雑渡さんと一緒! 278


「あ。まだ誰にも言わないでね」

「どうして」

「23週を過ぎるまでは待って欲しいの」

「だから、どうして」

「ほら、落ち着いてからの方がいいし」

「あぁ、安定期ってやつ?」

「そう。それ」

「ふーん、安定期って23週なんだ」

「…うん」


ごめんね、嘘だけど。だけど、昆が周りに言ったことで余計な知識が入ってくることが怖かった。もし私の病気のことを言われたりしたら、きっと昆は気付いてしまう。
昆を送り出してから、病院に向かった。今日は産婦人科ではなくて循環器内科。ちゃんと妊娠したことを告げて相談しないといけない。いくら私が覚悟を決めたとはいえ、そう簡単に死ぬつもりなんてない。産婦人科の先生は死ぬ可能性がゼロではないと言った。逆に言えば、助かる可能性もゼロではないのだ。だったら私はそれに賭けたい。それに賭けて、もし駄目だったら、それはそれで構わなかった。例え私が助からずに死んでしまったとしても、昆が育ててくれるから子供が元気に生きていてくれさえすればいい。そう思えた。


「雑渡さんは出産を希望しているんですね?」

「はい」

「かなり厳しいお産になると思いますよ」

「分かっています。だけど、産みたいんです」

「そうですか…」

「なので、もう薬は飲んでいません」

「えっ!駄目ですよ、ちゃんと飲んでください」

「だって、お産に影響が…」


循環器内科で実は薬を飲むことをやめたことを伝えると、絶対に駄目だと言われた。胎児には影響はないから、と。
胎児への影響なんて考えていなかった私はヒヤリとした。私が飲んでいる薬にもし子供に悪いものだったとしたらやめないといけない。子供のために出来ることなら何でもやりたいし、子供のためにならないことは全てやめたい。私はそう思っていた。よく昆に極端とか頑固だと言われるけど、世のお母さんは全員そうなんじゃないんだろうか。知らないけど。


「雑渡さん。薬をやめると心臓に負担がかかります」

「はい」

「なので、飲み続けながらの出産になります」

「えっ…大丈夫なんですか?」

「もちろん出血のリスクがあります。かなり危険です」

「ここで出産は出来ますか?」

「多分、出来ると思いますよ」


受け入れてもらえる病院を見つけないといけないと思っていたから、あっさりと見つかって安心した。ここの病院で産めるのなら、循環器の先生もいるから心強い。
そのまま産婦人科の予約をしてから家に帰った。帰りに図書館で名付け辞典と絵本を借りてみる。お腹をさすりながら絵本を読んで、何の反応もなくて少し寂しくなる。よくドラマである「動いた!」ってやつを体験してみたいのになぁと思いながら夕飯の支度に取り掛かった。今日はお魚だ。ペロッと魚をパックからめくって網の上に乗せると、生臭くて少し気持ち悪くなった。これも悪阻なんだと言われたら納得出来る。仕方ないことなんだと思えるから、よかった。昆が納得してくれたのかは分からないけど。
早く昆と触れ合いたいなぁ。昆を好きな気持ちは変わらないのに、どうしても側に寄ると気持ちが悪くなる。特にスーツなんて煙草で蒸したのかと思うほど煙草くさくて嫌になる。


「ただいまー」

「おかえり」


魚の横に大根おろしを添えて、テーブルに置く。今日のお味噌汁は卵とお豆腐。白菜のお漬物と南瓜の煮物をテーブルに並べていくと、昆はジャケットをポンとソファに置いた。もう、ちゃんと掛けてっていつも言っているのに…とジャケットを手にすると、いつも匂うはずの煙草の香りがしなかった。クリーニングに出してもすぐに煙草の匂いがするのに。
はて、と思いながらクローゼットに掛ける前にいつものようにスーツリフレッシャーをかけてみる。鼻を押し付けると煙草くさいけど、それでもいつも程ではないような気がする。不思議だなぁと思いながらリビングに戻ると、いつも煙草を吸っているくせに、今日はご飯をよそって私を待っていた。


「煙草は吸わないの?」

「今はいい」

「そう?じゃあ、食べようか」


手を合わせてご飯を食べ始める。小松菜と切り干し大根のお浸しがいい具合に味が染みて美味しい。元々、野菜が好きだったけど妊娠してからは余計に好きになった。
食後に珈琲を昆に淹れる。私はハーブティーを飲むことにした。ハーブティーってあまり飲んだことがなかったけど、美味しいんだなぁ。これなら珈琲を我慢することが出来そう。


「あのさ、病院を調べたんだけど、ここはどう?」

「あ。調べてくれたんだ」

「うん。私は安全を期して大きな病院がいいと思うんだ」

「うん」

「なまえが前に入院した病院の産婦人科は評判も悪くなかったし、出産件数も多いからいいと思うんだけど、どう?」

「実はね、今日診察の予約をしてきたんだ」

「そうなの?いつ?」

「来週の水曜日」

「水曜か…有給とれるかな」

「いいよ、来なくて」

「何で。私も行きたいんだけど」

「どうして?」

「医者の話を聞きたいし、エコーも見たいから」


珈琲を飲みながら印刷した紙を見せてくれた。病院のHPで、産婦人科の紹介が書かれている。救急に対応した出産もやっていて、全ての妊婦が安心して出産出来る環境を整えていると書かれていた。会社で調べてくれたんだ…
23週までは昆を産婦人科に近付けるわけにはいかない。先生から出産のリスクの説明をされたら喚き散らかしそうだし。


