雑渡さんと一緒! 269
《私はあの写真の男性とは何ら関わりがありません》
そんな記者会見からしばらく経った頃、家に客人が来た。週明けから出社しろと言われていたし、本当は今日は心穏やかに過ごしたかった。なまえはいつも以上に私を甘やかしてくれたし、ずっと側にいてくれた。その好意に甘えたい。この子さえいれば私はいいと思い続けたい。
なのに、現実は残酷なもので春名が家に来た。いや、今日家に来ることはDMで知っていた。なまえは家をピカピカに磨き上げていた。それは芸能人が来るから…というわけではなく、私の母親が来るからだと言う。春名はウィッグを被り、サングラスとマスクで顔を隠していて、誰なのか分からなかった。だからリビングに現れた春名は本当は別人なのではないかと思った。いや、そう思いたかった。心の平穏のために。
「昆奈門、ごめんなさい。迷惑を掛けて…」
「…本当だよ」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい…」
「いいよ、演技は」
「演技なんかじゃないわ!私は本当に昆奈門を…っ」
「あのさ。気安く呼ばないでくれる?気持ち悪い」
「昆…」
なまえに袖を掴まれる。まるで私を咎めるように。何故だ、私は間違っていない。こいつに迷惑を掛けられたのだ。いくら月末処理がなくなったとはいえ、一人欠けることは損益に繋がる。おまけに私は部長だ。課長である陣内にも迷惑が既にかかっているのだ。文句くらい言わせてもらいたい。
春名は私に生命保険の証書を渡してきた。受け取り人は私になっている。こんな物を渡されても困るし、受け取れない。
「…なに?これが慰謝料だって?」
「違うわ。私は昆奈門が大切なの。信じてもらえないかもしれないけど、私はあなたのことをずっと想っていたのよ」
「はっ。それを信じろと?私を捨てたくせに?」
「それは申し訳ないと思っているわ。だけど私は…」
「…産まなければよかったんだ。捨てるくらいなら産むな!」
「…昆」
「私なんて生まれてこなければよかったんだ。邪魔だったんだろう?なのに何故堕ろさなかった?お前に私がどんな想いで生きてきたのか分かるか?どうせ、分からないだろう!」
「昆!」
なまえに頬を叩かれる。何故だ、私は間違っていない。先日うちの前に子供を捨てた親を見ても思ったが、必要がないのなら生まなければいいんだ。ただそれだけのこのだろう。それがお前は何故出来ない?犬や猫だって自分の子供を育てるのだぞ?それを何故出来ない?
寂しかったかって?あぁ、寂しかったよ!同級生が親と出掛けたという話を聞いて私がどれだけ羨ましかったと思っているのだ。親から昨日怒られたと愚痴るのを聞いていて私がどれほど羨ましかったかお前には分かるのか?私は親から捨てられた、要らない子供だった。その事実がどれだけ私を蝕んだのか分からないのか?そんなことも分からないのなら、子供なんて産むな!子供は親の都合のいい道具ではない。子供にだって心があるんだ。お前みたいな女がいるから私のような捻くれた人間が生まれてしまうんだ。お前のせいだ!お前が私を捨ててしまったから、私は女が嫌いなんだ。なのに女を求めてしまったのは誰かから愛されたかったからだ。まるで母親のように無償の愛を与えてくれ、抱き締めてほしかった。そんな気色の悪いことを考える男を生み出したのはお前のせいだ!謝って済む問題などではない!
