雑渡さんと一緒! 60


「…あのさ、やる気あるの?」

「………」

「困るんだけど、これでは」

「こ、こちらも最善は尽くしている!」

「これで?」


売上げ伝票を見ながら思わず溜め息が出た。商才がこの男にはないのだろうか。年度末までに売り上げを三倍に上げなければならないというのに、たったの一割しか上がっていなかった。卸先をあんなにも紹介してやったというのに。この調子ではあと半年で三倍など到底無理だろう。
経営について程々に知識を得た私の方が才能があるかもしれない。だが、私が関与すれば間違いなく取り引き先からは嫌われるだろう。この男のやり方は甘過ぎるのだろうが、私は逆に厳し過ぎる。つまり私は経営には向いていない。


「初めはこんなものだ。軌道に乗ればあっという間だ」

「その軌道というのはいつ乗るの」

「…まぁ、二、三年はかかるだろうが」

「あのねぇ。自分の立場が本当に分かってるの?」

「分かってる!これでも努力はしているんだ!」


努力、ね。努力した上でこれか。社長が二、三年も待つはずがない。むしろ、半年も結論を先延ばしにしてくれていることが奇跡に近い。なまえは社長を優しい人だと言ったが、あの人は仕事に関しては鬼のように厳しい。仕事が出来ないと判断すれば簡単に切ってしまう。このままではこの小さな会社を乗っ取られて終わることは目に見えていた。
最早、頭を抱えるしかない。あぁ、だから取り引き先に思い入れるのは駄目なんだ。実際にやってみてよく分かった。


「まぁ、聞け。大手と契約を結ぶことができた」

「大手ってどこ」

「駅前のファミレスだ」

「えっ。本当に?凄いじゃない」

「その反応が出てくるのは恐らく来月だろう。まずはそこからだ。あれはフランチャイズ店だが、他にも店舗を持っている。そこから増やしていけばいい。まだ諦めるには早い」


どうだ、凄いだろうと言う男に人差し指を向けられ、それなりには動いているのかと安心する。15年もこの会社を経営していたのだ、それなりの営業スキルや人材教育能力はあるのだろう。私とはやり方は大きく違うが。
私ならこんな生ぬるいやり方はしない。だけど、このやり方は嫌いではない。なまえとよく似て優しいから。そして、それが経営にどう影響するのかは私自身も興味があった。


「…まぁ、来月に期待している」

「そうしてくれ。で?」

「で、とは?」

「なまえは元気なのか?」

「あぁ。気になるなら会いに来ればいいのに」

「そこまではいい。お前に任せる」

「あ、私のこと遂に認めたんだ?」

「そんなわけあるか!調子に乗るな!」


こういう素直じゃないところもなまえに似ているというか…親子って面白いものなのだなと思った。知れば知るほど、この男はなまえに似ている。娘は父親に似ると言うが、では私にもしも娘が生まれたら私に似てしまうのだろうか。絶対に私には似ないで欲しいところではある。可愛げがなさ過ぎる。
次の約束場所に行くために立ち上がると19時、と言われた。


「何が?」

「19時に表通りの居酒屋に来い」

「は?この前、なまえと食事をしたじゃない」

「今日はお前と酒を飲む日だ」

「いや、勝手に決めないでもらえる?」

「そうか。じゃあ、遅れるなよ」


じゃあな、と缶珈琲をテーブルに置いてから事務所に戻っていってしまった。いや、だからさ、そういうところがなまえに嫌がられるんだって。強引過ぎるんだよ。
19時…今日はちょっと厳しい。だけど、遅れたら何を言われるか分からない。というか、私が行くことは既に決まっているのか。私には初めから拒否権はないということね。あぁ、はいはい分かりましたよ。行くよ、行けばいいんでしょ。
なまえに夕飯は要らないと連絡すると、無視すればいいのにと言われた。そうだね、私もそう思う。だけど、なまえと結婚したら私の義理の父親になるから、そこまで強く出るわけにいかない。多分、生涯に渡って文句を言われるだろうし。
そんなわけで、仕事を幾つか残して指定された店に出向く。


「あぁ、遅れなかったな。感心だ」

「…こういうの、やめてほしいんだけど」

「まぁ、座れ」

「はぁ…」


促されるがままに座る。私をここまで翻弄してくるのはこの親子くらいのものだ。似なくていいところまで似ている。
刺身をつまみながらビールを飲んでいると、詰め寄られた。


「お前たち、仲良くやっているのか」

「私はそう思っているけど?」

「お前がなまえに対して本気なのはもう十二分に分かった。だから聞くが、ちゃんと避妊はしているんだろうな?」

「あぁ、それねぇ…」


私はしているつもりだ。中に出したいのに我慢しているんだから。だけど、なまえにとって外出しは避妊ではないという認識らしい。別に子供が出来れば婚期が早まるだけで何ら問題はないと私は考えている。むしろ、私は子供が好きだし、いずれ子供を作るのなら今出来ることの何が問題なのかよく分からない。そもそも、学生結婚に対してなまえが強い拒否感を示すのも疑問だ。学生で結婚したって休学するという手だってあるだろう。何の問題があるのか理解できない。それもこの男の教育の賜物なのかと思うと嫌気が差した。


