雑渡さんと一緒! 263


草の香り、せせらぎの音、季節に見合わず冷たい風。何となくこれは夢なのだろうな、と思った。それも過去の。自分の右手を見つめると、あの頃のように節張った厚い手のひらと包帯で巻かれた腕が見える。ほんのりと薄汚れた色合いの包帯は現代では到底考えられないもので、公衆衛生が今と比べていいわけではないのだから致し方がないこととはいえ、よくこんな環境で生き延びれたものだと思った。
遠くの山を眺めていると、左手を掴まれた。誰だろうかと思い、左を見ると幼い子供がこちらをじっと見つめている。


「おや。迷子だろうか」

「父上」

「…は?」

「父上。お花の冠作って」


歯の抜けた顔で笑う幼女はどこか自分に似ている気がした。とはいえ、私は過去も現在も子供など持ったことはない。いいや、それともこれは夢だからなのだろうか。子供が欲しいという想いが私にこんな夢を見せたのだろうか。
子供に手を引かれるがままに花の咲いた野原に連れて行かれる。あぁ、花の名前などよく分からないが、土手にこのような花が咲いているのを見たことがある。大なり小なりの花を手に取り、子供は私に差し出してきた。花で冠を作って欲しい、と。そんなものは作ったことなどない。花で遊ぶというのは女のすることだろう。少なくとも私は経験がない。


「どうするの?」

「分かんない」

「えっ」

「母上は上手だよ」

「…母上?母上というのは…」

「あっ。母上ー」


子供が走っていった先を見ると、淡い色の着物を着た女が見えた。子供を抱きしめ、頬を寄せる女はなまえだった。
あぁ、なまえがいる。なまえが生きている。私の子供を産んでくれたのか。私と夫婦になってくれたのか。流行り病になど罹患することなく、私と人生を共にしてくれたのか。そう思うと視界が滲んだ。欲しくて欲しくて堪らなかった未来がここにはある。悔やんでも悔やみきれなかった罪がなかったこととなり、私たちは幸せに生きることが許されている。


「昆奈門さん」

「…うん」

「この子を見てくださってありがとうございます」

「あぁ…なまえ」

「はい」

「なまえ…っ」


なまえを抱き締める。ごめん。ごめんね、私のせいで死なせてしまって。こういう未来も本当ならあったんだ。私がなまえの愛情を疑った上に嫉妬に狂い、潮江くんを手に掛けようとしたせいで、なまえは死んでしまった。こんなにも愛していたのに私が素直になれなかったせいで…本当にごめん。
大切にする。必ず大切にするから、と泣きながらなまえを抱きしめると、とても驚いたような声を出しながら私の腕の中で悶えていた。あぁ、そうだね。なまえはそういう反応を示してきてくれる子だった。私は愛らしくて仕方がなかった。


「ど、どうされました…?」

「なに…少し懐かしくなっただけだ」

「変な昆奈門さん」

「ふ…そうだね。おかしなことだ」


目を擦り、子供を抱き抱える。この子の名前は何というのだろうか。なまえの子だということは、食べ物の名前をつけているかもしれない。いや、私が反対しただろうな。
家に帰る前に三人で花畑で冠を作った。不器用だったはずのなまえは器用に花を編み、子供の頭に乗せていた。子供が編んだ冠は私の頭に乗り、私が編んだ冠はなまえに乗せた。お揃いだね、と喜ぶ子供を抱きしめると、ちゃんと温かくて鼓動を感じた。なまえには似ていないが、何故だかとても愛らしく感じる。私の愛しい、なまえとの間に生まれた女の子。
存分に遊び、三人で手を繋いで家へと帰る。なまえが食事の用意をしてくれている間、子供と手遊びをして過ごした。


「はい。煮魚ですよ」

「はぁい」

「いただこうか」


手を合わせて煮付けを崩す。口にした瞬間、思わず顔をしかめてしまった。あの子が作ってくれるものと味が違う。米がすすむほど味の染みた煮付けはいつも形が崩れてはいないというのに、これは既に魚の形をしていなかった。おまけに、内臓がそのまま出てきた。不味いかと言われると、別に不味くはない。だけど、美味しくもない。私が求めている味ではない。それを美味しいと言って口にする我が子が不憫にさえ感じた。この子は本当に美味しい食事というものを知っているのだろうか。皿が運ばれて来る前に感じる喜びを、見ただけで食欲が湧き上がる幸福をこの子にも与えてやりたい。
ふと正面にいるなまえを見ると、控え目に笑っていた。そうだ、私はこの笑顔を護りたいと思っていた。それは嘘ではない。だけど、私が今欲しいのは彼女じゃない。この温かな日常は喉から手が出るほど欲したものだけど、それは彼女と築きたいものではない。私が愛しているのは彼女ではない。