私がそう怒鳴ると、なまえはまた私を叩いた。泣きながら。
「自分を卑下するのはやめて!私は昆が必要なの!昆がいなかったら私は駄目なの!あなたが生まれてきてくれて私はよかったと思っている。だから、これ以上傷付かないで!」
「私は、私は…っ」
「駄目だよ、絶対に後悔するから。ちゃんと向き合って…」
「嫌だ!私は認めたくない!私には母親はいない!」
「ねぇ、昆。お願い、もう自分を認めてあげて。本当は誰よりも優しいじゃない。本当は誰よりも傷付いているのに…」
「違う!私は傷付いてなんか…」
ボロっと涙が落ちた。違う、これは違う!私は泣いてなどいない。傷付いてなんかいないんだ。私を幾つだと思っているんだ。母を恋しがる歳ではもうないだろう。
目を乱雑に擦ると、春名は私に古ぼけたキーホルダーを手渡してきた。子供が書いたような下手くそな絵と、下手くそな文字が書かれている。まるで覚えたての、本当にたどたどしく下手くそな文字で「ありがとう。ざっとこんなもん」と書かれていた。何だ、これは。こんな物を作った覚えなど私にはない。これは何だ。何だって、こんな物が…
「覚えていない?私、ずっと前に一度施設を訪問したの。ボランティアという形で、一日子供達と遊んだのよ。その時のお礼として、このキーホルダーが施設から送られてきたわ」
「こんな物…」
「あなたは隅っこで一人の男の子とずっと遊んでいて、私には目もくれなかった。だけど、私がブロックを積み上げたら下手くそだって笑って。本当に可愛らしかったわ…」
「違う…それは私ではない。私ではない!」
「ずっと捨てられなかった。あなたが元気に育っていてくれて嬉しかったから。こんなにも立派になって私は嬉しいわ」
「やめろ、やめろ…っ!」
春名は泣きながら私を抱き締めた。嫌だ、やめてくれ。私はまだお前が母親だとは認めていない。捨てたのにずっと想っていた?そんな都合のいいことがあっていいはずがない。
本当は春名を突き飛ばしたかった。もっと罵ってやりたかった。なのに、それが出来なかった。なまえよりも大きく、それでいて小さな女が本当に嬉しそうに笑っていたから。息が苦しい。認めたくないのに認めたくなってしまう。私は本当は母親から愛されていたのだと信じたくなってしまう。
目の前にいるなまえを見ると、優しく微笑んでくれていた。その顔を見て、涙が出てくる。もう感情がぐちゃぐちゃだ。
「愛しているわ、昆奈門」
「…母さん。母さん…っ」
母親を抱き締める。細い腕、小さな身体が温かい。私は生まれてきてよかったのだろうか。私はなまえ以外の誰かに愛されていたのだろうか。私が負った傷は消えない。もうずっとこの傷と共に生きていかなければならない。だけど、私は平気だ。私はもう一人ではない、なまえがいてくれるから。
それが春名と言葉を交わす最後の機会となった。別に連絡先を交換することもなく、また会うこともないまま春名は癌で死んだ。訃報が流れた時こそ堪えたが、もう私は平気だと思える。そうやって時間が私を変えていく。どんなに立ち止まりたくても、時間は待ってくれない。残酷にも日常は繰り返しやってくるし、その日常が私を支えてくれる。なまえと共に。そうでなければ私はあの時潰れていたことだろう。
「わぁー。流石、凄いお花だね」
「まぁ、芸能人だし?」
「私たち、ファンだと思われてるかな」
「なまえはそうでしょ?」
「そうなんだけどさ…」
「サインくらい貰っておけばよかったね」
「あー、本当だ!気付かなかった」
「馬鹿だね、最後のチャンスだったのに」
「だって、あの時は昆のお母さんとしか思ってなかったんだもん。なのに、あの時言いそびれたことがあるからさぁ…」
「そう。私もだよ」
なまえが選んだ花を供える。既に山のように供えられていた花にやや見劣りするが、まぁ致し方のないことだろう。
ねぇ、母さん。私、身内の墓参りなんてすることになるとは思わなかったよ。この作法はね、妻が教えてくれたんだ。可愛い子でしょ?それに、強いんだ。私なんかよりもずっと強い子でね、私を支えてくれるんだ。それは生活だけのことではない。私の心を側で支えてくれているんだ。そうでなければ、多分母さんのことは認められなかっただろうし、こうして墓参りに来ようとは思わなかったと思う。私はなまえに出会えて幸せだよ。だから、だからさ…あの時は言えなかったけど、産んでくれてありがとう。忘れずに想ってくれてありがとう。生まれてこれてよかった。そうでなければなまえと出会えなかったから。こんなにも好きな子と一緒にいられなかったから。だから、安心してよ。私は大丈夫だから。
さて、と立ち上がる。三月も下旬だというのに今日は少し肌寒い。早くホテルに戻って温まりたい。いや、それともこのまま浅草を観光するというのも悪くはない。遥か遠い空を見上げると、スカイツリーが見えた。あぁ、いい天気だなぁ。
「なまえ、行こうか」
「うん」
「随分と熱心に話し込んでいたね」
「まぁね」
「母さんと何を話したの?」
「昆を産んでくれてありがとうございますって。昆がいてくれるから私は幸せだし、昆を必ず幸せにしますからって」
「…そう」
なまえを手を繋いで墓地を出る。多分だけど、もう当分の間はここには来ないのだろうと思った。失われた過去を取り戻すことは出来ないし、例え母親だと認められたとしても私は立ち止まっているわけにはいかないから。
そうだな、子供がもし産まれたら会いに来てやってもいい。可愛い子だろう、と自慢してやりたい。そして、決して子供の手を離すことなく、なまえと育て上げてみせると誓いたい。幸せな自分を見せて、私を捨てたことを後悔させてやりたい。だから、それまで私は来ない。だけど、もし生まれ変わったら母さんの子として生きてみたい。その時にはちゃんと側で甘やかして欲しい。それが今は叶わないから、私は妻に甘やかしてもらうことにするよ。
さようなら、母さん。ほんの一時だったけど、ありがとう。
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