雑渡さんと一緒! 232


「うわ…これ、雑渡がやったの?」

「まさか」

「あ、そう。うわー、最低だね」

「隠せるかなぁ…」

「いや、流石に化粧じゃ無理だよ」


やっぱりそうかぁ…と溜め息を吐く。まだ青い痣はこれから茶色くなっていくことだろう。つまり、まだまだ消えないということだ。昆といてもいなくても周りからはジロジロと見られたし、ひそひそと何かを言われた。だから外に出る時には帽子を深く被ってから下を向いている。それでも昆と歩く時には背筋を伸ばせと背中を叩かれ、堂々と歩かせてもらっている。その代わりに昆が悪く言われていた。それが私には辛かった。だけど、昆はそんなことは気にもしていない。
思い切って仮面でも被って出掛けたいなぁと思いながらヨルと別れて家に帰る。帰るなりクロがペロペロと犬のように顔を舐めてきてくれた。まるで痛くはない?と聞くように。


「あ、そうだ。クロみたく顔を黒く塗ったらどうかな」

「どうかなって?」

「そうしたら目立たないかもしれない」

「馬鹿じゃないの」

「むぅ、馬鹿じゃ…あれ、おかえり。早いね」

「んー」


まだ5時前だというのにもう昆が帰ってきた。体調でも悪いのだろうかと心配したけど、そういうわけではないらしい。
昆はスーツケースにごそごそと荷物を詰め始めた。日用品から衣類まで詰めていくのを見て、まさか…と思った。まさか私を置いてこの家から出ていく気なのだろうか。私があまりにも不気味な顔立ちになったからって、離婚するつもりなのだろうか。この前は骨の髄まで愛しているとか訳の分からないことを言ったくせに、簡単に私を捨てるのだろうか。


「ひ、酷い…」

「本当にね…」

「あ、あぁ…う、うぅー…っ」

「泣かないでよ。私だってこんなことは嫌なんだから」

「嫌なら何で…っ」

「いや、まぁ社長命令だし?」

「社長さんが言ったからって離婚するの!?」

「離婚?何のこと?」

「だって、出て行く準備を進めているから…」

「そう。泊まり込みなんだよねぇ…」


怠いなぁ…と昆は溜め息を吐いた。聞けば、ドクタケを落とすために多額の資金を使用しただけではなく、普段の業務が滞った関係でタソガレドキは赤字らしい。それも、大赤字。このままだとボーナスなんて到底出さないと言われたそうで、仕方なく突貫工で通常業務を進めないといけないらしい。それでも夏休みが得られるかは疑問だと言い残して昆は出て行った。重苦しい溜め息を吐き、死んだ魚のような目をして。
一難去ってまた一難、とは当にこのことだ。また昆と離れて暮らすことになってしまった。それでも、やっぱり私に出来ることなんて何もないに等しい。コピーだって満足にとれる気がしない。私が行っても足手纏いにしかなれないだろう。
仕方なくまた炊き出しのような量のおにぎりを握ることにした。お米を炊きながら中身は何が喜ばれるのか考える。それに、おかずも何がいいのか分からない。やっぱり昆の好きなものにしたい。となると唐揚げか鯖の味噌煮かロールキャベツか…あぁ、西京焼きとかハンバーグ、カレー…あ、カレー?
思い立ったら何とやら、慌てて昆に携帯で連絡を取った。


「あ、昆?社員食堂って借りれる?」

「知らない」

「借りておいて。使うから」

「ん?どういうこと?」

「あと、ネットスーパーを会社宛に届けていい?」

「いや、待って。説明して」

「今日はカレーだから。じゃあね」

「えっ!?」


昆はまだ何か言いたそうだったけど、電話を切って用意を始める。そうだ、昼は社員食堂で食べてもらうとして、夜は私が作ろう。迷惑…かもしれないけど、うん、もう決めた。会社に泊まれとか滅茶苦茶なことを言うんだったら、このくらいの我が儘は通させて欲しい。社長さんにそう言おう。
私が昆の会社に行くと、驚いたような顔をされた。すれ違う知らない人たちよりも濃い反応をされて、ちょっと面白い。


