雑渡さんと一緒! 273
あぁ、今日も怒られている。それも尊奈門に。下の子が入ってくると急に調子に乗るんだから。自分だってまだ半人前のくせに…と思ったが、私があまり口出しすることではない。彼とは面識があり、そしてまた私が懇意にしている子である。私が彼を三年で使える社会人に仕立て上げてやることが彼への恩返しだと考えていた。このタソガレドキ社で三年働けるのならば、どこへ行っても恥ずかしくない仕事が出来る男になっていることだろう。マナーから根性まで叩き込んでやるつもりだ。それでも、他の部下の手前、彼にだけ甘い顔をするわけにはいかなかった。新人教育で部長である私が過度に口出しをするわけにはいかない。どちらかといえば私はサポート役だ。だからこの場は静かに見守るのが正解だろう。
で。落ち込んだ彼を慰めるというのが本来であれば尊奈門の少し上、例えば陣左の役割である。ただ、生憎と陣左は今少し忙しい。纏まりかけていた取り引きが破談になりそうになっているのだ。そちらに集中してもらわなければならない。
「やぁ。お疲れ」
「…お疲れ様です」
「おや。ようやく私にも敬語を使えるようになったの」
「文字通り叩き込まれましたから」
「まぁ、社会人として大切なことだからねぇ」
「分かっています」
「潮江くん。君、うちに来たことを後悔している?」
「いいえ」
「そう。それは指導のし甲斐があることだ」
可愛い可愛いと頭を撫でてやると露骨に嫌そうな顔をしたけど、それでも特に反撃してはこなかった。これは相当参っているな。まぁねぇ、入社してから失敗続きだものね。自分もそうだったから分かるよ、自分はこの会社にとって価値がないと思っているのだろう。だけど、コツコツと積み上げた努力はそろそろ身を結ぶことになるよ。これはね、ちゃんと、辞めずに続けられた者にのみ与えられる褒美だ。小さな契約であろうとも自分一人で纏められたという実績は自信となり、次に繋げることが出来る。それは周りのサポートがあってからだと気付いてから、更に成長することが出来る。逆に言えば、そういう奴しか残れない。営業というのは厳しい戦場だ。撃たれても撃たれても立ち上がらなければならない。一人で頭を取ることなど難しく、多くの者に支えられなければ成し得ないことだ。それを理解することが出来た時、君はようやくスタートラインに立つことが出来る。そこからは全員が一斉に走り出すんだ。もちろん私も例外ではない。時に仲間であり、時に敵でもあるのがこの営業という難しいところだ。だけど、うちの営業部は人間関係はそう悪くない。だから、君は恵まれているよ。ちゃんとゴールテープを何度か切らせてあげるから、それまで頑張ってもらわないと。
缶珈琲を手渡し、喫煙室へと連れて行く。いつの間にやら彼も喫煙者となっていた。これは別に私が勧めたわけではないと前持って言っておきたい。彼から煙草を欲したのだから。
「なーんか最近、上の空だよね。何かあった?」
「…いえ」
「あぁ、あったんだ。なに、女?」
「………」
「あらま、女なんだ。妊娠でもさせちゃった?」
「……まぁ」
「…え。嘘、本当に?」
適当に言葉を並べていただけなのに、まさか肯定されるとは思ってもみなかった。えっ、妊娠させた?潮江くんが?
