雑渡さんと一緒! 71


昨日、デパートでたくさん服を買ってもらった。そして、下着も絶対に買えと念を押された。何なら選んであげようかと言われて、丁重にお断りして購入した下着を着ける。初めから県外に泊まる予定だったからだろう。昨日買ってもらったばかりのニットとスカート、ブーツ、それから貰ったばかりのピアスを身に着けてから雑渡さんをゆさゆさと起こす。いつも通り雑渡さんはなかなか起きない。諦めて一度離れる。
昨日、夜景が綺麗に見えた窓から外を眺める。都会だ。だけど、東京はこれよりも都会だというのだから、きっと夜景はここよりも綺麗なのだろう。いつか行ってみたいなぁと思いながら下を見ると、恐ろしいほど高いことに気付いた。それはそうだ、夜景が綺麗に見えるほど高いのだから。驚いて心臓がドクドクと高鳴っている。息が苦しい。冷や汗が出た。
ペタリとカーペットに座り込んでいると、雑渡さんが眠そうな声で話し掛けてきた。呼吸を整えてから雑渡さんを見る。


「おはようございます。朝ご飯食べに行きますよ」

「あー…」

「ほら、早く起きて下さい」

「何かさぁ、今、苦しそうにしてなかった…?」

「いいえ?高くて驚いただけです」

「あぁ…ここ、最上階だからねぇ」


そう、最上階。高そうなお部屋だ。そんなこと気にするのは野暮だよ、と雑渡さんに言われたからそれ以上私は何も言わなかった。だけど、きっと昨日の夕飯も含めてそれはそれはお高い金額を支払ってくれることになるのだろう。
申し訳なくて、胸がきゅうっと痛いほど締め付けられる。


「うぅ…っ」

「んー…?」

「…いえ、何でもないです。それより、早く起きて!」

「ん…分かったー…」


怠そうに雑渡さんはバスルームへ歩いて行った。今日はこれから朝食ビュッフェを食べて、水族館に行く。ジンベエザメがいる水族館。そんな大きな水族館は初めてだ。
きっと、楽しみ過ぎてドキドキしているだけだと自分の心臓を叩く。冷や汗を拭ってから私は髪を整えた。雑渡さんから貰った可愛いピアスがよく見えるように。きっと、買うのを何度も躊躇ったんだろうなぁということは容易に予想出来た。昨日、どれだけ迷った上で私のためにこれを買ってくれたんだろう。そう思うと、本当に私は幸せだと思った。
二人で朝食ビュッフェに来てみると、信じられない種類のパンや果物が並んでいた。豪華過ぎて思わず目がくらむ。私が何から食べればいいのか悩んでいると、雑渡さんは慣れた様子でご飯とお味噌汁、玉子焼きと鮭を取っていた。ご飯の上にはポフッと梅干しを乗せて、テーブルに戻って行った。私は慌てて一通りのパンと果物、それからサラダとベーコンを取ってから追いかけた。
雑渡さんは私が座るのを待ってから手を合わせた。


「いただきます」

「い、いただきます」

「随分と取ったね。そんなに食べられるの?」

「だって、勿体無い気がして…」

「勿体無い?何が?」

「せっかくだから全制覇したくなりません?」

「ならない。そもそも、無理だし」


雑渡さんは玉子焼きを口にして、首を傾げた。特に何も言わなかったけど、好みの味ではなかったんだろう。
私はもくもくとパンを食べ進めた。どれも小ぶりなサイズで、全て食べられそうだ。そして、美味しい。ふわふわで、サクサクのパンはあっという間になくなってしまった。カリカリのベーコンも美味しい。お高いホテルの朝ごはんは何を食べても美味しかった。私がフルーツに手を伸ばし始めた頃、雑渡さんはホテルの方が持ってきてくれた珈琲を飲み始めていた。既に食事は終わっている。何というか、優雅だ。


「慣れてますね、ホテルでの食事に」

「出張で使うからね」

「果物、食べないんですか?」

「うん」

「甘いから嫌いなんですね?」

「いや、普通」

「普通に好きなら食べればいいじゃないですか」

「違う。本当に普通。可もなく不可もない」

「わ、分かりにくいです…」


「普通=普通に好き」かと思っていたら「普通=普通」もあると知った私は、聞き分けることが出来るか不安になった。
珈琲を飲みながら雑渡さんは相変わらず言葉の足りないところがあるなぁと思った。雑渡さんは分かりやすいといえば分かりやすいけど、それは初対面の人にはまず通じないだろう。これはもしかしたら人と関わることを嫌がる雑渡さんからの挑戦状かもしれない。私を理解してみろ、と。
食後に部屋でせっかく整えた髪が乱れるほどのキスをしてからチェックアウトした。外は冷たい風が吹いていて、雑渡さんの黒いマフラーを揺らした。黒いコートとは違う色味の黒はきっと雑渡さんには同じに見えているのだろう。だけど、違う黒だ。少し青みがかった黒いマフラーは雑渡さんにもコートにもよく合っていて、この色にしてよかったと思った。


