雑渡さんと一緒! 280


「旦那さんは了承しているんですね」

「はい」

「そうですか。では、こちらが承諾書になります」


紙を山のように渡される。出産で万が一のことがあったら…みたいな書類があって、こんなの私にリスクがなくても昆は騒ぎそうだなと思った。まぁ、みんな書いているものだし、書かせよう。でも、そうしたら医者からの説明を聞きたいって騒ぐかなぁ。だとしたら23週を過ぎてから書いてもらおうかな。その方が後戻り出来ないし。
今日もエコー写真を貰って、この前とそう変わらないなぁと思いながら鞄にしまう。私が先生に性別を聞くと、まだはっきりとは分からないと言われた。「はっきりと」ということは「ぼんやり」とは分かるということなのだろうか。


「先生の見立てでいいです。何となく、どっちですか?」

「違っていても知りませんよ?」

「いいです。どっちですか?」

「女の子です。でも、20週を過ぎないと何とも…」

「20週を過ぎたら分かるんですか?」

「子宮が見えるので」

「えっ。凄い!もうちゃんと人なんですね!」

「…人ですよ?」


お前は何を言っているんだ、と言いたそうな先生と別れてから助産師さんとお話をする。助産師さんに痩せ過ぎだと言われた。貧血だし、ちゃんと食べられる物は食べろとの指導を頂く。ちゃんと食べているんだけどなぁ。
病院を出てからヨルの家に掃除をしに行った。相変わらず汚い。お部屋が泣いちゃうよ、と私が言うと嘲笑われた。


「雑渡とはうまくやってんの?」

「うん」

「ねぇ、終わったらカフェに行こうよ。いい所見つけたの」

「禁煙席にしてくれるならいいよ」

「禁煙?なまえ、気にしないじゃん」

「気にするようになったの」

「ははーん。さては、妊娠したな?」


にやっと笑うヨルを無視してお風呂場に入ると、またキノコが生えていた。もう、共存するしかないのかな。プチっとキノコをむしり取ってからゴム手袋をして擦ってみる。
ふと上を見上げると、天井もまぁ汚かった。背伸びしても届かないから、バスタブの上に登って天井を擦る。家ではモップを使っているけど、この家にはそんな物はないから仕方なくスポンジで擦るしかなかったのだ。びちゃびちゃと泡と水が滴る。だけど、あと少し擦りたい。もう少しで取れそうなのに…と深追いすると、電球が切れて視界が真っ暗になった。


「なまえ!ねぇ、なまえ!」

「…あれ?」

「大丈夫!?」

「んー…電球が切れて…どうしたんだっけ?」

「何言ってんの!?倒れたんだよ!」

「へ?」

「雑渡を呼んだからね!」

「え!」


気が付いたらヨルの腕の中にいた。何が起きたのかよく分からない。切れていたはずの電球は点いているし、バスタブの上に乗っていたはずなのにヨルに抱えられているし。
まさかとは思うけど、バスタブの上から落ちたんじゃ無いだろうか。私、ちゃんとお尻から着地したんだろうか。お腹を打っていたらどうしよう。そう言われてみれば、お腹が痛いような痛くないような…えっ、どうしよう。というか、昆を呼んだの?今日は会議があると言っていたのに?あぁ、だけど血相を変えて来てくれるんだろう。あの人はそういう人だ。
案の定というか何というか。昆は血相を変えて迎えに来た。


「なまえ!た、倒れたって…」

「大丈夫だから戻って」

「何が大丈夫なものか!頭は打っていない!?」

「多分、平気かな」

「腹は!?」

「平気だよ。…多分だけど」

「病院にすぐ行くよ!」

「待って!行くなら一人で行くから!」


昆と病院に行くわけにはいかない。今日、先生に言われたことが昆の耳に入るわけにはいかなかった。
先生には出産そのものが心臓に負担が掛かること、産後出血が止まらなくなるリスクがあることを言われた。それでも、ちゃんと出産出来ている妊婦さんはたくさんいるようだ。だから安心しろという話ではない。危険は危険だと言われた。そんなことを知られるわけにはいかない。絶対に昆なら堕ろせと言う。だから昆を病院に近付けるわけにはいかない。


「…やっぱり、何か隠しているね」

「違うよ。恥ずかしいの」

「嘘を吐くな!言え!何を隠している!?」

「隠していないってば!」

「もういい。とにかく、病院に行く」


ひょいっと昆に抱えられて無理矢理病院に連れて行かれた。救急外来で赤ちゃんに何ともないことを告げられてホッとする。診察台で何かをされながら私は先生にお願いした。頼むから夫には何も言わないで欲しい、と。
私はこの子を産みたい。もし堕すことになったら後悔してもし切れないことだろう。それこそ一緒悔やむことになる。


「お願いします。夫には言わないで…っ」

「…雑渡さん。出産は一人だけのものではありません」

「そんなこと、分かっています!」


分かっている、そんなことくらい。だけど、どうしても私はこの子を産みたい。反対される理由が分からないわけではない。この救急外来で昆が今どんな気持ちでいるのかだってちゃんと分かっている。ここは私が心臓発作で倒れた時に搬送された病院だ。生きるか死ぬかの瞬間を何度も昆に味合わせてしまった。不安にもなるだろうし、色んなことを思い出してしまうだろう。大切な人が死ぬかもしれないと言われて不安にならない人なんていない。まだ顔も見たことがない子供と私を比べたら、昆なら私を選ぶだろう。逆の立場だったら私だってそうするかもしれない。だけど、だけど…


「…夫には私から言います。だから、お願いします」

「ちゃんと話し合えますか?」

「はい。それより、赤ちゃんは大丈夫ですか?」

「大丈夫。元気ですよ」

「えっと、その…夫にエコーの説明をしてもらえますか」

「はい、勿論」


診察台から降りて昆の元に戻ると、ぎゅうっと抱き締められた。「馬鹿」と言われながら。ごめんね、心配掛けて。
先生からエコーを見ながらここは頭で、これが臍の緒で…と説明された。それと、貧血気味だから倒れたのだろう、と。先生は私との約束を守ってそれ以上は何も言わなかった。それが有り難くて、ホッと胸を撫で下ろす。だけど、昆は何か釈然としないといった顔をしていた。帰りの車の中でも何か隠していないかと聞かれ、その度に私は何も隠していないと何度も何度も言った。
ごめんね、嘘をついて。だけど、許してね。もう危ないことはしないと約束するから許して。無事にこの子を抱いて三人で写真を撮るなんて約束は出来ないけど、あなたに家族を作るから。それが私とあなたが出会った理由だと思うから。


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