「…部長はそのような経験はありますか?」
「ない。徹底して避妊していた」
「そう、ですよね…」
「えっ、本当に?どうするの?」
「一応、結婚しようかと…」
「お、おぉ…そう、おめでとう…?」
「…どうも」
「…えっ、大丈夫なの?君、まだ金ないよね?」
「まぁ…」
だよね、分かるよ。私も引くほど新人の頃は金がなかった。社長に「それなりの物」を持つこと以外許されなかったから毎月の給料はほとんどローンに消えた。初めてのボーナスでようやくコンビニ弁当以外の飯を手にすることが出来て、嬉しかったなぁ。歩合制である営業職の基本給は何気に初めは低く、金に余裕が出てきたのは二年目の冬くらいからだったかな。初年度に700万貰っていたことが年末調整で発覚した時、自分が何にそんなに金を使ったのかと驚愕した覚えがある。だけど、今から思えば使っているというか、使わざるを得ないんだよね。車だって買わないといけないし。気が付けば金が余るようになってきて、だけど忙しさも比例していって、金を稼ぐって大変だと心から思った。
相手の女を妊娠させた、結婚をする。つまり、金がないところに加えて金が必要な状況ということか。本来ならば結婚などすべきではない。相手を養うどころか自分が生きるだけで精一杯なのだから。だけど、子供が出来、産むと決めたのなら結婚すべきだ。その決意をした潮江くんには称賛の意を表したい。まぁ、生活出来るかは別としてなんだけど。
「…相手のご両親は認めてくれたの?」
「一応…」
「そう。じゃあ、あとは資金繰りか…」
「ここ、アルバイト禁止じゃないですよね?」
「そうだね。物理的に不可能だからね」
「…頑張ります」
「無理だって。死ぬよ?」
もう分かっていると思うけど、忙しいなんてもんじゃないんだから。いくら若いとはいえ、人間の体力には限度がある。今の君なら分かるだろう、君の家でなまえを巡って殴り合った後、私が倒れるように寝てしまった理由が。どんなに頑張っても無理なんだよ、本当に命を削って仕事をしているんだから。余力なんてほとんど残らない。
とはいえ、金か…なまえ、怒るかなぁ。絶対に怒るよなぁ…
「…貸してあげるよ、幾らいるの?」
「はっ!?要らねぇよ!」
「はい、敬語はどうしたのかな」
「け、結構です!なまえ…さんに怒られますよ!」
「いいよ、そんなこと気にしないで」
「でも…」
「引っ越しと、新居と、出産費用?あと生活費か…」
「結構ですって!」
「とりあえず、100万貸すよ。まずは引っ越しなさい」
ごにょごにょ言う潮江くんに午後、金を渡す。返ってこなくてもいいやと思いながら。まぁ、返ってくるんだろうけどね。彼は律儀というか、馬鹿な子だから。
で。馬鹿な私は当然なまえに怒られた。理由を追求され、はぐらかしていると私の金銭感覚に対しても小言を並べてきたからカチンときて、言い合いになり、今に至る。それでも私は潮江くんの名誉のために100万を使った理由は言いたくなかった。彼だって必死に働いている。馬鹿真面目な性格なのだから、遊び半分で結婚するわけではないことも分かっていたし、金がなくても子供を堕すという選択をせずに身体を壊す覚悟をした上でアルバイトに行こうとした根性は認めてやりたかった。彼の人生を潰したくなかった。もちろん、こんなことは誰に対してもするわけではない。私は彼には借りがある。彼を殺めようとしたことも、彼に身を引いてもらったことも返していかなければいけない私の罪だ。
喧嘩してもなまえは私を起こしてくれたし、食事だって用意してくれた。だけど、それはそれは質素なものだった。弁当に至っては米が敷き詰められていて、海苔で「馬鹿」と書いてあった。誰が馬鹿だ、と頭にきたし、おかずはどうしたと米を掘り進めてみたりもした。何日も何日もそんな食事が続き、気が狂いそうになった。家に帰ってもなまえと目を合わせることもなければ口を聞くこともなく何日も過ぎ、次第に身体に不調が出るようになってきた。全然眠れないし、食欲もないし、苛々するから煙草の本数と酒の量が増えていった。で、胃腸の調子が非常に悪い。それでも、どうしても潮江くんに金を渡したとは言えなかった。同じ男として彼の気持ちは痛いほど分かったから。私がそうであるように、好きな子を大切にしたいと思っているのだと分かったから。
「な、何で文次郎に…?」
「その、俺…」
「いいから帰れ!夫婦の問題に口を出すな!」
「そんなこと言ってたらお前が倒れるだろ!」
「敬語はどうした!?」
「ここは会社じゃねぇからいいだろ!」
「何だ、その理屈は!」
「いいから待って!文次郎と話をさせてよ!」
なまえは私を押し除けようとしてきたが、ここは譲れない。潮江くんは元々なまえの友人だ。仮にも一度なまえに好意を寄せていたにも関わらず、金がないにも関わらず妊娠させたなんて知られることは潮江くんの名誉に傷がつく。おまけに私に金を借りるなんて、彼のプライドは相当傷付いていることだろう。それでも大人しく金を彼は受け取った。それほどまでに彼は思い悩んでいるということだ。これ以上彼を責めるような真似はしたくない。これ以上彼のプライドを傷付けるような真似はさせられない。くだらなかろうが、男にだってプライドというものがあるんだ。かっこつけたい時だってあるんだよ。
なまえの肩を掴むと、取っ組み合いになった。力ではどう頑張ったって私が勝る。なまえをねじ伏せるなど造作もないことだ。ただ、女というのは力はない代わりに悪知恵は働く生き物だ。なまえは「痛い」と声をあげた。反射的になまえの手を離すと、なまえは何事もなかったかのように潮江くんの所に走っていった。酷い、それは禁じ手だろう。反則だ!
