雑渡さんと一緒! 279


机を指でコツコツと叩く。周りは私が苛々していると感じ取ったのだろう、誰一人として近寄っては来なかった。
禁煙をしようなんて思う日が私に来るとは思ってもみなかった。生涯、煙草と共に生きていくつもりだったのに。だけど、なまえと子供のことを思えば煙草なんて何一つ得をしないし、役にも立たない嗜好品だ。少なくとも、私にとっても損益が大きい。健康面ではなくて、心の。なまえと触れ合うことが出来なくなってもうどれくらい経つだろうか。なまえは一年待ってほしいと言った。一年もセックスどころかキスもハグも出来ずに過ごさなければならないのかと絶望したけど、なまえは今朝キスをしてくれた。それは触れるだけのものだったけど、あまりに高揚してしまい、思わず押し倒したくなった。性欲というのはどうしてこうも枯渇することがないのだろうか。抑えられるものなら抑えたい。夜な夜な一人で抜くのは虚しいし、抜き終わってからなまえの寝顔を見ると何とも言えない気持ちになる。煙草をやめることよりも、どちらかというと性処理の方が苛立ってしまう。それに加えて私は今、酒もやめている。煙草のにおいが気持ち悪いのなら、酒のにおいだって厳しいだろうと思ったからだ。なまえの身体は私の子供を産むために変化していっている。恐怖もあるだろうし、不安だろう。それを見ていることしか出来ないのだから、自分に出来ることは何だってやらないといけない。私に出来ることなどたかが知れている。どんなに望んでも、妊娠も出産も私は代わってはやれないのだから。
会社を出ると、佐茂に会った。帰れないと言っていたけど、この時間には帰れるのか。いいね、普段は定時で帰れて。


「おう。お疲れ」

「ん」

「お前、忙しいのか?」

「今は普通かな」

「最近喫煙所で会わないからさ」

「あぁ。やめてるんだ、煙草」

「…は?お前が?」

「まぁね。じゃ、お疲れ」


今日の夕飯は何だろうと思いながら佐茂と別れると、後ろから掴まれた。佐茂からは煙草のにおいがして、今まで気付かなかったけど、こんなにも煙草のにおいとは残るものなのかと驚いた。これはなまえが辛いと言うのも納得出来る。


「ウザい。帰りたいから離して」

「お前、体調でも悪いのか?」

「悪くない」

「嘘つけ!禁煙する理由がないだろ!?」

「逆に何でお前は子供がいるのに禁煙しないの?」

「別に子供と照の前で吸うわけじゃ…あ?えっ?」

「なに」

「なまえちゃん、妊娠したのか?」

「いや、別に…」


言うな、と言われたから口をつぐむ。確かに妊娠してすぐは流産しやすいと聞くし、万が一にも流産した後に周りから子供のことを聞かれるのは辛いだろう。そこまで考えが及んでいるなまえは流石だと思ったし、誰にも言わないこと自体は納得している。ただ、上手く隠せるだろうか。
実のところ、私は嘘をつくのが上手くない。自分から不用意に何でも話さないから隠し事こそ得意かもしれないが、心を開いた人間に対しては割と何でも言ってしまう節がある。それこそ今のように核心を突かれたら何と返答していいのか分からない。さて、どうしたものか。佐茂は私の濁した返答を聞いて、何かを確信したような顔をしていた。佐茂になら言ってもいいだろうか。いや、佐茂はきっと帰って北石に話すだろう。で、北石が無遠慮になまえに話す、と。そうだ、そうに決まっている。あの女が配慮なんて洒落たことを出来るはずがない。どうにか誤魔化さないとまずい気がする。


「おめでと。そうかぁ、お前も父親になるのか」

「…違うって」

「なんでだよ。隠すなよ」

「センシティブなことだから聞かないで欲しい」

「それ、妊娠してますって言ってるのと同じだぞ?」

「とにかく、私から言えることは何もない!」

「分かってるよ。誰にも言わないから安心しろ。な?」

「どうせ北石には言うくせに」

「ほらな。やっぱり妊娠してんじゃねぇか」

「…あ」


あぁ、やっぱり向いていない。どうしよう、佐茂にバレてしまった。なまえ、怒るかな。怒る…だろうなぁ。
一つ咳払いをしてから佐茂に絶対に北石に言うなと念を押しておく。意味があるかは分からないが、言わないよりはマシだろう。ただ、帰ったらなまえに謝らないと。自ら話したわけではないけど、佐茂にバレてしまった、と。それで怒られたらどうしよう。折角、今朝なまえがキスしてくれたのに、またしてくれなくなってしまうかもしれない。もしそうなったら佐茂のことを生涯呪ってやる。絶対に許してやらない。


