雑渡さんと一緒! 189
「昆奈門様。私、貴方をお慕いしております」
「あぁ。ありがとう」
「貴方を生涯支えさせて頂きます」
「それは楽しみだね」
柔らかな表情で微笑む女を抱き寄せる。近いうちに私はこの女と夫婦になることだろう。別に好いているわけでもなんでもない。だけど、かといって嫌いなわけでもなく、何年も共に過ごしていくうちに少しずつ惹かれていくことが出来ると思っていた。決められた婚姻なんてそんなものだろう。それでも、この女との間にいずれ子を設け、その子を忍びとして育て上げる。定年退職したら妻となったこの女と共に余生を過ごし、生涯を終える。凡庸ではあろうが、きっとその中で数多くの幸せを見つけ出すことが出来る。そう思っていた。
なのに、あの女は私を裏切った。私が床に伏せている間に見知らぬ男と祝言を挙げ、子まで成した。一度たりとも私の顔さえ見に来ようともしなかった。何が生涯支えるだ。
人はすぐに人を裏切る。そんなことくらい、分かっていた。だけど、じゃあ人は何を信じたらいいのだろうか。安らぎとはどこに見出せばいいのだろうか。結局のところ、安らぎを他者に求めることは不可能ということなのだろうか。だったら、人は生まれてから死ぬまでずっと一人だということなのか。誰にも理解してもらえず、寄り添ってもらうことも出来ず、弱さを見せることもなく、ずっと自分の中で消化していくしかないのだろうか。せめて親がいたら無償の愛を与えてもらえたのだろうか。ずっと側にいてくれるのだろうか。どんなに反発しても、裏切られることなく、ずっと側に。
「雑渡くん、また喧嘩したでしょ!謝りなさい!」
「嫌だ」
「あなたはどうしていつも喧嘩ばかりするの」
「煩いな!関係ないだろ!」
「関係あるよ。私は雑渡くんの親代わりだもの」
「何が親代わりだ。私のことなんて興味もないくせに」
お前はただ、仕事として孤児の世話をしているだけに過ぎないくせに偉そうに説教なんてするな。知っているんだ、任期が終えたらお前たちはすぐにいなくなるのだと。
そう言うと、先生は私を抱き締めた。大丈夫だと言って。
「私は雑渡くんの側にいるよ」
「…嘘つき。どうせ、いなくなるくせに」
「本当だよ。私、雑渡くんが大切だもの」
「…本当?」
「本当だよ。ほら、約束。嫌なことがあったらお友達と喧嘩する前に先生にまずお話して?私が全部受け止めてあげる」
「…嘘だ。そんなの、嘘だ!」
「嘘じゃない。先生はずっと雑渡くんを見守っているよ」
「どうして…」
「だって、あなたは私の可愛い子供だもの。ね?」
「………うん」
小指を絡めた数ヶ月後、先生はいなくなった。私は約束通り先生には全て話していたし、喧嘩もしなかった。なのに、先生はいなくなった。それどころか、転勤することさえ私は何も聞かされていなかった。本当は何ヶ月も前から決まっていたことだろうに、隠されていた。何もかも嘘だったのだ。
どうして人は嘘をつくんだろう。どうして人は簡単に人を裏切るんだろう。それで誰かが傷付くなんて思わないのだろうか。だったら私だって嘘をついてもいいだろう。私だって人を裏切ってもいいだろう。そうでなければ不公平だ。みんな自分が傷付きたくないから嘘をつくんだろう。だったら私だって傷付きたくないから嘘をつく。それでいい。お前たちは私を簡単に裏切る。私を傷付ける。もう、誰も信用しない。
「ねぇ、昆。私ね、昆のことが好き。ずっと側にいたい」
「本当?ずっと一緒にいてくれる?」
「うん。ずっとあなたを支えていくって約束するから」
