雑渡さんと一緒! 291
「おかえり。どこまで行ったの…?」
「ちょっと…隣…町まで…っ」
「私に着いてくるとは、やるじゃないか」
「何なの?化け物なの!?」
「フルマラソンを何度走ってると思っているんだい」
この婆さんは化け物だ。間違いない。60を過ぎてあの速度で走れる奴なんてそういないぞ。着いていくのがやっとだった。悔しい。くそ、鍛えて追い抜いてやる。
風呂に入り、髪を梳いているなまえに酷い目にあったと擦り寄ると、なまえは息を止めていた。まるで何かに耐えているかのような仕草に思わず目を見張る。まさか陣痛がきたのではないだろうか。だけど、なまえはすぐに何事もなかったかのような顔をして笑顔を向けてきた。つい先程まで辛そうに見えたというのに、まるで別人だったのかと錯覚するほど。
「…ねぇ、どこか辛いの?」
「ううん。平気」
「平気には見えなかったけど」
「多分、前駆陣痛だと思う」
「陣痛!?じゃあ、早く病院に…」
「あ、前駆陣痛は陣痛じゃないの」
「は?どういうこと?」
「陣痛の前の陣痛かな」
「それ、つまり陣痛だよね?」
「でも、今病院に行っても追い返されるんだって。ちゃんと10分間隔になるまでは家で待機していて下さい、って」
「何それ…大丈夫、私が上手く言いくるめるから」
「ねぇ、そういうのやめて」
心配しなくても大丈夫だよ、となまえは言った。だけど、なまえはなかなか眠れないようだった。時々、唸ったりしている。これ、やっばり陣痛なんじゃないのだろうか。
少し迷ってからアキさんを起こした。出産経験のあるアキさんならば、何か分かるのではないだろうかと思ったのだ。
「なまえ。痛いのかい?」
「何か、生理痛を酷くしたような感じ…?」
「間隔は?」
「さっきまで20分だったんだけど、今は15分かな」
「それは陣痛だね」
ほら、みたことかと慌てて着替えようとクローゼットを開けると、アキさんに「まだ病院には行けない」と言われた。やはり10分間隔になるまで行ってはいけないようだ。そんな、10分も15分も大差ないだろうと思うのだが、どうやら違うらしい。何がいけないのかは理解出来ないが。
なまえはうとうとしては目を覚ましを繰り返していた。可哀想に、寝られないくらい痛いということじゃないか。
「ねぇ、やっぱり病院に行こうよ」
「追い返されるよ」
「だから、私が言いくるめるって」
「そんなことしなくていいってば」
「だけど…」
「大丈夫、寝て。明日も仕事なんだから」
「は?行かないけど?」
「駄目だよ、ちゃんと仕事に行って」
「私は立ち会う。医者もいいと言ったじゃない」
「今日は会議があるでしょ」
「いいよ、別に。代理を立てればいいだけだ」
「駄目。会議が終わってからでも間に合うよ。ね?」
「そうだ、10分感覚になっても10時間かかるから」
「は!?そ、そんなにかかるの!?」
「だから、大丈夫。ね?」
ほら、寝ようよとなまえに布団をかけられ、ポンポンと寝かしつけられた。私は子供か。時々、つらそうにしているのを見ていると寝るのが申し訳なくなった。だけど、なまえの優しい手つきが私を眠りに誘い、私は寝てしまった。
朝、起こされると感覚は10分になっていた。眠れたのかと聞けば、ちゃんと寝たという。だけど、疲れた顔をしていた。
「じゃあ、いってくるね」
「うん」
「絶対に行くからね」
「分かってる」
「何かあったらすぐに連絡してね」
「いいから早く!遅刻するよ」
追い出される形で家から出る。もっと早く起こしてくれたら病院まで送っていけたのに。今日、会議なんてなければ朝からずっと付き添えたのに。だいたい、予定日よりも早いじゃないか。せめて予定とズレるのなら、休みの日にしてくれればいいのに。そんな言っても仕方のないことを考えながら会議に出た。相も変わらず、どいつもこいつもくだらないことばかり話している。年度末最後の会議だから、いつもよりも議題が多く、時間を要した。時計ばかり見ていたら嫌味を言われたから、いつものように倍にして返してやる。大した頭も良くないくせに、くだらないことばかり言うな。
会議室を出てから営業部に寄り、そのままコートを羽織ると陣内に話し掛けられた。別に私を引き止めるためではない。少なくとも今日明日は休めるよう引き継ぎを行うためだ。
「悪いね。後のことは頼んだよ」
「ご武運をお祈りしています」
「頑張るのは私ではなくなまえだけどね」
そう、私が出来ることは何もない。立ち合わせてもらいたかったのは、我が子の誕生の瞬間をこの目で見たいから…というのもあるが、どちらかといえばなまえをサポートしてやりたい気持ちの方が大きかった。何も出来ないにしても、励ましたい。支えたい。痛いと聞くし、その鬱憤を少しでも晴らしてもらいたかった。
しかし、病院に着いてそんな考えはただの自己満足に過ぎず、偉そうに何かしてやりたいと考えていた自分を恥じた。
「あ…お疲れさま…」
「あ、あぁ…」
「い…痛い!やだ、きた…っ」
「ほら、息を吸いな。赤子が呼吸出来なくて苦しんでるよ」
「だって、痛…あー、痛い!もう無理!」
「大丈夫、大丈夫。みんなやってることなんだから」
ちょっと、想像していた痛がり方と違った。本当に痛いんだろうし、本当に辛いんだとなまえを見て分かる。未だかつてこんなにも苦しんでいるなまえを見たのは初めてだ。
どうしよう、と私が狼狽えているとアキさんに背中を叩かれた。「突っ立ってないで、なまえの手を握ってやりな」と。
「あ…痛いの落ち着いた…」
「そ、そういうもんなの?」
「みたい…」
「なまえ、喉渇いてないかい?オレンジジュースあるよ」
「あ、飲む…」
「ほら、ぼさっとしてないで飲ませてやりな!」
「あ、はい…」
手渡された紙パックにストローを刺し、なまえに手渡そうとするとアキさんに怒鳴られた。「陣痛で苦しんでいる子にそのまま手渡す奴がいるか。飲ませてやれ」と。
ストローを口元に持っていきながら、何一つ自分が役に立たないことがよく分かった。なまえのために何をしてやればいいのかが全然分からない。気軽に頑張れとか言える雰囲気でもない。何の苦しみもない私が気安く励ますのは失礼な気がした。そのくらいなまえは苦しんでいた。申し訳なくなってきて思わず俯くと、なまえに弱々しく笑い掛けられた。
「よかったぁ、昆が来てくれて」
「いや、でも私は何も…」
「実は心細かったの。朝は偉そうなこと言ってごめんね」
あぁ、お前はこんな時まで私の心を軽くしてくれる言葉をくれるのか。自分のことで手一杯のはずなのに、優しさを私に向けてくれるのか。強いと思っていたけど、本当になまえは強い。私のことを光で照らしてくれる。
汗ばんでいるなまえの髪を掻き上げる。頑張って、なまえ。月並みなことしか言えないし、何の役にも立たないけど、ちゃんと私が側にいるからね。
あぁ、やっぱり出産に立ち会ってよかった。なまえがどれほど苦しんで未來を産んでくれたのか知ることが出来たのだから。絶対に大切にしよう。なまえも、未來も私の持てる力の全てを使い、生涯をかけて幸せにしよう。改めて、そう思った。そんなことくらいしか私に出来ることはないのだから。
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