「分かってるよ。言わねぇから」

「どうだか」

「よかったな、雑渡。おめでとう」

「…どうも」

「というか、うちの子と同い年だな」

「あー、そうだね」

「仲良くしてやってくれよ」

「まだ生まれてもいないのに、そんなこと言われてもね」

「つれねぇなぁ。男女だったら結婚したりとか」

「ふざけないでもらえる?絶対に許さないから」


佐茂を小突いて別れる。どこか温かい気持ちになって、車の中で一人頬が緩んでしまった。子供が生まれたら行きたいこともやりたいこともたくさんある。毎週のように三人で週末に出掛けて、いっぱい思い出を作るんだ。私は親には恵まれなかったし、どこかに出掛けるなんてこともなく幼少期を過ごしたから、子供にはそんな想いはさせたくない。ちゃんとなまえと二人で可愛がって育てたい。私一人ではきっと子育てなんて満足に出来ないことだろう。だけど、しっかり者のなまえが母親なんだ、きっとなまえに似て優しい子に育つ。


「ただいま」

「おかえり」

「あのさ、えっと、佐茂にバレちゃった」

「え?」

「なまえが妊娠していること…」

「えぇ!?な、何か言われた?」

「うん。おめでとうって。その、ごめんね」

「他には?他には何か言われたりした?」

「他?えっと、子供が同い年だね、とか」

「後は?後は何か言われなかった?」

「……?」


佐茂にバレたことをなまえに伝えると、怒られたりはしなかった。どちらかといえば焦っているように見える。それに、何かを隠しているように見えた。また隠し事か。このタイミングでの隠し事とは一体何だろうか。まさか私の子ではないとか?いや、なまえに限ってそんなことはないだろう。私が言うのも何だが、なまえはそう簡単に浮気をするような子ではない。ちゃんと私に想いを向けてくれている…と思う。つい最近まで疑っていたけど、その疑惑は晴れた。少なくともなまえは托卵しようとするような狡賢い女ではない。


「…何か隠しているね?」

「隠してないよ」

「ほぉ?私の目を見て言ってごらん?」

「隠してない。本当だよ」

「…そう」


なまえはじっと私を見据えてきた。確かに嘘をついているようには見えない。なまえの目は泳いだりしていなかった。どちらかといえば、確かたる覚悟を持っているように見える。これが母親の顔なのだろうか。そのあたりはよく分からない。だけど、芯の通った顔をしているなまえが私に隠し事をしているとは到底思えなかった。もしも隠し事をしているのだとすれば、それは相当の覚悟を持ってのことだろう。何があっても揺らがない程の確固たる決意があれば話は別だが、妊娠に関してはそんな覚悟を決めるほどの事案は発生しないだろう。そう思った。
スーツを脱ぎ、夕飯を摂る。何だろう、何かが引っかかる。


「昆?今日のご飯、美味しくなかった?」

「いや、美味しいよ」

「じゃあ何を考えているの?」

「…本当に何も隠していないだろうね?」

「しつこいよ」

「だけど…」

「それよりさ。性別知りたい?」

「えっ。もう分かるの?」

「多分ね。知りたいなら、水曜に聞いてくるけど」

「知りたいよ。知りたい!」

「分かった。じゃあ、聞いてくるね」


嬉しそうに笑うなまえと話しているうちに、私は感じた違和感のことを忘れてしまった。そのくらいなまえは幸せそうに見えたし、怒られなくてホッとしたからだ。
まだこの時には止められたんだ。どうしてもっと追求しなかったのだろうかと後々自分を責めたり、自分の勘は何一つ間違っていなかったと後悔することになる。だけど、追求したところで多分私ではなまえを止めることはきっと出来なかったことだろう。そのくらいなまえの意思は固かった。何があろうとも絶対に子供を産むという決意がこの時には既になまえにあった。自分が無知であったというのもあるが、私は母性というものを甘く見ていた。それが全ての敗因だろう。


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