「もう少しお腹が大きくなるまでは来ないで」

「だから、どうして?」

「恥ずかしいから。もう少し大きくなったらお腹にエコーを当ててくれるみたいだから、それまでは待って。お願い」

「えー」

「ね。お願い」


人一人分空けて座っていた昆に近付く。ごめんね、気を使ってくれたんだよね。私が煙草くさいなんて言ったから。
そういえば、昆は今日は家で一度も煙草を吸っていない。それに、隣に座っても煙草くさくない。何でなんだろうかと思いながら昆の顔を覗くと、慌てて離れていかれてしまった。


「何で離れていくの?」

「だって、におうでしょ?」

「まぁ、ほんのりと」

「やめようと思ったんだけど、我慢出来なくて…」

「えっ。禁煙しているの?」

「いや、だから一本吸っちゃったんだって」

「一本?一本しか吸ってないの!?」


あの、風邪をひいて高熱があろうとも煙草を吸おうとする昆が禁煙?一箱一万円になってもやめないと言ったのに?
風呂に入ってくるから、と言ってシンクでカップを洗う昆を無性に抱き締めたくなった。私と子供のために煙草をやめようと努力してくれている。こんなにも好きなのに、どうして触れられないんだろう。本当は昆と抱き合って妊娠した喜びを分かち合いたかったのに、どうしてそれが出来ないんだろう。いってらっしゃいのキスも随分と出来ていないし、本当は昆の腕の中で眠りたいのに。
どうしたらいいんだろう、とお腹をさすると、ぽこっと動いた。気のせいかな。動いた気がしたんだけど…と思っていると、やっぱり動いた。えっ、本当に赤ちゃんが動いている。


「こ、昆…昆!ねぇ、来て!」

「なにー?」

「動いた!」

「何が?」

「赤ちゃん!いま、動いたの!」

「えっ!」


慌てて走ってきた昆は私のお腹に耳を当てた。だけど、動かなくなってしまって、そう都合よく何度も動くものじゃないのだと知る。まぁ、ね。一日中動いていたら疲れるしね。


「動かないじゃない」

「今は気分じゃないんだよ、きっと」

「気分とかあるの?」

「そりゃあ、あるよ。生きているんだから」

「ふーん…そりゃあ、残念」


がっかりした様子の昆が離れていこうとした時、はっきりと動いたのを感じた。昆には分かっただろうか、と昆の顔を見ると、驚いたような顔をしている。私と目が合うと、嬉しそうに笑い、そして、ぎゅうっと抱き締めてきた。
多分、嬉しくて咄嗟に取った行動だったのだろう。昆は急に冷静になったのか、私に謝りながら離れていこうとした。だから私は昆をぎゅうっと抱き締める。いつもほどではないとはいえ、煙草のにおいが髪からした。心地がいいと感じるにおいではないし、やっぱり気分が悪くなる。だけど、気にせずに昆を抱き締めた。昆の温もりが愛しくて、切なくなる。


「…ねぇ、離して。煙草くさいでしょ?」

「うん」

「離して。気持ち悪くてなっちゃうよ」

「いいの」

「よくないでしょ」

「いいの。私は今は昆とこうしていたい。触れ合えなくて寂しいのは昆だけじゃないんだよ?私も寂しかったんだから」


本当は嬉しい時にはこうして抱き合って喜びを分かち合いたい。私たちはいつもそうしていたから。拒んでしまって本当にごめんね。だけど、受け入れてくれてありがとう。煙草をやめようとしてくれてありがとう。大好きだよ。
優しく抱き返してくれた昆にそう言うと、昆は私に小さな声で愛を囁いてくれた。しばらく私たちは抱き合いながら過ごした。だけど、キスはしてもらえなかった。キスは煙草のにおいを最も感じる行為で、正直なことを言ってしまうと今はどうしても気持ちが悪いと感じてしまう。助産師さんはホルモンバランスのせいで夫が嫌になることはよくあることだと言ったけど、私は昆のことが嫌いになったわけではないから多分悪阻のせいなんだろうなぁ。早く落ち着いて欲しい。私もキスしたい気持ちは同じだから。
翌日、靴紐を締め終えた昆にいつものように鞄を手渡す。


「ありがと」

「今日は遅くなるの?」

「普通に帰れると思う」

「分かった」

「じゃあ、いってきます」

「あ。待って」

「なに?」

「ねぇ、屈んで」

「なんで」

「昆の背が高いから。ほら、早く」


一瞬、期待したような顔をした昆はその後すぐに怪訝そうな顔をした。私が屈んでと言う時は必ずキスをしていたけど、今は出来ないと思っているからだろう。その表情の変化さえも愛しくて、思わずくすりと笑ってしまう。
ほんの少しだけ私と昆には距離が生じてしまった。だけど、それは私も昆も望んだものではない。離れてみて改めて分かったけど、私は昆のことが好きなようだ。大好き。
ちゅっと昆の頬にキスをする。呆気に取られたような顔をした昆に笑いかけてから、唇に触れるだけのキスをすると、昆は嬉しそうに笑いながら私を抱き締めてくれた。


「ね、ねぇ…遅刻しちゃうよ?」

「いいよ。今はこうしていたい」

「駄目。ちゃんとお仕事頑張って、パパ」

「いいじゃない、たまには」

「駄目。ほら、早く行って。私はこの子と待ってるから」

「ちぇ…いってきます」

「いってらっしゃい。ご飯作って待ってるね」

「うん」


ちゅっと優しいキスをしてから昆は出て行った。洗濯機を回してからベランダに出て、下を見ると昆がじっとこちらを見ていた。本当に遅刻しても知らないんだから。
ひらりと私が手を振ると、昆は私に手を振って駐車場の方へと消えていった。さて、今日は何をしようかな。子供の名前を考えようかな。それで、休みの日にどんな名前がいいかたくさん昆と話し合うの。もちろん、ちゃんと隣に座って。


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