嘘つき。なまえだって、なまえだって私に隠し事をしていた。どこからどこまでが嘘だったのだろうか。本当は私のことなんて愛していなかったんじゃないのだろうか。そうだ、そうに決まっている。だけど、それでいい。私だってもう愛していない。だから、なまえなんていなくても平気だ。そう思った。いや、無意識のうちに自分に必死に言い聞かせていた。そうでなければ、耐えられなかった。心を差し出した相手が離れていくのはもう嫌だった。もう二度とあんな想いはしたくなかった。
結局のところ、私は私自身を守りたかった。傷付けられる前にお返しだと言わんばかりになまえを傷付けて私から離れたかった。そうしなければ耐えられなかった。なまえなんていなくても平気だと、あんな裏切り者なんて必要ないんだと必死に必死に自分に言い聞かせて、とにかく私は逃げ続けた。だけど、どんなに言い聞かせても、そう簡単にはなまえは私の心を返してはくれなかった。きっとなまえが私に隠し事をしたのだって何か理由があるのではないか。そう信じたかった。だけど、怖くて話も出来なかった。もう要らないと言われることが怖かった。資格を取って店を開き、私から離れていかれることが怖かった。これ以上傷付くことが怖かった。
「なまえ…っ」
なのに、なまえに会いたくて会いたくて堪らない。なまえに会いたい。なまえの声が聞きたい。なまえに触れたい。いつまで経ってもその想いは消えるどころか増すばかりだった。
あぁ、だから嫌だったんだ。こんなに苦しいのなら恋なんてしたくなかった。出会いたくなんてなかった。なのに、幸せだった時間が私を縛り付ける。どうにかしたら私から離れていかずに済む方法が見つかるのではないかと思ってしまう。願ってしまう。誰も私の孤独なんて救ってもくれないと分かっているのに、どうしてもなまえに縋り付きたくなる。
「大丈夫。私は側にいるから」
優しい手つきで頭を撫でられる。まるで幼子にするような優しさが私を癒していく。ボロボロの心が少しずつ治っていくような、言いようのない感覚に酔いしれる。
ふと目を開けると知らない部屋にいた。何ここ、どこ。というか、物凄く嫌な夢を見た。身体を起こすと頭が割れるのではないかと思うほど痛くて、また横になった。そうか、昨日馬鹿みたく飲んだんだ。で、ここはどこだ。記憶がない。
「お。やっと起きたか」
「あー…。ここ、どこ?」
「俺の家。何も覚えてないのか?」
「んー…」
「ふーん。そりゃあ、残念だったな」
「…は?」
含みのある顔をして佐茂と北石が笑っていた。実に不快な笑みを携えているものだから、喧嘩を売っているのかと頭にきたけど、とてもではないけど応戦出来そうもないから放っておくことにした。どうせ酔い潰れた私が物珍しくて、私のことを馬鹿にしているのだろう。
しかし、いつまでもこの家にはいたくはない。帰らないと。
「はぁー…。よく分かんないけど、世話になった」
「帰れるのか?」
「帰って寝る。怠い…」
「ちゃんと帰ったら飯、食えよ」
「無理。胃が死んでる」
食べたら吐けない私でさえも吐く自信がある。泥酔するほど飲むのは何年振りだろうか。当分、酒なんて見たくもない。
重い身体を引きずって家へと帰る。玄関を開けると、求めていたにおいがした。自分の家に帰ってきたのだと知ることの出来る、とても心地のいい香り。なまえだ。なまえがいる。
慌ててリビングのドアを開けたけど、家には誰もいなかった。それはそうだ。だって、私はなまえに酷いことを言った上に手をあげて家から追い出した。だから、この家になまえがいるはずなんてない。私のことなんてもう好きではないどころか、軽蔑さえしているかもしれない。あまりにも自分の都合のいい思考にうんざりとした。だけど、じゃあこのにおいは何だろうか。私が大好きな、求めているにおい。遂に鼻まで自分の都合に合わせるようになったのかと思うと情けなくて溜め息が出た。やめよう。今は何も考えたくない。頭と胃が痛いし、吐きそうだ。水でも飲んでさっさと寝よう。