「県道に雪が少なければいいですね」

「それより凍結がなぁ…」

「あぁ、水族館は海沿いですものね」

「ちゃんとシートベルトしてよ?」

「はい。もちろん」


助手席のシートベルトを締めて水族館に出発する。しばらく走ると海が見えてきた。夏と違って暗い色をした海は少し怖くて、だけど光る海面が綺麗だった。私が海を見て喜んでいると雑渡さんは変わらないね、と笑った。
ジンベエザメは予想していたよりもかなり大きくて、優雅に回遊していた。あまりの大きさに私が驚いていると、雑渡さんも呆然とした顔で見ている。こんなにも大きいとは思っていなかったのだろう。ライトで青く照らされたジンベエザメは可愛い模様が入っていた。何というか、かなり可愛い。


「ジンベエザメって草食なんでしょうか?」

「は?何て?」

「いや、だって、他の魚を食べないから」

「あぁ、成る程?じゃあ、そ、草食なんじゃない…?」

「あ!また馬鹿にした!」

「だって、草食って…く、くくく…」


雑渡さんは必死に笑いを堪えて震えていた。ここ最近、よくこんな風に笑うようになった。付き合ったばかりの頃は余裕いっぱいの笑みを浮かべることの多かった人なのに、最近はこうして楽しそうに笑っている。
雑渡さんは変わりたいと言っていた。そして、少しずつかもしれないけど、変わってきている。この表現が正しいのか分からないけど、人間らしくなってきたと思う。楽しい時に笑ったり、悲しい時に泣いたり、嫌なことがあったら怒ったり。仕事の愚痴も言うようになってきた。一緒に住む時に雑渡さんは変わらないと言っていたけど、凄く変わった。とてもいい方に。相変わらず私のことを大切にしてくれるところは変わっていないけど、変化を恐れていた私から見てもますます魅力的な人になったと思う。一緒にいてとても楽しい。


「もう。笑い過ぎですよ!」

「ふ、ふふ…ごめん。じゃあ、下でアイスを買ってあげよう」

「えっ。アイスがあるんですか?」

「さっき子供が持っているのを見たよ。上にジンベエザメのチョコレートらしき物が乗っていた」

「食べたいです!」

「ん。なまえ、おいで」


差し伸べられた手を握り、二人で魚を眺めながら下に降りた。ペンギンが泳ぐのを見ながら私はカップに入ったアイスを、雑渡さんは珈琲を口にする。
今年もこんな風に私は雑渡さんとたくさん出掛けられるのだろうか。そして、今年は雑渡さんはどんな風に変わっていくのだろうか。想像しただけで幸せな気持ちになったのか、胸がきゅうっと熱くなった。いや、違う。締め付けられた。
思わず私はスプーンを落とした。何だろう、息が苦しい。


「…なまえ?」

「あ、ごめんなさい。落としちゃったので新しいスプーンを貰ってきますね」

「大丈夫?何か、つらそうに見えるけど…」

「…バレてしまいました?実は最近、歯が痛いんです」

「あぁ、歯医者はねぇ…」


雑渡さんは溜め息を吐いた。病院が嫌いな雑渡さんはもちろん歯医者は大嫌いだろう。私でさえ怖いと思うのだから。
私はスプーンを取りに席を立った。水族館が暗くてよかった。明るい所だときっと雑渡さんにバレていた。私の顔色はきっと悪いだろう。最近、心臓が痛いような気がする。すぐに治るから気のせいだと思っていたけど、気のせいではない気がする。嫌な思いが脳裏をよぎる。私、死ぬのかな…と。
スプーンを手にテーブルに戻ると、雑渡さんは歯医者に行けと言いにくそうに言った。多分、自分なら行かないのだろう。本当に言いにくそうにしていた。雑渡さんの気まずそうな顔が可笑しくて、つい笑ってしまう。
こんな弱い人を遺して死ぬわけにはいかないし、心配を掛けるわけにはいかない。大丈夫、私は死なない。そう思いながら残りのアイスを口にした。最後に大切にとっておいたジンベエザメのチョコレートを頬張り、私が美味しいと笑うと、雑渡さんもようやく安心したように笑ってくれた。


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