雑渡さんと一緒! 265
「ね、ねぇ…やめて」
「何もおかしなことはしていない」
「してるよ!どこ触ってるの!?」
「え?脚」
「それをやめてって言っているの!」
「どうして」
「は、恥ずかしいから!」
「大丈夫。他もやっていることだから」
ほら、と目線を周りに向ける。どいつもこいつもベタベタとくっ付いているのだ、私たちが馴れ合っていたところで誰も見やしないし、誰も咎めたりはしないだろう。みんな自分のことに夢中なのだから。
夏休みを利用して、少し足を伸ばして南国に来てみた。海沿いにあるホテルだというのにプールが常設されていて、昼間は子供連れで賑わっていたが、夜はカップルで賑わっている。常々思うことなのだが、日本も海外くらい触れ合うことをオープンにしてもいいのではないだろうか。私は別に電車でカップルがベタベタとしていても何も気にしない。というか、見もしない。分かるよ、四六時中一緒にいたいんだよね、とは思うが、別に不快ではない。そして、私自身も人前でなまえと触れ合うことが恥ずかしいだとか、気まずいとは思わない。流石に下半身を露出するような真似はどうかと思うが、そうでなければ別に構わないだろう。ただ、なまえは人前でキスしたり、抱き合ったりすることをとても嫌がる子だった。それが何故なのか私にはよく分からない。どうせみんな自分のことしか見ていないというのに。それに、ここは海外だ。知り合いに会う機会などそうない。おまけに、幸せです、と言わんばかりにくっ付いている男女が多いというのに、私たちだけが平然と泳ぐというのも不自然な話だろう。
大きな浮き輪に乗ったなまえは脚を撫でることが嫌なら、と腰を抱く。そのまま濡れた髪を掻き上げて頬に唇を寄せ、優しく抱き締めてやるとなまえは色気のない悲鳴をあげた。
「愛しているよ、なまえ」
「わ、分かったから…」
「可愛い。私の大切ななまえ」
「分かったって…」
「ずっとこうしていたい」
「ん…っ」
いよいよキスだけでは物足りなくなってきて、なまえの尻をさわさわと撫でると、これまた色気のない悲鳴をあげて突き飛ばされ、そのままプールに落ちた。いい度胸じゃないか、この私を突き飛ばそうとは。髪を掻き上げて睨みつけようとすると、浮き輪の上にはなまえがいなかった。その代わりにプールに足が届かず、必死にもがいているなまえが目に入った。私が落ちたことでバランスを崩してなまえも一緒に転げ落ちたらしい。何をやっているんだか、と手を差し伸べようとしたが、ただ助けるだけでは面白味がない。
腕を組みながらなまえをじっと見ていると、救いの手を求めてこちらへ腕を伸ばしてきた。人は水に浮く生き物なのだから、理論上はどう考えても絶対に水に浮くはずなのになぁ。
「たす…け…っ」
「ほら、ここまでおいで」
「むり…あ…っ」
「あ」
一歩下がって手を広げたけど、私の元へ近寄るどころかどんどん沈んでいったなまえを見て、流石に命の機嫌があると察した私はなまえを抱き抱えた。かなり水を飲んだのだろう、咳き込んではいたが、とりあえずは無事のよう。
おかしいなぁ。私は初めから浮いたような気がしたのだけどね。暴れるから沈むのではないだろうか。もっと落ち着いてゆっくりと手足を動かせば必ず浮くと思うのだけど。まぁ、別になまえが泳げるようになったところで利点など私には一つもないから、敢えて鍛える必要もない。どうせ海や川で溺れたら泳げる人間であろうとも死ぬことになる可能性が高いのだし、少なくとも水場になまえ一人で行かせるつもりはないのだから、私さえ泳げればとりあえずは事足りる。
「し、死ぬかと…っ」
「大事に至らなくてよかったね」
「よくはない。よくはないよ!」
「で?」
「え?」
「ほら、お礼は?」
「ありがとう」
「違う。ほら、ちゃんとお礼をしてよ」