「文次郎、ちゃんと説明して!」
「なまえ!やめなさい!」
「俺、結婚するんだ。その、彼女を妊娠させて…」
「へぇっ!?」
「あぁ、言ってしまった…」
黙っていれば分からないのに。なまえは私が説き伏せるから気にしなくていいとあれほど言ったのに。
なまえは呆然としていた。だけど、潮江くんに封筒を手渡されてギョッとしていた。その反応から中身が金であることは察しがついた。ということは、仲の悪いと言っていた親に頭を下げたということか。名家の出である潮江くんのご両親はそれはそれは固いらしい。就職してすぐに見合い話まで持って来られたというのだから相当だろう。親と縁を切ってまで一緒にいたいと思える人間と出会い、恋に落ちる確率というのはどのくらいのものなのだろうか。どれだけの覚悟がいることなのだろうか。私にはよく分からない。分からないが、私はどうしても潮江くんの意思を尊重してやりたかった。私だったら多分、周りから反対されても押し切ってなまえと結婚した。駆け落ちだってしても構わない。全て失ったとしても、なまえが側にいてくれさえすれば私は構わない。そう思える子に出会える確率がいかに低く、そしてまた、奇跡であるのかをよく分かっているから。本当に失ってはいけないものは何であるのかを私は嫌というほど分かっているから。
「これ、返すよ。ありがとな」
「だ、大丈夫なの…?」
「おぉ。ま、何とかな」
「認めてもらえたんだ?」
「まぁな。家は兄貴が継いだし、まぁ、俺はいいだろ」
「…そう」
「とにかく、だ。なまえ、雑渡にちゃんと飯を作れよ」
「…考えておく」
「それと。ちゃんと話し合えよ?」
「うん。一応、話はするよ」
潮江くんが帰ってからテーブルの上には現金の入った封筒が置かれ、その後やっぱり私たちは言い合いになった。
「何でちゃんと言ってくれなかったの!?」
「言えないよ、そんなこと」
「どうしてよ!?言ってくれたら私だって…っ」
「なまえ。彼は幸せになれると思う?」
「どうかな…なれるよ、文次郎なら」
「私もそう思う。それを邪魔したくなかった」
「何よ、邪魔って!?」
「彼にだって知られたくないことはあるだろう」
「だけど…っ」
「子供を産むと決めたのなら、子供を幸せにしてあげて欲しかった。結婚すると決めたのなら、幸せな家庭を築いて欲しかった。負目なんてなく、未来に向かって欲しかったんだ」
彼はまだ無限の可能性を秘めているのだから。それこそ子供が生まれたらなまえと顔を合わせることもあるだろう。その時に金のことで負い目を感じて欲しくなかった。なまえに金のことで潮江くんを責めて欲しくなかった。なまえに余計な心配は掛けたくなかった。だから、こっそりと定期を崩したのに、まさかこんなにも早くバレてしまうとはね。
友人というのは尊いものだ。大人になればなるほど新しい友人を見つけることは難しい。だから私は潮江くんとなまえには友人でいて欲しかった。まぁ、気に入らないといえば気に入らないのだけど、こんなつまらないことで拗れてしまうのは嫌だった。きっと彼はどのような形かは分からないが、いずれなまえの力となってくれると信じているから。
「…馬鹿。馬鹿っ!」
「まだ言う?それ」
「馬鹿…もう少しで離婚するところだったじゃない」
「いや、私は認めないって」
「で?」
「なに」
「ごめんなさい、は?」
「何に対して?」
「全部よ、馬鹿!」
泣きじゃくるなまえの頭を撫でると抱き付いてこられた。久々になまえの温もりを感じて、胸が痛くなる。
その後なまえとたくさん話をして、ちゃんとお互いに謝り、一応はこの喧嘩は終わりを迎えた。溜め息を吐いてから、出社する。さて、どのタイミングでこれを渡せばいいのやら。
なまえと話し合い、この金は潮江くんに渡すことに決めた。結婚祝いかつ、大分早めの出産祝いも兼ねて。その分、私にしっかりと働いて稼いでこいと言うのだから、本当になまえは強くなったものだと思う。それでも、ちゃんと頑張れる。今日の弁当は私の好きな唐揚げと玉子焼きが入っていたし、ご飯の上に桜でんぶで形取られたハートがついていたから。
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