雑渡さんと一緒! 266
朝、起きたらまずシャワーを浴びる。髪を乾かしてからクロにご飯をあげて、それから新聞を取りに玄関まで行く。新聞をテーブルに置いたら朝ごはんの用意をして、昆を起こす…というのが、私のモーニングルーティンだった。ただ、今日は新聞を取りに行くところで止まってしまった。外から赤ちゃんの泣き声がしたからだ。
ワンフロア全てうちの持ち物であり、普段この階に人が来るのは宅配便の人くらいのものだ。なのに、赤ちゃんの声が間近に聞こえる。まるで玄関の外にいるかのよう。まさかね、とドアを開けてみると、ダンボールにバスタオルが何重にも敷かれていて、中には赤ちゃんが入っていた。ヒヤッとして思わず箱ごと抱き抱える。周りを見渡したけど、誰もいなかった。嘘でしょ、うちの前にピンポイントで赤ちゃんを置き去りにしていくって何!?というか、いつから!?
赤ちゃんを抱っこしながら、どうしようどうしようと困っていると、流石に泣き声で目が醒めたのだろう。昆が怠そうに寝室から出てきた。ぼんやりとした目が赤ちゃんを捉え、昆は不思議そうに首を傾げた。まぁ、普通の反応だと思う。
「なに、誰の子?」
「分かんない…」
「は?」
「玄関に置いてあったの」
「は!?」
昆は驚いたように目を見開いた。どうしよう、全然赤ちゃんは泣き止まないし、どうしたらいいのかも分からないし。
テーブルの上に置いた段ボールを漁ると、親切にもオムツと箱の粉ミルクと哺乳瓶が入っていた。とりあえず、このアイテムを駆使してこの場を乗り切れ、ということなのだろう。
「捨てたのが親切な人でよかったね」
「親切!?お前、この状況でよくそんなことが言えるね」
「いいからミルク作ってきて。私、オムツ見るから」
「あー、はいはい」
箱と哺乳瓶を持ってキッチンに行った昆は、慌ててすぐに戻ってきた。作り方が分からない、と。説明書があるんじゃないの?と聞くと、どうやら人肌まで熱湯を冷まさないといけないらしい。人肌…37度くらいってこと?そんなの、どうやって測ればいいんだろう。体温計??
「電子レンジじゃ駄目かな?」
「多分、駄目なんじゃない?」
「…まぁ、雰囲気で37度にしてよ」
「分かんないよ、37度なんて」
「私も分かんないよ。あ、でも昔のドラマで耳に当ててるのを見たことあるような気がする。耳と同じくらいにしてよ」
「私には無理だって!代わるからなまえがやって!」
私もやったことないのに…と思いながらキッチンでミルクを溶かそうとして気付く。あれ、哺乳瓶って消毒とかしなくてもいいんだっけ?キッチンハイターじゃ駄目かな?えー…やだ、もう。分からない。
結局、育児書を愛読しているきぃちゃんに連絡して事なきを得た。ミルクを口元にやるとちうちうと飲んでいて可愛い。
「はぁー…。疲れた…」
「この子どうしよう」
「警察に届けるしかないね」
「何か、お母さんの手掛かりがあればなぁ…」
段ボールで捨てるなんて酷いなぁ…と思いながら箱を漁ってみると、バスタオルと一緒に手紙が入っていた。【この子はあなたの子供です。育ててください。】と書いてある手紙が。
「…お母さんは分からないけど、お父さんは分かったよ」
「誰?見つけ次第、殴らないと」
「昆みたい」
「…は?」
「この子、昆の子供みたい」
「そんなわけないでしょ」
「だって、そう書いてあるよ!」
「ほーお?」
私が冗談を言っているとでも思ったのだろう。昆は私から手紙を取り上げていった。そして、短い手紙を何度も何度も何度も読んだ後、ぐしゃっと握り潰した。
私が短く非難する言葉を言うと、昆は首を激しく振った。
「違う!身に覚えがない!」
「あー、はいはい」
「本当だって!私はもう女遊びからは卒業した!」
「うん。信じていたよ、さっきまでは」
「本当に違うって!私の子ではない!」
そう、と言って赤ちゃんを抱き上げる。ゲップってどうやるんだろうかと背中をさする。ポンポンと撫でているうちに赤ちゃんはゲフッといい音を出した。あら、お利口。
とりあえず、この子は昆の子供なんだから、昆が育てるのが妥当ではないだろうか。その場合は警察じゃなくて市役所に行くのだろうか。というか、昆と結婚している私がこの場合お母さんになるのだろうか。私はともかく、この子のお母さんはそれでいいんだろうか。もしかしたら昆と二人でこの子を育てたいかもしれない。ということは、私は邪魔なだけだろう。つまり、私はもう昆とは離婚した方がいい。
