雑渡さんと一緒! 293


「産まれます!」

「予定より小さい!小児!」

「準備、出来てます」


何というか、医療者って凄いんだなぁと思った。病院も医療者も嫌いな私でさえ尊敬してしまう。きちんと連携をとっているのが分かる。ぎゅうっとなまえの手を握り締めた。
長い闘いの末にようやく生まれてきた未來は私が想像するよりも遥かに小さかった。赤子というけど、どちらかといえば紫色をしている。そして、産声がかなり小さい。それが標準なのかは分からない。だけど医師と助産師の表情から、あまりよくないことが伺えた。思わず未來に駆け寄りたくなったけど、なまえに手を握られて我に返る。なまえを見ると、また苦悶していた。そうだ、胎盤を出さなければならない。


「なまえ、あと少しだよ。頑張りな」

「…なまえ?ねぇ、なまえ」


なまえの目が虚ろなのが気になり、呼び掛ける。あんなにも痛がっていたのに、急に静かになった。また意識を失ってしまったのだろうか。そうだよね、疲れているからね…と思っていると、聞き覚えのあるアラーム音が聞こえた。たまに夢に見る、あの嫌な音。なまえが心臓の病気で倒れた時に嫌というほど聞いた音がした。
私が動揺していると、医者が大声で周りに指示を出した。


「Aラインからラクテック全開!MAP用意して!」

「はい!」

「Vライン確保出来る?」

「末梢が締まっていてバックフローありません!」

「血圧は?」

「58/35です!」

「先生、HR40です!SPO2とれません!」

「自発呼吸は!?」

「微弱です!」

「酸素、リザーバーにして!アンビュー用意!」


えっ、待って。ねぇ、待って。これ、絶対によくないことだよね?そんな、医療ドラマみたいな単語を並べないでよ。
なまえに必死に呼び掛けたけど、返答はない。だけど私の目をしっかりと見て、微笑んできた。まるで大丈夫だよ、と言わんばかりの表情にゾッとする。顔色が異様に悪い。死人みたく真っ白だ。そんな、嘘だ。だって、さっきまであんなに痛がっていたのに、こんな急に死に至ることなんて…と思っていると、足元から水音がした。何事かと下を見ると真っ赤だった。床が血でゆっくりと染まっていっているのが分かる。


「自発呼吸停止しました!CPR開始します!」

「緊急コール!応援呼んで!」

「MAP用意出来ました!」

「Aラインから全開で落として!もう一本Aライン確保出来そう?俺はアトムバルーン入れる。あぁ、ご家族を出して!」


腕を引かれて無理矢理外に出される。えっ、何が起きているの?あの血は誰のものなの?どうしてなまえは意識がなくなったの?MAPって何?自発呼吸停止ってどういう意味…
嘘だ…嘘だ、嘘だ、嘘だ!こんなことあっていいはずがない。


「嫌だ!嫌だ、なまえ!」

「おい、何があった!?」

「騒ぐんじゃない。なまえが出血したんだよ」

「出血!?」

「心臓が止まりかけているようだ」

「な…おい、昆奈門!」


心臓が止まりかけている?出血した?そんなはずはない。だって、なまえは笑っていた。笑っていたんだ。
だけど、なまえの顔色は死にゆく者の顔そのものだった。過去に何度も見てきた、逝こうとしている者と類似していた。加えて、靴底に染みた血液が何を意味しているのか分からないわけではない。これはなまえの血だ。なまえは医者に言われた通り出血した。医者に言われた70%に入ってしまった。
あぁ、もう駄目だ。なまえはまた私を置いて死ぬ。おまけに未來も死にそうだ。あんな血色の人間は毒を盛られ、呼吸が出来なくて死んでいった者しか見たことがない。私はなまえも未來も失った。そういうことなんだ。
そうだよね、30%に賭けるなんて馬鹿げている。そうか…