「あの、社員食堂を貸して欲しいんですけど」

「あ、あぁ…雑渡部長より聞いております」

「お騒がせしてしまって申し訳ありません」

「いえ…あの、そのお顔は…」

「あぁ、これ。ふふ、凄いですよね」


私が困ったように笑うと、受け付けのお姉さんは顔を青くした。もしかして昆がやったと思われているのだろうか。だとしたら、昆の名誉のために違うと訂正したい。だけど、お姉さんは私が何を言っても同情めいた顔をして震えていた。昆は優しいから、女の人を傷付けるようなことはしないんだけどなぁ…だけど、これ以上言っても多分、事態はより悪くなりそうだったから諦めて社員食堂に入る。
たまーにここで忘年会をしている部署があると昆に聞いていたから借りれるかなぁと思って聞いてみたけど、借りられてよかった。信じられないほど大きなお鍋を見て、ちょっとわくわくとした。料理人になりたいと思ったことはないけど、もし私が店を出すのならこういう食堂がいいと思った。大勢の人が食べに来てくれるような、大衆的な家庭料理を出すお店。まぁ、出さないんだけどね。出させてもらえないし。
カレーとサラダを作ってから内線で電話を掛けてみる。私の知らない人が出たけど、構わずにお夕飯ですよ、と言った。
それから次々にスーツを着た黒い集団が来た。先頭にいた昆は私を見て本当に何をやっているのかと呆れていたけど、トレーにサラダとカレーを乗せると心なしか嬉しそうな顔をした。希望者には何と豪華に温泉卵も付けちゃうんだから。


「えっ、待って。何をやっているの?」

「いや、だから夜ご飯を作りに?」

「どういうこと?」

「あなたはね、私が支える。絶対に支えるの」


栄養失調で倒れさせたりなんかしない。私はどんなに迷惑がられようと、世間知らずだと呆れられようと昆を支える。
あ、だけど昆がもし怒られたりするのなら言って欲しい。流石にそこまでは強くは出られないから…と私が急に弱気になると、昆は笑い出した。昆の後ろにいた人たちもくすくすと笑っている。多分、馬鹿にされているんだろうなぁと思ったけど、迷惑がられていないのなら別にもういい。
全員にカレーをよそってから昆の隣に座り、一斉にいただきますをしてからカレーを食べ始める。揚げた夏野菜を添えたカレーは大盛況だった。おかわりが足りないとまで騒がれてしまい、明日からは200人分作ることになるのだろうさと青ざめていると、昆はそんなことをしなくてもいいと手を振った。そして、長い長いレシートを私から奪い取り、集金を始めた。また佐茂さんに経費で落としてもらえるものかと思っていたけど、どうやらそれは難しいよう。これからしばらく作り続けることを考えると、お金を集めてもらえて助かる。でないとうちが破産してしまうことになるから。だけど、それはそれで申し訳ない。これは私が勝手にやったことだ。


「あの、皆様からお金を頂く予定ではなかったので…その、お金を頂くなら明日からは作るのをやめた方がいいですか?」

「えっ、何でそんなことを言うんですか!?」

「明日はハンバーグがいい!」

「おい。先に唐揚げだろ!?唐揚げしか勝たん」

「いや、夏場は冷や汁だ。あれは美味いぞ」

「課長の趣味、おじさんですね」

「何を言う。冷や汁に勝るものがこの世にあるのか?」

「あ、奥方様。明日は天ぷらにしません?」

「まぁ、待て。ここは夫である私が決めるから」

「それ、狡いです!」

「なまえは私の妻だ。何が狡いものか」


わぁわぁと揉めているのを見ながら食洗機を使ってお皿を洗っていく。食洗機って便利だなぁ。うちにも一台欲しいんだけど、昆に言ったら買ってくれるかな。
洗い終わってもまだ騒いでいたから、特大の冷蔵庫から食後のデザートを取り出すと全員が黙った。そして、一斉になくなるのを見届けてから、昆の分と併せて持って行く。今日のデザートは牛乳寒天だ。夏らしくていいでしょ、と昆に言うと、白い寒天を不思議そうに眺めながら昆は食べたことがないと言った。シンプルな甘さだけど、美味しいんだから。昆にそうお勧めすると、昆は嫌そうに口にした。相変わらず甘いものは好きではないよう。だけど、あっさりとした甘さの牛乳寒天はどうやら美味しかったようで、不思議そうにまじまじと見つめていた。そんな昆の器からさくらんぼを奪い取る。あ、と声を出した昆の口にさくらんぼを入れて微笑み、立ち上がり、また食器を洗う。気が付けば食堂には昆と私しか残っていなかった。あまりに予想通りに事が進んで、思わず笑ってしまう。
待ちきれないと言わんばかりに昆は泡だらけの私の手を引き寄せ、キスしてきた。昆が私の心を護ってくれているように、私は昆の健康を護ってみせる。私には大したことは出来ない。だけど、私に出来る限りのことはやりたい。だって私は昆の奥さんだもの。それでも、寂しいから早く仕事を終わらせて帰って来て欲しい。だから今だけは昆以外の人にご飯を作ることを許してね、と言うと昆は致し方がない、と言った。とても迷惑そうな声色だったけど、本音はもう分かっている。本当はとても嬉しく思っていると顔に出ていたから。


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