雑渡さんと一緒! 190
家で待っていろと言われたけど、ただ待っているというのも退屈な話だ。だったらせめて、この汚い部屋を掃除したいと始めたんだけど、まぁ捗る捗る。面白いくらい綺麗になっていった。最後にいつ洗ったんだろうと思うほど汚いシーツについた口紅を手で擦ってから洗濯機を回す。それが終わったらお風呂場を掃除して、トイレを掃除して…本当に信じられないくらいやり甲斐を感じた。元々私は家事が好きな方なのだろう。綺麗好きと名乗る気はないけど、やはり部屋は綺麗な方がいい。換気をしながらそう思った。
深夜になっても彼女は帰ってこなかった。夕方から始まる仕事なのだ、きっと夜勤なのだろうなぁと思い、先に寝た方がいいだろうかと悩んでいると携帯が鳴った。時間は既に深夜二時を過ぎている。これは出るべきなのか、出ないべきなのか悩みながら画面を見ると、相手は佐茂さんだった。
「佐茂さん?どうされましたか?」
「至急、家に来て欲しいんだ」
「えっ。まさか、きぃちゃんに何か…」
「いや、雑渡が酔い潰れてさ…なまえちゃんの名前をずっとうわごとのように呼んでいるんだよ。それも、泣きながら」
「へ?」
ちょっと、佐茂さんが何を言っているのかよく分からないけど、とりあえずタクシーに乗ってお邪魔させて頂いた。すると、本当に昆はスーツを着たまま丸まって寝ていた。佐茂さんの言う通り、うなされているのか、泣いている。
前々から思っていたけど、昆はよく悪い夢を見る。それで目が覚めることもあれば覚めないこともあるけど、今日はどっちだろうか。何にしても、昆はとても辛そうに見えた。
「なまえ…っ」
「うん。私はここにいるよ。大丈夫」
よしよしといつものように頭を撫でると、昆はぎゅうっと私に抱きついて来た。だけど、目を覚ましたわけではなさそうだ。寝息があまりにもお酒くさくて、どこでどれだけ飲んだのだろうかと溜め息が思わず出てしまう。
こんなになるまで飲んで、おまけにスーツを着たまま寝てしまうなんて…と叩き起こしたくなったけど、多分起きないのであろうことは何となく分かったから特に起こそうとはしなかった。頬を撫でて涙を拭い、そのまま乱れた髪を梳くように撫でると昆はようやく落ち着いたのか、すうすうと穏やかな寝息を立てた。何というか、昆は本当に子供みたいな人だなぁと思う。昆は捨てられていたみたいだけど、昆のお母さんはちゃんと育てればよかったのになぁ。絶対に可愛いから。
「…とりあえず、落ち着きました」
「何か、お母さんみたいだね。なまえちゃん」
「いつものことです」
「あ。いつもなんだ」
「この人、甘えん坊なので」
「ふーん。あの雑渡がねぇ…」
珍しいものを見たと言わんばかりに佐茂さんは私を見たし、きぃちゃんに至っては絶句している。昆は外では出来る男の人を演じている節があるから、意外だったのだろう。
で。この人がこうなるまで飲み歩いたってなに。お酒に弱いわけでもないのに、こうなるということは相当量飲んだのだろう。なのに、佐茂さんはケロッとしている。きっと昆のことが心配で大して飲んでいないんだろうなぁと何となく思った。本当に佐茂さんはいい人だ。きぃちゃんが羨ましいくらい。だけど、私が好きなのは昆。この、どうしようもない、だらしなくて、甘えん坊で、子供っぽい人。本当は弱いくせにすぐに強がっては傷付く繊細な人。本当にどうしようもない人だけど、困ったことにとても愛しいと思ってしまう。
私がよしよしと頭を撫でていると、昆の瞼が動いた。起きかけている。焦った私は慌てて昆から離れて立ち上がった。
「ごめんなさい。よろしくお願いします」
「えっ。どこ行くの?」
「お姉さんの所に戻ります!」
「お姉さんって…いや、あのさ…」
「ありがとうございました!」
逃げるように佐茂さんの家から飛び出た私はタクシーを拾いたくて駅の方まで歩いた。深夜なこともあって、人とすれ違わないし、車も少ない。あぁ、昆にバレたら絶対に怒られるやつなんだろうなぁ…と思いながら歩いていると、クラクションを鳴らされた。誰だろうと振り向くと、お姉さんがいた。
「なにしてんの、こんな夜遅くに」
「あ。お姉さん…」
「ねぇ、この子乗せて。行き先は同じだから」
黒いスーツを着た人は車を路肩に停めてくれた。早く早くと窓から手招きされるがままに車に乗せて頂く。
