雑渡さんと一緒! 219
酷い目にあった。シャワーを浴びてから鏡で自分の顔を眺める。どこからどう見ても年相応の、いや、どちらかといえば昨日まで仕事をしていたからか、くたびれた顔をした男が映っていた。少なくとも「坊や」なんて思わせるような見た目はしていない。つまり、あのハルという男が私を坊やだと言ったのは見た目の話ではなく、中身の話なのだろう。
悔しい。何が坊やだ。おまけに、なまえにベタベタとして。なまえもなまえだ。海外ではハグは挨拶だからと言うが、じゃあお前は私が見知らぬ女と抱き合っても平気だとでも言うのか。絶対に言わないだろう。私も絶対に嫌だけど。
苛々しながらリビングに戻ると、なまえはやたらと大きな犬と戯れていた。先程、突き飛ばされた上に舐めまわされたというのに平然としている。どんな神経をしているんだか。
「あ、おかえり。髪、乾かしたら?」
「いい。どうせすぐ乾く」
「またそんなことを言って…」
『はっはっは。髪が濡れていると、より坊やに見えるな』
『あぁ!?』
「…ねぇ、お婆ちゃん。ハルさん、何て?」
「お婿さんがかっこいいねって」
「あ、そうなんだ。ねー、かっこいいでしょ」
『なまえちゃんは本当にこんな坊やが好きなのか』
「何て?」
「お婿さんがいい男だから羨ましいって」
「ハルさん、昆のこと気に入ったのかな」
「そうなんだろうね」
「嘘をつくな!ちゃんと訳せ!」
この破天荒というか、おかしな婆さんの夫は私を馬鹿にして喜んでいた。年は私より下だし、背丈も体格も私とそう変わらない。そんな奴に馬鹿にされる筋合いなどない。
髪を掻き上げ、息を吐いて己を落ち着かせる。こんな奴らにいつまでも振り回されてたまるか。私を翻弄するのはなまえ一人で十分だ。あぁ、くそ…こんなことになるのならば、グアムになんて来なければよかった。全くもって腹立たしい。
「煙草吸わせて」
『ハル、煙草だって。案内してあげて』
『はいよ。坊や、おいで』
『だから、誰が坊やだ!』
若造に連れられて庭先に出る。暑くてうんざりとしながらも日本とは異なる熱気がどこか羨ましくなった。日本は湿度が高いから蒸し暑いが、グアムは陽射しこそ強いものの湿度は高くない。不快指数でいえばそこまで高くはなく、暑いには暑いが、日本の夏と比べて過ごしやすいことだろう。
ライターで煙草に火をつけて遠くに見える海を眺める。なまえと出会ってからというもの、海を見る機会が増えた。海が美しいだとか、波音が心地いいなんて私は知らなかった。いつか海沿いに別荘でも構えられたらいいと考えているけど、なまえは反対するだろうか。こんな風に芝生を敷いて、庭先で子供たちが遊んでいるのを眺めて過ごす。そんなドラマのワンシーンのような生活をしてみたい。些細な夢かもしれないが、それを叶えられる日が確実に近付いてきている。人間とは欲深い生き物なのだとつくづく思う。好きな子が自分を慕ってくれるだけで初めはよかったのに、気付けば結婚したいと思うようになり、結婚すれば今度は子供が欲しいと願うようになってしまった。もちろん、私の隣には愛する妻がいてくれて、ずっと私のことを想ってくれていなければ満足など到底出来ないが。本当に欲張りな人間になったものだ。
『坊やはさ、なまえちゃんを大切にしているのか?』
『当たり前のことを聞くな。不愉快だ』
『俺はアキが好きだ。アキはなまえちゃんのことをいつも気に掛けている。だから俺はなまえちゃんのことが大切だ』
『そう。それはどうも』
『何故、坊やが礼を言うんだ』
『私の妻を気に掛けてくれる存在はいて損ではない。勿論、あの子を誰よりも愛し、気に掛けているのは私だけどね』
『お前、重いって言われないか?』
『煩いよ。悪かったね。あと、坊やって呼ぶな』
トン、と缶に灰を落とす。じわりと汗ばんできた。こういう暑い日は冷えた部屋でなまえの淹れてくれた珈琲を飲みながら煙草を吸うに限る。外では暑くて落ち着かない。
煙草を捨ててから立ち上がると、腕を引かれた。このくそ暑い中、男にベタベタと触られることが不快で、振り払う。
『気色悪い。気安く触るな』
『坊やはさ、幾つなんだ?』
『33』
『本当に?俺より年上なのか』
『そうだ。敬え』
『俺はお前の義祖父だ。敬え』
『誰が敬うか、馬鹿が』
そもそも、義祖父という歳でもないだろうに。何だって倍以上も歳が上の女と結婚したんだろうか…と一瞬思ったが、私だってなまえが60であろうと70であろうと愛したことは間違いないだろうから、あえて口にはしなかった。
座れと言われて、癪だったけど再び腰掛ける。どうせリビングに帰してもらえないのならと再び煙草を手に取ると、手から煙草を持っていかれてしまった。どこまでも図々しい奴。
『私、お前みたいな奴嫌いだわ』
『そうか。それは残念だ』
『はい、火』
『おぉ。嫌っているというのに親切だな』
『煩いよ』
煙を吐きながら、今日この家に泊まることになるのかと思うとうんざりとした。アキさんもそうだけど、私は多分この男にはどう足掻いても敵わない。この男とは血は繋がっていないとはいえ、流石はなまえの家族。私を焚き付けるのも翻弄するのも得意そうだ。全くもって不本意な話だ。
波音を聞きながらビールでも飲みたいなぁと思っていると、急に肩を抱かれた。あまりにもグローバルな接触のされ方にゾッとした。日本では考えられないことだ。おまけに男に。
『離せ!気色悪いな!』
『なまえちゃんって笑うようになったんだな』