「おい、昆奈門!何処に行く気だ!?」

「…ちょっとトイレで顔を洗ってくる。冷静にならないと」

「お婿さん、絶望するな!まだなまえは頑張っているんだ」

「大丈夫、分かっているから」


分かっているよ、なまえも未來も死ぬって。私が子供を望んだから、こんなことになったのだと分かっている。
さて、私はどこで死のうかな。屋上とかから飛び降りようかな。よかった、大きな病院を選んでおいて。この高さからなら死ねそうだ。なまえと未來にあの世で会えるかなぁ…
一段登る度に、なまえとの思い出が走馬灯のように蘇る。


「あの、はじめまして。隣に越してきた…」


可愛かったな、なまえ。緊張していて、どこか上擦った声をしていた。また出会うことが出来て嬉しかったなぁ…


「お金を稼げているのは努力したからですよね?雑渡さんがお仕事を頑張っているんだなって思っただけです」


ふふ…そんなことを言われたのは初めてだったよ。なまえは私をときめかせるのが上手かったね。どんどん夢中になってしまった。この子に好かれたいなんて初めて思ったんだから。


「雑渡さんって本当に努力家ですよね。尊敬します」


尊敬?そんな、尊敬されるだけの努力など私はしていない。私のはただの負けず嫌いだ。周りから何でも出来ると思われていたから、それを裏切るのが癪だっただけだよ。なまえはそれを分かった上で私を努力家だと言ってくれたね。ありがとう、嬉しかったよ。私を認めてくれてありがとう。


「ねぇ、昆。私、あなたと出会えてよかった」


うん。私もそう思っているよ。こんな結末を迎えることになってしまったけど、私はなまえと出会えてよかったと思っている。結婚出来て幸せだった。いつもなまえは私を支えてくれていたね。ねぇ、知っていた?なまえは生活を支えてくれていただけのつもりだったのかもしれないけど、本当は心を支えられていたんだよ。生きるとは何と尊いことなのかと思うほど私は幸せだった。例え喧嘩していた時期であろうとも、後から思い返せば何と愛しい日々なのかと思う。嫌なことがなかったとは言わない。なまえはいつも無理をするし、隠そうとするから、そういうところは好きではなかった。怒ると怖いしね。だけど、そんなところさえも好きだった。なまえという存在が本当に愛しかった。
階段で屋上に登ると、見知った顔がいた。あぁ、また出た。


「…なに?もう話すことは何もないよ」

「お前は自分が情けないとは思わないのか」

「思うよ。思うさ、そりゃあ」

「だったら自分の足で立ったらどうなんだ」

「ふ、ふふ…それをお前が言うの?」


何が自分の足で立て、だ。お前だって立っていなかっただろう。お前のはただの虚勢だ。孤独に耐えられるだけの強さもなかったくせに。なまえを失って絶望したくせに。
もう、何だっていい。死なせてくれ。なまえがいないのなら、私は生きている意味がない。なまえは未來が生きる希望になると言ったね。だけど、その未來も死んでしまう。だけど、なまえが私に希望を与えようとしてくれたこと、嬉しかったよ。いつもなまえは私のことを考えていてくれたね。だけど、自分よりも私のことを大切にして欲しいなんて望んだつもりはなかったんだけどなぁ。それだけ私のことを愛してくれていたんだよね。私もそう。なまえだけを愛していた。


「…ねぇ殺してよ。あんたなら出来るんじゃないの?」

「生憎、女を泣かせる趣味はないものでね」

「よく言う。なまえを泣かせてばかりいたくせに」

「勘違いしないで。私は幸せだったんだから。雑渡さんといられて幸せだった。雑渡さんが私を救ってくれたのよ」

「ふーん…」


そう。で、だから何?何もかも終わったことじゃないか。
なまえは可愛いと思っていた。誰より綺麗だと思っていた。だけど、そんなことはなかったようだ。だって、私のなまえの方がずっと可愛いもの。お前には微塵も魅力を感じない。


