雑渡さんと一緒! 196
昆は来てくれるのだろうか。それも、20時までに。お姉さんは私に「時間制限を設けるべき。それも、ギリギリを攻めてね」と言った。昆が仕事を終えてからこのポートタワーまで来るためには一度たりとも間違える時間はない。それどころか、長考する時間さえない。ここまで昆を試すようなことをしてしまい、昆はどう思っただろうか。呆れているかもしれない。面倒だと来てくれないかもしれない。お姉さんは私に「絶対に来る」と言ってくれた。だけど、本当に来てくれるのだろうか。もしかしたら、最初のコインロッカーにさえ行ってくれないかもしれない。人を試すようなことをして、と怒るかもしれない。そう思うと不安でいっぱいだった。
時計を見ると、20時だった。昆は来てくれなかった。お姉さん、どうしよう。やっぱり昆は来てくれなかった。やっぱり愛想を尽かされたのかもしれない。私と過ごした日々を忘れて、辿り着けなかったのかもしれない。終わってしまうのだろうか、このまま会えずに昆と離れてしまうのだろうか。
じわっと視界が馴染んだ。私の夢はもう叶わないのかもしれない。もうあの幸せだった日々は戻ってこないのかもしれない。そんな後ろ向きなことを考えていると、背後から誰かに抱き締められた。急なことで、驚いてしまったけど、誰なのかすぐに分かったから安心する。来てくれた。昆が私に会いに来てくれた。苦しそうに息をしているし、身体が熱い。走ってきてくれたのだと分かり、胸がきゅうっとなった。
「私…っ、昆に言いたいことがあるの」
「私もだよ」
「あのね、私…っ」
「…ごめん、ちょっと…ま…っ」
ずるっと昆は座り込んだ。本当に苦しそうに息をしている。顔から流れる汗を惜しみもなくスーツで拭っていた。やめて欲しい、シミになったらどうするのよ。というか、ハンカチはどうしたのよ。私が毎日持たせていたけど、そうしないとまさかハンカチ一枚さえ持ち歩かないのだろうか。
仕方のない人だとハンカチを昆の顔に当てると、腕を掴まれてキスされた。唇も吐息も信じられないくらい熱い。解放されると、また昆は息が苦しそうにしていた。せめて落ち着いてからにすればいいのに。いや、人前では駄目だけど。
「…大丈夫?」
「無理。死ぬ…」
「そんなになるまで走らなくても…」
「20時とか無理を言われたからね」
「間に合わなくてもよかったのに」
「だって、間に合わなければなまえは帰るんでしょ?」
「まぁ」
「で。しばらく連絡がつかなくなる」
「うん」
「あぁ、間に合ってよかった…っ」
はぁ、と大きな溜め息を吐いて、昆は私をぎゅぅっと抱き締めた。私を抱き締めたら余計に暑くなるのに。汗で濡れた髪は乱れていた。こんな余裕のない昆は久し振りに見る。
きっと、いっぱい考えて、慌てて来てくれたんだろう。昆に出した問題は本当に些細なことだけど、私にとってはどれも幸せな思い出だ。どれも忘れられない、大切な思い出。私たちが過ごした年月は二年を超えている。たくさん色んな話をしたし、たくさん色んな所に出掛けた。少しずつ記憶は色褪せていくけど、それでも昆はちゃんと覚えていてくれた。
「凄いね。よく覚えていたね」
「覚えてるよ、そりゃあ。忘れるわけないでしょ…」
「…うん。ありがとう」
「その…ごめんね。たくさん傷付けるようなことをして」
「うん。凄く傷付いたし、凄く悲しかった」
「ごめん。本当にごめん…」
「私も悪かったの。ごめんね、内緒にしていて」
「…一つ聞いてもいい?どうして隠していたの?」
「…聞きたい?」
「まぁ」
「昆の重荷になりたくなかったから、かな…」
「重荷?」
私は昆に転科したことを卒業するまで伝える気はなかった。いや、伝えずに済むものなら、卒業しても伝えないつもりだった。昆の重荷になりたくなかったから。
私が昆に出来ることは少ない。家事をこなしながら昆の帰りを待つだけ。仕事が忙しく、そして責任のある立場の昆は野心家で、すぐに無理をしてしまう。私はそれを側で見ていることしか出来ない。それが私には歯痒い。もっと昆のために出来ることは何かないだろうか。何の取り柄もない私にでも出来ることはないだろうか。そう考えていた時に病院食を口にして、私は栄養学に興味を持った。毎日ただ料理を作るだけではなく、栄養学の知識を得ることで昆が身体を壊すことなく働くための支えとなれるのではないかと思った。だから私は栄養学部に転科した。私は昆の妻であり、陰から昆を支える立場だ。私が陰で努力していることなんて、知らなくてもいい。いつも通り、ちゃんとご飯を食べてもらえればそれで私はよかった。私という存在がプレッシャーとなるくらいなら、知られたくない。そう思ったから黙っていた。
だけど、こんな風に昆を悲しませるのなら、ちゃんと言えばよかった。こんな風に離れることになるのなら、隠さなければよかった。私がそう言うと、昆は重い溜息を吐いた。
「…そうだったね。なまえはそういう子だったね」
「そういう子…とは?」
「愚かな子という意味」
「な…っ、ひ、酷い…」
「愚かだよ。本当に愚か…」
「す、すみませんね!どうせ私は愚かですよ!」
「本当にね。私が重荷だと思うはずないでしょ。そして、なまえがそういう甲斐甲斐しい子だと分かっていながら、なまえの愛情を疑い、離れようとした私も本当に愚かだった…」
本当にごめんね、と言って昆はまた溜め息を吐いた。あれ、私、また愛情を疑われていたの?怒っていたのは昆に隠し事をしたからであって、隠し事をしないという約束を破られたから怒っていたんじゃないの?えっ、違うの?
