遥かに楽しい。ジムで身体を動かしている時の方がずっと楽しい。
私はなまえに裏切られたら多分、おかしくなると、壊れてしまうと思っていた。そして、本当に私は壊れたのだろう。だけど、想像していた壊れ方はしなかった。体調は自分でも信じられないくらいいいし、頭は冴え渡っている。仕事が異様に捗るし、営業成績が下がることもなかった。失くしたのはなまえに対する執着心だけ。得たものの方がずっと大きかった。だから、むしろ裏切られてよかったとさえ思っていた。


「私はなまえを愛していないが、夫婦だからこれからもお前を抱く。別に不貞行為はするつもりがないから安心なさい」

「あ、愛情のない行為なんて私は要らない!」

「それではこの生活は破綻する。溜まったらどうしろと?」

「あ、あなたは誰なの…?」

「これは可笑しなことを。私のことを忘れたの?」

「あなたは昆じゃない…私の知っている昆はこんなことを言う人じゃない。ねぇ、お願い!いつもの昆に戻って!」


くだらないことを言われても何の感情も動かなかったが、横になったら身体を揺すられて流石に頭にきた。私は寝たいと言った。今日は抱きたくないと言った。なのに、どこまでも私の意思をなまえは無視し続ける気か。
なまえはいい女だと思っていたが…見る目がないな、私は。


「いい加減にして。面倒くさい」

「昆のトラウマって何!?」

「トラウマ?」

「押都さんが言っていたの。昆は心に傷をたくさん負っているって。それがトラウマになっているって言っていた」

「ふぅん」

「ねぇ、今回のこともそれに関係しているんでしょ!?」

「さぁ。どうだろうか」

「昆だって私に隠し事をしているんじゃない!」

「そう思うのなら、そうなんだろうね」

「ねぇ!ちゃんと話してよ!」

「なまえは隠しておきながら、私には隠すなと?これはまた随分と都合のいいように扱う。あまりに筋が通っていない」


押都ね。あいつ、何を言ったんだろう。きっと押都なら私のことなど全て把握している。それこそ、生い立ちからなまえと結婚するまでの過程全てを知っていても何ら不思議ではない。あいつはそういう男だ。そして、私をまた裏切った。裏切り方こそ異なるが、押都に裏切られるのは過去の分と合わせて二度目か。昔は斬りつけてやったけど、今回はどうするかな…照星といい、なまえといい、押都といい…どいつもこいつも私を裏切る。トラウマにもなるだろう、これだけ揃いも揃って私を裏切るのだから。心に傷を負っている?負うさ、そりゃあ。お前たちは私には心がないとでも思っているのだろうか。私を何だと思っているんだ。馬鹿にするな。
心がザワザワと騒がしくなってきた。もういい、もうやめてくれ。もう何も思い出したくない。もう何も考えたくない。


「ねぇ!ちゃんと話をして!」

「…うるさい」

「私、昆のこと、支えたいと思ってるの!」

「…嘘だ。お前たちは私を欺き、裏切って離れていく」

「お前たちって何!?それに、私は昆の側にずっと…」

「うるさい!嘘ばかりつくな!」


バチン、という音がした後、なまえはベッドに倒れた。自分の右手が痛くて何があったのだろうと眺める。
私は今、なまえに何をした?何故、なまえは左の頬を押さえている?何故、頬が赤くなっている?なまえは呆然とした顔で私を眺めていたし、私も呆然となまえを眺めた。とても静かな時間が流れ、自分がなまえを叩いたのだと知った。あんなにも大切にしていたはずなのに。これまで、どんなに不快なことがあろうとも、女に手をあげたことはなかったのに。


「…この家から出て行って欲しい」

「ま、待って!私はまだ…」

「何も離婚するというわけではない。少し距離を置きたい」

「置いたら何かが変わるの!?」

「分からない。だけど、今は一緒にはもういられない」


自分は最低な人間なのだと知っているつもりだった。それでも、まさかここまで酷いとは思ってもいなかった。女に道具のように扱われたから、私も女を道具のように扱ってやっていた。きっと、たくさん傷付けたことだろう。女の身体は繊細なものだ。だから私はなまえのことを壊れ物を扱うように抱いていた。壊したくなかったから。傷付けたくなかったから。失いたくなかったから。なのに、私はなまえに手をあげた。それも、頬が赤くなるほど強く叩いてしまった。
一度離れて、冷静になりたい。私はそう告げ、現金を手渡した。これで実家に帰りなさい、と言って。なまえは嫌がったけど、異論は認めなかった。追い出す形でなまえを家から出し、一人になってからソファで煙草を吸おうとしたけど手が震えていて火がつけられなかった。右手の感覚がない。
自分があまりにも恐ろしくて、私はなまえに裏切られた日ぶりに泣いた。私はなまえを傷付けてまで何を護りたかったのだろう。何をそんなに恐れているのだろう。すぐに答えは出たけど、とてもではないが、すぐには認められなかった。


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