お姉さんからはお酒のにおいがした。こんな時間まで飲んでいたのだろうか。で、彼氏さんに迎えに来てもらったのだろうか。だとしたら私がお姉さんの家にお邪魔させて頂くのはいけないような気がした。今日は昆も佐茂さんの家に泊まるのだろうし、家に帰った方がいいかもしれない。そんなことを考えていると、お姉さんにぎゅうっと抱き締められた。
「あぁー…女の子はふわふわでいいなぁ」
「はい!?えっ、何…」
「かーわいい」
「酔ってますね?酔ってますね!?」
「んー。酔ってるー」
あの馬鹿が飲ませるからーとお姉さんは言った。この人は一体どこに行っていたんだろう。もしかして合コンでもあったのだろうか。いや、でも彼氏さんがいるのだから違うか。ということは、お友達と飲んでいたのかもしれない。
私が彼氏さんに申し訳ないと言うと、お姉さんは驚いたような顔をした後、ケラケラと笑った。本当に可笑しそうに。
「これはね、黒服だよん」
「黒服…?」
「あ。知らない?そういう職業の人」
「…運転手さんてことですか?」
「今はね。普段はウエイター的な?」
「はぁ…」
「そっかー。なまえちゃんは箱入り娘ちゃんなんだね」
可愛い可愛いとお姉さんは私の頭をまた撫でた。そして、頬にキスをしてきた。それも、何度も。
酔うとキス魔になる人がこの世にはいると聞くけど、お姉さんは正にそうなのかもしれない。こんな綺麗な人にこんなことをされる日が来るとは思ってもみなかった私はドキドキした。女の人とはいえ、人前でキスなんて何度もされたら照れてしまうし、流石に気まずい。私がお姉さん、と咎めると、お姉さんは私の目をじっと見て、綺麗な顔でふっと笑った。
「あいつ、マジでなまえちゃんに惚れてんだね」
「はい?」
「うーん…でも、あれは駄目だね。全然駄目」
「はぁ…」
「男ならさ、どーんと構えてないと駄目。ねぇ?」
「…それは、もしかして昆のことを言ってます?」
にこっと笑ったお姉さんは私の頭をよしよしと撫でてから窓を開けて煙草を吸い始めた。夜風が冷たくて、思わず私がぶるっと震えると、お姉さんは私の肩を抱いた。
どうしてだろう。凄くドキドキする。まるで昆が私の肩を抱いてきた時のように力強い。こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、まるで男の人に肩を抱かれているよう。
甘いにおいのする煙草、香水のにおい。どこかで嗅いだことがあるような気がした。昆のスーツからたまに香るものと同じな気がしたのだ。ということは、昆はたまにこのお姉さんと飲みに行っていたのだろうか。それは浮気とは言えないだろうか。お姉さんは昆とは付き合っていないと言っていた。だけど、もしかして身体の関係はあったのだろうか。あったのだろうな。だって、旅行に行ったり、一緒に寝たことがあると言っていたから。だとするなら、私は昆に裏切られていたということ?いや、でも、まさか。昆に限ってそんなこと…
お姉さんに真偽の程を聞きたかったけど、お姉さんは煙草を手にしたまま寝ていた。慌てて煙草を灰皿に捨てて、どこからも煙が出ていないか確認する。昆もだらしないけど、お姉さんもなかなかだらしないようだ。あの部屋の汚さも然り。
お姉さんの家に着き、ぼんやりと色んなことを考えながら、これから私はどうしようか考えた。昆に色んなことを問いただしたい。だけど、きっと正直には話してくれないだろう。というか、あんなに飲んで身体を壊したらどうするつもりなんだろうか。それ以前にちゃんと食べているのだろうか。お化粧も落とさずにベッドですうすうと寝ているお姉さんを見ながら、私が今出来ることを考える。結局のところ、私は昆に大したことは出来ない。だから、今出来ることをやろうと早朝に家に帰ってご飯を作った。「やや怒ってます」と言わんばかりのメモを残して。
お姉さんの家に戻ってから昆に作った物と同じ雑炊を作り、お姉さんが起きるのを待った。お姉さんに聞きたいことは全部聞こう。それで例え傷付くことになろうとも、きっと知らない方が後悔する。私は昆のことなら何だって知りたい。あの人を生涯支えたいと心から思っているのだから。
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