「分かった。離婚しよう」
「り…っ、嫌だ!絶対に別れない!」
「一度お母さんと話し合って」
「だから、私の子ではないんだって!」
「可哀想なこと言わないでよ。子供がいるんだから、ちゃんとお父さんらしくしてあげて。可愛がってあげないと駄目」
「私の子ではないのに!?」
「しつこい」
「本当なんだって!どうして信じてくれないの!?」
「だって、現に子供がいるじゃない!」
私たちが怒鳴りあっていると、折角うとうとしていた赤ちゃんが泣き出した。あわあわと慌てて揺れてみるけど、泣き止みそうもない。そうだよね、お父さんに拒否されたら悲しいよね。ごめんね、私はもうすぐ消えるからね。
泣き止まない赤ちゃんに右往左往していると昆がひょいっと取り上げていき、抱き締めて背中をポンと優しく叩いた。すると不思議なもので、ピタリと赤ちゃんは泣き止んだ。
「流石、血の繋がりがあるだけのことはあるね」
「だから…っ、あぁ、もういい」
「認知するんでしょ?」
「しない」
「酷い!子供が可愛くないの!?」
「だから、私の子じゃないんだってば!」
ほらぁ、そんな大きな声を出すからまた泣いちゃったじゃない。全然眠れなくて可哀想だとは思わないの!?と言った私の声も大きかったのだろう。泣き声は益々大きくなる。
日曜の朝に修羅場と化した我が家には似つかわしくない、来客者を告げるチャイムが鳴った。こんな朝から宅配便だろうか。それともまさか…とドアを開けると、綺麗な女の人が立っていた。私を見て、気まずそうに頭を下げたから、私もつられて頭を下げる。この人が昆の…うわ、何か急に現実味を帯びてきた。あぁ、やっぱり昆は綺麗な人が好きだったんだ。それはそうだよね。普通のことだ。そっか、そうだよね…
「なまえ?」
「あぁ!ご迷惑をお掛け致しました!」
「…え?」
「その、先日までこちらに住んでいたはずなんですが…」
「あ…あー。うち、ワンフロア全て改装したもので」
「ひぇっ…申し訳ございませんでした!」
「お父さんには連絡がついたんですか?」
「お陰様で…」
「ねぇ、この子、もう要らないの?」
赤ちゃんを抱っこしながら昆は女の人を睨んだ。赤ちゃんは手を伸ばしている。捨てないで、と言いたいのだろうとまでは思わない。だけど、この子はお母さんを求めているのだということは、はっきりと分かった。
女の人は泣きながら首を横に振り、何度も謝りながら昆から渡された赤ちゃんに謝っていた。聞けば、別に捨てるつもりなんてなく、ほんの少しだけ相手を困らせてやろうと思っただけだそう。お相手には既に家族がいて、単身赴任でこっちに引っ越してきていている間に…となかなか凄い事情を話された。そして、最後までペコペコと謝りながら帰って行った。
「よかったね、お母さんが見つかって」
「………」
「あ、あれ…怒ってる?」
「怒ってる。私、信用がないんだね」
「ち、違うよ?でも、ほら、ねぇ…」
「いいよ、もう。どうせ私は遊び人ですよ」
「拗ねないでよ…」
だって、状況的にはどう考えても昆の子供だと思ったんだもん。子供にも懐かれている風だったというか…
疑ってごめんね、と私が擦り寄ると、特に拒否はされなかったけど、受け入れてももらえなかった。とても機嫌が悪そうに見える。ソファを軋ませながら座り、赤ちゃんが入っていた小さな段ボールとバスタオルを昆はじっと見つめていた。
「あ。返しそびれちゃったね」
「……のに」
「え?」
「いや、何でもない。それよりお腹空いた」
「すぐ作るね」
「ん」
溜め息を吐いてバスタオルを投げ捨てた昆に朝ごはんを用意して、その日は一日ダラダラと過ごした。心なしか元気のない昆が心配で、どうしたのかと尋ねたけど、昆は「早起きした上に慣れない育児をして疲れた」と言うだけだった。
私は失念していた。昆が親に捨てられた経緯を持つことも、本当は親から愛されたいと願っていたことも。だから、今回の一件で昆がどれだけ傷付いたかなんて思いもしなかった。
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