「殺してくれないのなら、どいてよ。私は死にたいんだ…」

「悪いが、それは出来ない。お前は生きなければならない」

「く、くくく…」

「何が可笑しい」

「何が生きなければならない、だ!」


立場あるお前が自死を選んだくせに、偉そうなことを言うのはやめろ!どれだけ部下が辛い想いをしたのか分かっているのか!?お前の選択が誤りだったとは言わない。だけど、私にとやかく言えるだけの立場ではないだろう。
お前はなまえを失って死を選んだ。だから私も死を選ぶ。それの何が悪いというんだ。なまえを失って何に希望を見出せというのだ。私には未来などない。必要がないんだ。
泣きながら過去の自分に怒鳴ると、電話が鳴った。出なくても分かる。どうせ義父さんかアキさんだろう。いよいよなまえが死んだのか。もしくは、未來が死んだのだろうか。何だっていい。どうせ私も二人の所へもうすぐ行くのだから。


「出たらどうだ」

「…そんなこと、指示される覚えはない」

「いいから出ろ。出ないと後悔するぞ」

「……はい、もしもし?」

「昆奈門、いま何処にいる!?」

「さぁ。どこだろうか」

「ふざけている場合か!早く戻れ!」

「…そうだね、すぐ戻るよ」

「なまえが、なまえが目を覚ました!」

「え…っ」


なまえの意識が戻った?嘘だ、だって今にも死にそうだったではないか。助かった?本当に?
慌てて分娩室に戻ると、ドアが開いていた。床はやっぱり血で汚れているし、なまえは両腕から血液が投与されている。義父さんもアキさんも泣きながらなまえの手を握り締めているし、なまえの声も聞こえない。ほら、やっぱり嘘だったじゃないか。やっぱりなまえはもう死んでしまっていて…っ


「お婿さん!どこに行っていたんだい!?」

「なまえ、昆奈門が戻ってきたぞ」

「やめてよ、そんな期待させること…」


なまえは死んだんだ。そうなんだろう?私をこの世に留めるためにそんな嘘をつくなんて、タチが悪い。
そう思っているとなまえが動いて、思わずビクリとする。


「昆…」

「…なまえ?あ…あぁ、なまえ!」

「ねぇ、みーちゃんは…?」


生きている。なまえが生きている。顔色こそ悪いが、ちゃんと私を見て話をしている。夢じゃない、生きている。
なまえに言われて気付いた。未來はどうなった?未來は…


「おめでとうございます。女の子ですよ」

「…未來?」

「ちょっと小さかったので保育器に入りますけど、元気ですよ。ほんの少しの時間ですけど、抱いてあげて下さい」


バスタオルに包まれた人間はもう紫色ではなかった。ちゃんと赤らんだ肌をしている。とても小さくて、とても軽いその子供は私が抱くと、大きな声で泣き出した。
未來が泣くのと同時に私も涙が出た。生きている。なまえも未來も生きている。こんなにも小さな身体を震わせながら、懸命に生きようとしている。生きるために小さな手を空に伸ばしている。その事実だけで涙が止まらなかった。


「みーちゃん…みーちゃん!」

「どうしよう、なまえ…」

「…え?」

「私、この子のために生きたいと思ってしまった…」

「うん。うん…っ」

「未來。絶対に大切にするからね…っ」


未來、生まれてきてくれてありがとう。なまえ、未來を私に授けてくれてありがとう。この子は名前の通り、私となまえの未来を繋いでくれた。幸せな未来を得るために懸命に生きようとしてくれた。
未來をそっとなまえの隣に寝かせると、なまえは泣きながら未來の顔を撫でた。どうしよう、言葉が出てこない。なまえに産んでくれてありがとうと伝えたいのに。生きていてくれてありがとうと伝えたいのに、涙しか出てこない。息が出来ないくらい苦しい。視界が滲んでなまえが見えない。
なまえを無言で抱き締める。そっと抱き返してくれたなまえの肌はちゃんと温かくて、その体温が、息遣いが生きているのだと証明してくれていた。泣きながらもやっと口から出た言葉は「ありがとう」ではなく「愛している」だった。


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