雑渡さんと一緒! 267
朝、ネクタイを締めながらレンジフードの下で煙草を吸っていると、なまえが悲鳴をあげた。何事かとソファに座っているなまえを見ると、テレビを見て震えている。
「なに?」
「春名翠が…」
「が?」
「引退だって…」
「へー」
「やだー!寂しい!」
「そんなに?」
「私がファンだって知ってるでしょ!?」
そう言って憤るなまえは薄っすらと涙を浮かべていた。え、そんなにショックなものなの?好きなタレントだとかアイドルがいない私にはよく分からない。人間なのだから、いつかは辞めるものだろう。それこそ、女優には女優の人生があるのだ。辞めたくもなることだってあるだろう。
ソファに置いていたジャケットを羽織り、落ち込むなまえの頭をよしよしと優しく撫でてから家を出る。本当にごくありふれた、いつも通りの朝だった。
朝礼を済ませてしばらくすると、受け付けから来客者を告げる電話が鳴った。今日は誰とも約束などしていない。ということはなまえだろうか。いや、なまえが何の連絡もなしに来るとは考えづらい。一体誰だろうと応接間に行くと、一人の女がいた。深く帽子を被っており、顔までは分からない。女が私に何の用だ。言っておくが、私は女に優しくするだけの思いやりも優しさも待ち合わせてはいない。それでも、どこかの企業の社長夫人の可能性もあるから丁重に接しなければなるまい、と思っていると、女は私の顔を見るなり帽子を脱ぎ、私の名を呼んだ。その女と接点はない。だが、見知った女だった。何なら今朝ニュースで見た大女優だった。
「は、春名翠…!?」
「昆奈門!」
「は?何で私の名前を…」
春名は私に抱きついて来た。ゾワッとして思わず突き飛ばしてしまう。ソファに倒れた春名はまた私を呼んだ。それも、涙を流しながら、とても愛しそうに。
待て。私はこの女を知っている。嫌というほどテレビで見ているのだ、知らないはずがない。だけど、どうして向こうは私を知っているというのだ。確かに私は顔が広い。だが、それはあくまでも地元での話だ。こんな、大都会どころか世界でも活躍するような女優に知り合いなどいない。
「何故だ。何故…」
「昆奈門…」
「何故、私の名前を知っている?」
「昆奈門。私はあなたの母親なの」
「は?」
「ごめんなさい、急にこんな話…だけど、本当なの」
「そんなはずはない。だって、私は公園に段ボールで捨てられていたんだ。私には母親はいない。私には、私には…っ」
「昆奈門…」
涙を流す様は流石女優だと思った。なかなかに魅せる泣き顔をしている。で、だから何だ。急に会社に押しかけてきて何なんだ。私には母親はいない。私は親から必要とされなかったから、捨てられた。出生届こそ出されていたようだが、まだ生後間もない赤子だった私は捨てられてしまった。まだ生きる術もなく、おまけに冬だというのにバスタオルにくるんで捨てられた。発見が遅ければ死んでいたことだろう。その程度しか愛されなかった人間なのだ、私は。この女が仮に私の母親だとしても、私に今更会いに来るという思考が理解出来ない。必要でないから捨てたのだろう?なのに、今更何の用だ。いいや、違う。この女が私の母親であるはずがない。
混乱のあまり、ぐるぐると同じ思考が渦巻く。違う、違うと言ってくれ。趣味の悪い冗談で、私に取り入ろうとしている馬鹿な女であってくれ。嫌だ、私は母親とは認めたくない。
「昆奈門。あのね、私は…」
「…仕事中なんだ。帰って」
「昆奈門」
「頼む、帰ってくれ。帰ってくれ…」
駄目だ、私はなまえが言うように心が弱いんだ。すぐに迷ってしまうし、すぐに揺らいでしまう。いつも崩れ落ちそうな足元をなまえが支えてくれているから私は立っていられるんだ。このままだと仕事に支障をきたしてしまう。
私が春名に立ち去るように言うと、春名は私に小さなノートを手渡してきた。「駅前のカフェで待っているから」と言われて。そのノートは母子手帳だった。確かに私の名が記されている。母親の欄には「雑渡みどり」と書かれていた。
あれは私の母親ではない。そう思いたいのに、気が付いたらカフェに来てしまった。いつからいたのだろうか。グラスの水滴でテーブルは濡れていた。大女優がこんな所にいてもいいのか。私を見るなり嬉しそうに笑ったりしてもいいのか。お前はそんな安い女ではないだろう。孤高の女優と言われているくせに、私などに笑い掛けたりしないで欲しい。私は単なる気まぐれで来ただけだ。私はお前が母親だとは信じていない。私には母親はいないんだ。そう思っていた方がずっと楽だ。私は可哀想な捨てられた子。そう思っていたいんだ。だから、そんな顔をしないで欲しい。ぐらぐらと心が揺れてしまう。これが本当に自分の母親なのかと思ってしまう。
「来てくれたのね…」
「…さっきの話は本当なの?」
「ええ。そう、そうよね…」
それから春名は語った。役を得るために寝たプロデューサーとの間に子供が出来たこと、何度も堕ろそうと思ったけど、結局堕ろせなかったこと、どうしても育てられないと思い捨てたこと、インスタの投稿を見つけて会いに来たこと、本当はずっと後悔していたこと。こんなドラマのような展開があるだろうか。にわかに信じ難い。
続けて春名は言った。もう長くは生きられない、死ぬ前にどうしても私に会いたかった、と。本当に一方的に言われた。
「…で、会ってどうしようって?まさか、今更私の母親ぶるつもりなの?言っておくけど、私は優しい人間などではない」
「いいえ。あなたは優しい子」
「知りもしないくせに、よく言う」
「知っているわ」
「ほぉ?何故知っている」
「あなたの奥さんの投稿を見たもの」
「…なまえの?」
「そう、なまえさんと言うのね。少し有名なのよ?」
「…ほぉ?」
「作るご飯が美味しそうで、夫がいつも喜んで食べてくれるって投稿から始まったの。だけど、次第に何気ない日常の投稿が増えていって、奥さんと昆奈門の写真が投稿されるようになっていって。ふふ、可笑しいのよ。あなたがまるで子供みたいって言うの。互いに想い合っている、仲のいい夫婦としてインスタではちょっとした話題になっているんだから」
そう言って春名は微笑んだ。つまり、この女はインスタから追ってきたということか。あぁ、だからインスタに写真を載せることは反対だったんだ。私で留まっているうちはまだいいけど、なまえに害が及ばないようにしないといけない。
私はどこか冷静ではないようで冷静だった。そう、そのつもりだった。いや、冷静さを欠いていたことだけが敗因ではないだろう。ここ最近、写真を撮り過ぎていた。元々は写真を撮られることに敏感だったのだ。隠し撮りなんて嫌というほどされたのだから。だから私は写真が嫌いだった。だけど、なまえとの思い出を残せるのなら写真も悪くはないと思い、撮るようになっていた。だからなのだろう、私は気が付かなかった。まさか週刊誌の記者に春名といるところの写真を撮られていたなんて、この時の私は気付きもしなかった。
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