「あんたはどうして学生結婚に反対なの?」

「俺は反対はしていない。俺自身が学生結婚したのだから」

「…は?本当に?」

「なまえが出来たからな。二人で退学した。それ自体に何の不満も俺はなかった。だが、妻は後悔していたんだろう」


なまえにこれだけ学生結婚は駄目だと教育していたのだからな、と何とも言い難い顔をしてなまえの父親は言った。
意外だった。このお堅い男が学生結婚をしたことも、順序を違えたことも。私と一周りも年齢の違わないこの男は随分と若くしてなまえを授かったとは思っていたが、まさかなまえが若くして出来たから結婚したとは思ってもみなかった。


「あんたも後悔しているの?」

「していない。俺はなまえがいてくれて幸せだった」

「あんたの奥さんもそう思っていたんじゃないの?」

「それは分からない。もう、確かめようもないからな」

「…急死だったんだって?」

「そうだ。本当に突然だった。俺は、あいつに何もしてやれなかった。幸せにしてやれなかった。後悔しかない…」


なまえから聞いた話では、この夫婦は仲がよかったそうだ。なまえのように甲斐甲斐しく夫の世話をし、なまえのように夫のよき理解者だったそうだ。最期まで。
もしも私がまだ学生だったとして、なまえとの間に子供が出来たらどうするだろうか。もちろん結婚するだろうし、子供を堕ろすという選択はしないだろう。もちろん退学することになろうとも後悔などしないし、当然なまえを責めたりはしない。だけど、なまえはどうだろうか。なまえならきっと私の子を産んでくれるであろうことは容易に想像できる。それでも自分を責めたりはしないだろうか。私が卒業出来なかったことに対して自分を責めるのではないだろうか。人一倍人に優しいなまえなら私ではなく自分を責める気がした。なまえの母親もそうだったのではないだろうか。会ったこともないから、どんな人物なのかは分からない。だけど親子とはよく似るものだとするのなら、きっとなまえの母親は自分を責めたのだろうと思った。この男のことを愛していたから。


「私がとやかく言うことではないと分かった上で言うけどさ。奥さんはあんたのことを愛していたんだと思うよ。愛していたから、あんたの未来を奪ったことを悔やんだんだ」

「…そんなこと、何故分かる」

「分からないさ。会ったこともないし。だけど、きっとなまえが同じ状況になったら私にそう言う。あの子は優しい子だから。あんたの妻もそうだったんじゃないかと思っただけ」


ずっ、と男は鼻を啜った。大人になれば人は強くなると思っていた。それは間違った認識だとなまえに出会ってから分かった。大人だって別に強くなんてない。強くなんてなる必要もない。だけど、周りからは強くあることを求められてしまうようになる。だから、支えてくれる人が必要なのだろう。私がなまえを必要としているように、この男にも支えてくれる人が必要なのではないだろうか。だけど、支えてくれる妻はもうこの世にはいない。それはどれ程の絶望なのだろう。今の私なら死を選んでしまうことは想像に難くないが、子供がいたとするのならどう出るのか。子供の幸せを見届けないと死ねないと、そう思ってしまうのだろうか。子供の前では強がって大人のふりをしなければならないのに。


「…私とあんたは他人だ」

「そんなこと分かっている」

「だから、私に対して大人ぶる必要なんてない。別にあんたが弱くたって私は何とも思わないし、他人なんだから弱いところを見せられても私は何とも思わない。泣き言くらい聞いてやるよ。仮にも未来の父親となる男なわけだしね」

「…お前、見かけに寄らずいい男だな」

「どうも」


別に私だって初めからこんな思考を持っていたわけではない。なまえがいてくれたからだ。なまえが私に教えてくれた。人を愛する喜びも、失う悲しみと不安も。
私はなまえを大切にしているつもりだった。だけど、生でしかする気はなかった。全身でなまえを感じたかったから。なまえの全てをこの肌で知りたかったから。だから私はなまえがどういうつもりで学生結婚を嫌がっていたかなんて考えたこともなかった。結局私はなまえを大切にしているつもりになっていたに過ぎなかった。ただの独りよがりだった。
避妊なんてするつもりはなかったけど、これからはした方がいいのだろうか。なまえ以外の女を抱く時は必ず使用していた物を再び用意する必要があるのだろうか。本当はしたくないけど、なまえを想うのなら致し方がないのかもしれない。それが大切にしているということに繋がるというのなら、私が我慢するしかない。なまえはこの世で誰よりも愛おしく、大切にしたいと思っている唯一無二の存在なのだから。


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