雑渡さんと一緒! 270
パリーン、とグラスを割ってしまった。洗い物をしていたら稀によくあることというか、まぁ、ある程度は仕方のないことというか。そして、高い物ほどよく割れる気がするのは気のせいなのだろうか。あーあ、このグラス高かったのになぁ…と思いながら破片を集めていると、クロが近寄ってきた。
慌ててクロを制止する。駄目だ、ガラスの破片がどこまで飛び立ったのか分からないのだから、掃除機をかけるまではこっちに来たら駄目…と一歩踏み出すと、ザクっといった。
「あ…あーーー!」
お約束とも言える展開、破片を踏んでしまった。慌てて破片を取り除こうとしたけど、血がドバドバ出ている。見ていて気分が悪くなるほど床が血で汚れてしまった。
お風呂掃除をしてくれていた昆が私の絶叫を聞いてリビングに戻ってきた。だけど、私はしゃがみ込んでいるから見えなかったのだろう。不思議そうに私の名前を呼びながらキッチンに顔を出した。怒られる、と思い咄嗟に隠そうとしたけど、隠せるだけの血液量ではない。とりあえず、控え目に手で隠してはみたけど、何の意味もなかったことだろう。予想通り、昆は絶叫した。まぁ、そこから早い早い。病院に連れて行かれて、大袈裟だと思ったけど破片がまだ足に刺さっていたようで、ほんの少しだけ切られて取り除かれた。そして私はお久しぶりの松葉杖を使用しての帰宅である。
「クロー。ただいまぁ」
「いいから手を洗ってきて」
「はぁい…」
怒ってますよ、勿論。そんな雰囲気満載の昆は機嫌がかなり悪そうである。クロは怯えて近寄りもしなかった。
珈琲でも淹れようかと私は言ったけど、昆はいいから座っていろと短く言って、珈琲を淹れてくれた。前々から思っていたけど、昆の淹れる珈琲は私には少し苦い。ということは、このくらいが好みなのだろうな…なんて思って前に聞いたら、そんなことはないと言う。珈琲もお湯も適当に入れているから、だいたい苦いだけだそう。量ればいいのになぁ…と、どうでもいいことを考えてこの場の雰囲気に耐えようとする。
「えへ…えっと、ごめんね?」
「謝るようなことではない」
「で、でも心配かけちゃったし…さ」
「それはいつものことだから」
「わぁ、嫌味…」
「事実でしょ?」
ええ、まぁ…だけど、何もそんな言い方しなくたっていいじゃないというか。別にわざと怪我をしたわけではないんだからさぁ…いや、そんなこと怖くて言えないけど。
喧嘩ではなくて昆が一方的に怒る、というのは別に珍しいことではない。大概が私が怪我をした時で、つまりそれだけ私が怪我をしているということでもある。いつもこういう状況になったら私は必死に昆に話し掛けたり、必死に言い訳をしようとしたりしていた。だけど、昆はその媚びた態度が何よりも嫌いだといつも言う。どうにか許してもらえる方法を模索して擦り寄られるくらいなら、何も話さず放っておいてもらえる方がまだマシだ、と。そんな冷たいことを言われる。
あーあ、怒らせるつもりなんてなかったのになぁ。だけど、心配してくれてありがとう。やや大袈裟だけど。
そっと昆に寄り掛かる。別に機嫌を取ろうとしてやったわけではない。ただ、今こうして昆に甘えたくなっただけだ。
「…そういうの、私嫌いだって何度言えば分かるの?」
「別に機嫌取りじゃないよ。だから、私はいつもみたくベラベラ喋っていないでしょ?ただ、こうしていたいだけ」
「あっそ…」
別に私は何かを言うわけではなかったし、昆も何も言わなかった。もちろん、いつもみたく肩を抱かれるなんてこともなかったし、身体を寄せ合って二人で静かにテレビをぼんやりと眺めていた。私たちが静かになると、クロがおずおずと様子を伺っていたから、笑いながら手招きする。ぴょん、と軽々飛んで、クロは私と昆の隙間に入った。
状況を知らない人が見たら、家族みんなでのんびりと過ごしているように見えることだろう。そっとクロを撫でてやる。撫でれば撫でるほど伸びていくクロが可笑しくて、猫というのは面白い生き物だなぁと思う。だけど、クロから見たら私たち人間も面白いのだろうか。割とよく喧嘩をする私たちは何だかんだですぐに仲直りする。言い合っていたのに急にまたいつものように過ごしているというのは猫にとったら可笑しなことなのだろうか。猫の喧嘩は激しいと聞くし。でも、猫も人間も命の長さには限度がある。ずっと生きていられるわけではないのだから、せめて生きているうちはなるべく楽しい気持ちで過ごす時間が多い方がいいと私は思う。まぁ、今現在怒っている昆にそんなことは絶対に言えないけど。
そんなことを考えながらクロを撫でていると、手を重ねられた。大きな手が私の手を包み込むように隠し、握られる。
「あれ、もう怒ってないの?」
「…怒ってる」
「じゃあ、離して。私、愛情のない触れ合いは嫌だよ」
「愛情がないのに怒ったりするものか」
「あ、そっか」
「馬鹿が…っ」
ぎう、と頬をつねられたけど、昆は悲しそうな顔ながら私を抱き締めてきた。すりすりと頬擦りをされながら溜め息をつかれる。私を抱き締めながら溜め息なんてやめて欲しい。
「ねぇ、昆」
「…なに」
「私は生きている人間なの」
「知ってる」
「だから、怪我は普通にするよ。交通事故とか」
「縁起でもないことを…」
「勿論、気を付けるよ?」
「当たり前でしょ」
「だけど、事故は仕方ないと思うの」
「…駄目。許さないから」
「無理だよ、偶発的なものなんだから」
「私より先に死ぬことは許さない。許さないから…」
「それこそ縁起が悪いよ」
だって、私が死んだら昆も死ぬんでしょ?だから私は先には死なないの。仕方のない人だから私が長生きしてあげるしかない。その代わり、日常で負った怪我については許して欲しい。私だって好きで怪我をしているわけではないのだから。
「私はずっと側にいるよ」
「なまえの言うそれは信用ならない」
「あ、ひどーい」
「私を置いて死んだのだから仕方がない」
「不可抗力だよ」
「何が不可抗力だ。普通、飲む?忍びが井戸の水を」
「あ、過去のことを蒸し返すのは狡いよ」
そんなことを言う人には夕飯を作ってあげないんだから。ちなみに今日の夕飯はチーズがたっぷり入った茄子とトマトのラザニアだけども。特製のミートソースがたっぷりとかかったやつ。昆が美味しいから明日も食べたいって騒いだ一品に今日は特別にホワイトソースも入れる予定だったんだけどなー。あーあ、どうしよっかなー。
私がそんな意地悪を言うと、昆は狡い狡いと言いながらも手伝ってくれた。一緒に夕飯を作って、お風呂から出たら昆に薬を塗ってもらって、優しく巻かれた包帯の上からキスをされてからベッドに入った。
きっと、私はこれから何度も似たようなことで昆を怒らせることになるのだと思う。だって、グラスを割るなんて普通のことだから。それこそ、野菜と一緒に包丁で手を切るとかもありそう。普通に生きていても仕方のない怪我だって世の中には必ずある。だけど、それは受け入れていってもらわないと。赤信号で横断歩道を渡ろうとして車に轢かれたのならまだしも。だから、そんなに心配しないで。私はちゃんと生きるから。だけど、心配してくれてありがとう。嬉しいよ。
そう言うと抱き締められた。いつものように狡いと言って。
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