『は!?』
『あの子は笑わない子だった。根暗な子だと思っていた』
『なまえが?まさか』
『あんな風に楽しそうに笑う姿は初めて見たよ』
なまえが暗いだと?そんなはずはない。あの子は出会った時から明るい子だった。いや、まぁ、今みたく笑ったりはしなかったけど、それでも暗いという印象は受けなかった。ちゃんと笑ったり、時に怒ったりと感情豊かな子だった。
お前はなまえの何を見ているんだと言いかけてやめた。アキさんはなまえの母親が亡くなってすぐにグアムに嫁いだと言っていた。だからではないだろうか。義父さんとも色々とあって、生活がどんどん変わっていって、そして慕っていた祖母も日本から離れていってしまって。それはそれは寂しかったのではないだろうか。だとしても、なまえなら無理をしてでも笑ったことだろう。あの下手くそな作り笑いをして。
『…なまえが暗かったのなら、あんたにも一因はあるだろう』
『これは手厳しいな』
『なまえが大変な時に何でアキさんを連れて行ったんだ』
『アキが望んだからさ』
『アキさんが?』
『アキが日本にいたらなまえちゃんは自分に依存してしまうと言った。だけど、アキはなまえちゃんを支える人を他に見つけるべきだと考えていた。で、お前が選ばれたわけだ』
『選ばれたというか何というか…』
『なまえちゃんが結婚したと聞いてアキと心配していたんだよ。悪い男に騙されていたらどうしようって。だけど、少なくともお前はなまえちゃんを大切にしていそうで安心した』
『………』
『なまえちゃんのこと、ちゃんと幸せにしろよ、昆』
『分かってるよ、そんなことくらい』
缶に煙草を捨てて立ち上がる。いつまでもこんな暑い所にいたら流石に気分が悪くなる。おまけにくだらない話をだらだらと酒も飲まずにされてしまい、落ち着かない。
なまえは私と出会った時には既に母親の死を乗り越えようと必死になっていた。自分なりに受け入れようと努力した後だった。もっと早くに出会いたかったし、もっとちゃんと支えてあげたかった。それでも、なまえは義父さんとの仲を元に戻すことが出来た。別に私が何か特別なことをしたわけではない。それでも、きっかけの一つにはなれたことだろう。大切な人を失った傷なんてそう簡単には癒えないし、忘れなくていい。時に立ち止まり、想いを馳せては泣いたって構わない。その時に私は必ず側にいるし、共に悲しむことは出来ないかもしれないけど、なまえの悲しみを分かってやりたいと思っている。なまえが私を支えてくれているように、私もなまえを支えていきたい。なまえが私を想ってくれているように、私もなまえを想っている。誰よりも幸せになって欲しいと願っている子だ。そして、私の手で幸せにしてやりたい。
『ねぇ。この家は酒も出てこないわけ?』
『何だ、図々しいな』
『煙草あげたじゃない』
『昆は飲めるのか?』
『人並みにはね』
『ほぉ?地下にバーがあるぞ』
『どんな家だよ…それと、昆て呼ばないで』
『何だ。坊やの方がよかったか?』
『それはそれで嫌だけど…』
『折角、親しみを込めて呼んでやったのに』
『悪いね、私を昆と呼んでいいのはなまえだけだ。この呼び名はね、一生涯なまえだけの特別なものなんだよ』
もう照星さえも呼ばない呼び方をなまえは「自分だけの特別感がある」と言った。だから、もう誰にも「昆」なんて呼ばせない。この呼び名はなまえだけのものだ。まるで自分が特別な人間になったかのような高揚感が得られる。
階段を上がっていると、また後ろから肩を抱かれた。ベタベタと触るなと言い争いながらリビングに戻ると、なまえはカイと共にリビングで寝ていた。アキさんに静かにするようにと言われてなまえの横に座る。まだ寝顔はあどけないというのに、私が道を踏み外しそうになったら連れ戻してくれる強さのある子だ。それはきっとなまえが本来持っている強さだけではなく、多くの人に愛されてきたからなのだろう。
『…なまえのこと、これからも見ていてやって』
『何だい、急に。それはお婿さんの役目だろう』
『おまけに、俺たちはグアムに住んでいるんだぞ?』
『分かってるよ。だけど、この子の味方は一人でも多い方がいい。弱い子ではないけど、その強さが揺らぐことだってあるだろう?そういう時にはさ、話くらい聞いてやってよ』
多分、これからも喧嘩して泣かせることもあるだろうし、となまえの髪を撫でる。こんなにも明るい色にしてしまって。だけど、とても似合っている。光に照らされるとほんのりと青みがかった色はとても綺麗だと思っている。こんなこと絶対に言わないけど。取り返しがつかないくらい真っ青に染めてこられても反応に困るし。
なまえは強い子だ。決して弱くはない。だけど、その強さは私が関与したから得たものではない。きっとこれからもなまえはどんどん強くなっていくだろう。時に背伸びをして、私と同じ目線に立とうと無理をすることがあるかもしれない。そんな時は嗜めてやってはくれないだろうか。そんなこと、私は望んでいない。ありのままのなまえが誰よりも美しいと思っているんだ。だけど私がそう言ったところでなまえは素直には聞かないことは目に見えている。頑固で意地っ張りなところがある子だからね。だから、なまえのことをこれからも気に掛けてやって欲しい。手の掛かる夫婦で悪いね。
私がそう言うと、二人は親指を立てた。意地の悪い笑みで。
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