トン、と自分の唇を人差し指で押す。別に礼を言われるほどのことはしてはいないのだけど、いい機会なのだ。なまえから人前でキスする練習の機会とさせてもらおう。そもそも、日本よりもハードルが低いのだ。キスはともかく、そろそろ人前で肩を寄せ合うくらいのことは許されるようになって欲しいから、慣れてもらわないと。
私がほら、と顔を近付けるとなまえは案の定嫌がった。分かっているさ、このくらいの返答は想定内だ。だけど、なまえも分かっているだろう?今の状況で私に歯向かうことは利口ではないのだと。今、なまえの命は私が握っているのだ。
「手、離しちゃおうかなぁ」
「昆はそんなこと出来ないよ」
「そう?じゃあ、離すよ」
「大丈夫。私は信じてるから」
「ほぉ?」
「昆は私が大切だから、そんなことはしない。私の好きな昆は私の命に関わる意地悪なことはしないの。そうでしょ?」
じっと目を見られてそんなことを言われてしまっては、気が逸れた。何だかなぁ、こういうところが狡いんだよなぁ。
私が溜め息を一つ吐くと、なまえはくすりと笑ってキスしてきた。それは本当に触れるだけのものだったけど、今の状況では逆にそっちの方が興奮する。恥ずかしい気持ちを抑えながらもしてくれたのだと分かるから。
このままなまえを抱き締め続けていたら事に及びそうだったから、部屋に戻ってシャワーを浴び、海に行くことにした。
「わぁ、真っ暗」
「夜の海って独特だね」
「私は嫌いじゃないよ」
「怖くはないの?」
「だって、入らないし。波音を聞く分には平気」
「ふーん」
「それに、月が反射して綺麗じゃない?」
上を見上げると、半分に欠けた月が浮かんでいる。それが水面に映り、波で揺れている。確かにこんな風景は他では見ない。思わず写真に納めたくなる美しさがあった。
ふとなまえを見ると、何とも美しい顔をして月を眺めていた。あぁ、月よりもなまえの方がずっと綺麗だ。女というのは色んな顔を持つ生き物なのだと常々思う。子供のようにはしゃぐこともあるのに、急に大人びた顔をするのだから、見ていてとても面白いものだと思う。どの表情のなまえも愛らしいし、どの表情も忘れたくない。そんな想いからなまえの横顔を写真に納める。携帯で写真を撮るなんて文化はここ最近得たものだ。高性能の携帯を所持していてもカメラなんて使ったこともなかった。撮れた一枚を見て、思わず微笑む。
「…私じゃなくて月を撮りなよ」
「なまえの方が価値があるからね」
「私なんていつでも見れるじゃない」
「そんなことはない。この一瞬は今だけのものだ」
「昆ってたまにロマンチストになるよね」
「風情のある男は嫌?」
「嫌じゃない。むしろ、好き」
ぎゅうっと抱き付いてきたなまえを抱き返す。新婚旅行で海外の海に来た時よりもずっと多く触れ合って過ごした。
ホテルでインスタに二人で写真を投稿する。といっても私は見ていただけなのだけど。インスタには料理や景色、旅先で撮った写真やありふれた日常が既に投稿されていた。なまえの顔を出すなとあれほど言ったのに、しっかり私もなまえも顔が出ていて少し怒ったが、別に悪用されるほど他人は見ていないと言われた。それもそうか、私たちと関係のない人間が見たところで何とも思わないだろう。別に住所や電話番号を記載しているわけではないのだ、辿られることもない。
そう、そのはずだった。本当はSNSを通じて連絡を取ることが可能だし、ほんの何気ない投稿から個人を特定することも出来るのだ。若者の文化に疎い私はこの時はそんなこと思いもしていなかったし、ただただ幸せだと思いながらなまえが投稿する様子を眺めるだけだった。この判断が誤りであったと知るのは、あと少し先のことである。
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