水道で水を汲もうとシンクへ行くと、コンロの上に土鍋が置いてあることに気付いた。鍋の上にはメモが置いてあり、なまえの字で【ちゃんと食べてから寝て】と書いてあった。何だ、これは…いつの間にこんな物を用意したのだろうか。メモには【冷蔵庫の物も落ち着いたらちゃんと食べること】と書かれており、慌てて冷蔵庫を開く。冷蔵庫には信じられないくらい多くのおかずが並んでいた。こんな物、いつの間に…というか、どうして私のために食事を用意してくれたのだろうか。だって、私はなまえに酷いことをした。なのに、どうして…これではまるで、私のことを愛しているかのようではないか。私のことを本当に気に掛け、無償の愛を与えようとしてくれているかのようではないか。
やめて欲しい。こんなことをされたら、また望んでしまう。なまえは私から離れるために嘘をつき、転科したのではないのではないと信じたくなってしまう。だけど、それを信じるにはあまりにも私は人に裏切られ、そして逃げ続けてき過ぎた。照星のこともそう。仲を戻したって、逃げ続けてきた。あの女のこともそう。どうしても思い出したくなくて、全て嫌な思い出として片付けていた。なまえといたいのなら、目を背けてきたことに向き合わないといけない。このままでは私はまたなまえを信じられなくなって傷付けてしまうかもしれないから。だけど、それだけの勇気がない。一人では到底、立ち向かえない。
馬鹿らしいことを考えるのはやめようとメモを手に取る。くだらない。私は駄目な人間だ。それでいいと決めたではないか。こんな手料理一つで心なんてそう簡単に揺らがない。
メモを捨てようかと思ったけど、何となく捨てられなくていつものように手帳に挟もうと開くと、封筒が一枚落ちた。確か、東京で来年用だと貰った物。絶対に開けるなと言われたけど、なまえだって私を裏切ったのだ。私がなまえとの約束を反故にしたって構わないだろう、と開ける。そもそも、来年用の手紙を一年も前に渡すなんてどうかしている。
手紙を読み進めていくうちに、私は自分がしでかしたことの重大さに気付いた。もし、この手紙に書かれていることが本当なのだとしたら、私はとてつもなく愚かなことをしたことになる。手が震えた。ここに書かれていることは嘘だと思いたい。そうでなければ、私が勝手に裏切られたと騒いだ挙句、こんなにも私のことを想ってくれていた子を自ら手放したことになってしまう。それも、最低のやり方で。
後悔のあまり、私は声を上げて泣いた。こんな泣き方なんて過去になまえを亡くした時ぶりだ。大の男が、それも30を過ぎた男が情けない。そう分かっているのに、泣き続けた。
どうして私はなまえを信じられなかったのだろう。どうして私はいつも間違えるのだろう。どうして私はいつも取り返しがつかなくなるほど酷くなるまで気付けないのだろう。いつもいつも自分を守ることを優先して、なまえに優しく出来ない。これでは過去と何も変わっていない。
たくさん泣いて、脱水と二日酔いで頭が痛くなってぼんやりと陽が沈むのを眺めた。あの光はとても掴めないほど遠い。あの光が照らす範囲はあまりにも大きい。だけど、なまえは私を信じて待ってくれていた。このままなまえを裏切り続けるわけにはいかない。逃げ続けてきたことと向き合わないといけない。私に出来るだろうか。それも、一人で。
夕陽が沈みきり、部屋が暗くなった。重い身体を引き摺ってベランダから街明かりを眺め、私はようやく決心がついた。
「…全て終わったら、必ず迎えに行く」
夜風に私の呟いた声は消えていった。だけど、私の決意は決して揺らがなかった。隣になまえはいないけど、ちゃんと私たちはどこかで繋がっているとようやく信じられたから。
[*前] | [次#]
雑渡さんと一緒!一覧 | 3103へもどる