「…ごめん。もう行かないと」

「もう行ってしまわれるのですか?」

「あぁ…ごめん。ごめんね」


優しく出来なくてごめんね。好きだったよ。身を焦がすほどの熱は未だに覚えているのに、どうしても君を私は愛せそうもない。私は知ってしまったから。幼い私を受け入れてくれ、どんなことがあろうとも支えてもらえる喜びを。自分を偽る必要などなく、ありのままの私が愛しいと言ってくれる存在を知ってしまったんだ。あの子は私と同じ目線で人生を歩もうとしてくれるんだ。もしかしたら、君と死に別れることがなければそんな関係が築けたのかもしれない。だけど、全ては過ぎ去った過去の思い出なんだ。私はあの子と今を生きる。あの子だけが私の特別になってしまったんだ。
家から出ようとすると、後ろから娘に抱き付かれた。小さな手が私の着物を握る。この手を握り返してあげたい。この子を手離したくない。だけど、ごめんね。私では君の父にはなれない。それでも、いつかまた会うことが出来るだろうか。


「父上」

「ごめんね。また会おう」

「また会える?」

「さぁ、どうだろうか」

「父上。行かないで…」

「大丈夫。必ず会えるよ。また花冠を作ろう」

「本当?約束だよ」

「あぁ。約束だ」


小指を絡めて指切りをする。泣かないで、また会えるから。君は私となまえの子なのだろう?それならきっと、また会えるさ。その時は父上なんて畏まった呼び方ではなく、パパと呼んで欲しいなぁ。それで、遊園地とか動物園に手を繋いで行くんだ。たくさん遊んであげるからね。
戸を開けるとそこは恐ろしいほどの暗闇だった。一歩踏み出すことを躊躇してしまうほどの闇夜を歩き出すと目の前に眩しいほどの光が見えた。この光が何なのか私はもう知っている。光から差し伸べられた手を握ると、頬に水滴が落ちた。


「…昆!分かる!?」

「んー…」

「ど、どうしよう。そうだ、ナースコールを…」

「あれ?ここ、どこ…?」

「病院だよ!職場で熱を出して倒れたの!」

「あー…そういえば、そうだったような…」


何か、風邪気味だなぁと思っていたんだよね。そうか、倒れてしまったのか…と手を見ると、決して厚くはない自分の手が見えた。腕に包帯など巻かれておらず、点滴の管が揺れる。
いい夢を見たなぁと思いながら身体を起こそうとすると、力が入らなくて起き上がれなかった。それどころか、身体が酷く怠い。おまけに胸が痛い。何か異物があるような気がして胸元を触ってみると、太い管が刺さっていた。何事かと管を目線で辿ってみると、何やら機械に繋がれている。その管には赤い液体が流れており、何が起きたのか分からない私はパニックになった。待って、何だこれ。一体何が起きている!?


「な、なに…え、えぇ!?」

「動かないで。看護師さん呼んだからね」

「待って。何が起きたの?」

「だから、職場で倒れたんだって」

「それは聞いたよ。そうじゃなくて、これは何!?」

「ドレーンていうんだって」

「何それ」

「分かんない。何か凄いやつ」

「そ、そんな分からない物を私に挿れないでよ!」

「だって、気胸だって言われて」

「気胸?」

「肺に穴が開いたんだって」

「何で!?」

「自然に?」

「そんなことがあるの!?」

「痩せてる男性に多いみたいだよ。怖いよね」

「えっ、私、死ぬの!?ねぇ、死ぬの!?」

「死なないために入院しているんだよ」


案外、元気そうで安心したと言うなまえを小突く。何がいいものか。こんな訳のわからない機会をつけて。
何日か意識がなかったと言われてゾッとした。あのまま幸せな夢の中に続けていたら私はもしや死んでいたのではないだろうか。過去に囚われて戻ってこれなかったのではないだろうか。危うく本末転倒になるところだった。得るものよりも失うものの方が多いところだった。振り切ってよかった…


「ねぇ、なまえ。煮魚を作ってきてよ」

「は?無理に決まってるでしょ」

「どうして。なまえなら上手く作れるでしょ」

「あのね。昆は入院しているの」

「だから?」

「大人しく病院食を食べて、早く治して」

「お願い。恋しくなっちゃった」

「駄目ったら駄目」

「ちっ…強くなったものだね」

「当たり前でしょ。昆の奥さんなんだから」


献立を渡しながらなまえは溜め息を吐いた。案外と美味しそうな物が出そうだ。味はなまえの作るものに劣るだろうが。
そうだね、私のなまえは私に臆することなく物事を言うような気の強い女だから。私が駄目なことをした時はちゃんと叱ってくれるような子。おねだりだってするし、本音でぶつかってきてくれる。私はなまえとそんな関係になりたいと思っていた。だから、今がとても幸せだ。
なまえの手を握り、頬擦りする。この手を私は離しはしないよ。ずっと二人で生きていこう。そうすれば、きっとあの子にもまた会えることだろう。名前も知らない子供だけど、とても愛らしい子だった。得ることの出来なかった過去に縋るのではなく、これから手にすることの出来る未来のために私は生きよう。幸運なことに、それが許されているのだから。


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