何だろう。何かムカついてきた。私、昆のことが好きだって何度も言ったのに。ずっと側にいたいって言っていたのに。
「酷い!私のことを疑ったの!?」
「疑ったよ、そりゃあ」
「じゃあ、転科した理由は何だとと思ったの?」
「店を出して、自立して、私から離れていくのかな、と…」
「はぁ!?私、何度も昆のためにしか作らないって…っ」
「…うん。ごめん、ちょっと、信じられなくて…」
「はぁ!?酷い!最低!」
「…ごめんね。その…許して欲しいんだけど」
「嫌!一生許さないんだから!」
「い、一生…」
「ちゃんと償って!」
「ど、どうやって…」
「死ぬまで私の作ったご飯を食べ続けて!昆は死ぬまで私の側にいて!そうじゃないと、許さないからね!分かった!?」
もう、と昆を突き飛ばして遠くを眺める。私がどれだけ昆のことを想っていると…っ。こんなに好きな人は、愛しいと思う人は、支えてあげたいと思う人は他にはいない。
今回の作戦を計画したのは私ではなくお姉さんだった。だけど、封筒を用意しながら私も色んなことを思い出したし、本当に色んなことを考えた。私は昆のどんなところが好きなんだろう、どうしてこんなにも昆と一緒にいたいと、支えたいと思うんだろうって。本当に本当にたくさん考えた。
初めは一緒にいて楽しいって思うくらいの感情だった。私よりも年上で、立派な会社に勤めている大人の男性は私から見たら憧れにも近い存在だった。何でも本当にスマートにこなすし、いつも余裕があって、本当にかっこいいなぁって思っていた。だけど、それは本当の昆ではなかった。本当は寂しがりやで、泣き虫で、子供っぽくて。大した努力もせずに何でも出来る人を装っているけど、本当は負けず嫌いだから陰でたくさん努力をしている。無理をし過ぎるほど。それを人に見せるのを嫌がるから周りから天才だと妬まれることがあるけど、本当は理解して欲しいと思っている。いつも頑張っていることも、本当は一人で寂しいことも、分かって欲しいと思っている。なのに、自分から一歩を踏み込むだけの勇気がない。仕方のない人、本当に子供みたい。だけど、私はそんな昆が好き。駄目だって言っても無理をしてまで高みを目指そうとする、そんなあなたを私は陰で支え続けたい。だから、私は栄養学を学びたいと思った。どんなに忙しくても、身体がボロボロにならないように私は昆を支えたかった。思う存分、頑張って欲しかった。自分がやりたいと思うことを精一杯、全力でやって欲しかった。私はそれを側で見ていることしか出来ない。だけど、私はそれでも幸せだ。昆が頑張っている姿をずっと見ていられるから。
あなたの夢は私の夢なの。あなたの幸せは私の幸せなの。あなたが嬉しければ私も嬉しいし、あなたが悲しければ私も悲しい。あなたの感情を私は共有している。そのくらい私はあなたのことが好きなの。どうして分かってくれないのよ!
そう言いながら手すりを叩くと、昆は後ろからまた私を抱き締めてきた。首筋に顔を寄せられ、すりすりと顔を擦り付けられる。昆の顔からポツポツと水滴が落ちてきて、本当に泣き虫な人だと溜め息を吐く。本当に仕方のない人。すぐそうやって泣くんだから。見た目はこんなにもかっこいいのに、泣き虫だなんて知られたら、周りの人に幻滅されてしまう。
「泣き虫なのは直した方がいいよ」
「…泣いてない」
「嘘つき。モテなくなっちゃうよ?」
「いいよ、別に構わない」
「モテなくなったら、私しか残らなくなっちゃうよ」
「なまえがいれば私はそれでいい。なまえしか要らない」
「またそんなことを言って…」
「ねぇ、なまえ。これからも私の側にいてくれる?」
「さぁ。どうしようかな」
「えぇ…ここは、肯定する流れじゃないの?」
「私、今、怒ってるから。ものすごーく」
「…私はね、いつかあの街の全てを必ず手にする」
「ええ。信じています」
「あの街を手にした暁には、共に隣でこの景色を眺めてはくれないだろうか。今よりも私は年老いているだろうけどね」
「年老いてって…それが夫婦なんじゃないの?夫婦って、基本的には生涯寄り添うものでしょ。私はあなたの妻なの。生半可な気持ちで私は昆と結婚したわけじゃないんですけど?」
「うん…なまえ、ありがとう…っ」
ぎゅうっと昆は私を抱き締めてまた泣いた。本当に泣き虫な人。それに、凄く弱い。人に愛されたいくせに、人を愛することが怖いと思っている。だけど、私のことは存分に愛してもらって構わない。何の心配も要らない。だって、私は昆の妻だから。永遠に側にいると誓った間柄だから。だから、私のことを信頼してよ。私は昆から離れないから。昆みたく愛せる人なんてこの世にはいないと断言出来るほど愛しているから。だから、離れていこうとしないで。側にいさせて。
昆はあと五年だ、と言った。あと五年であの街を手にする気なのだろうか。だとすれば、それは相当な努力が必要なのではないだろうか。だけど、昆なら出来るだろう。負けず嫌いの努力家だから。それに、あなたは一人じゃないから。私が側でずっと支えるから。だから、安心して戦ってきて。私は家でずっと待っているから。そう言うと、昆は泣きながら笑っていた。なまえには到底敵わないよ、と言って。
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