雑渡さんと一緒! 72


「今日は私に運転を任せて頂けませんか?」

「陣左に?」

「ええ」

「いいけど、何で?」

「実は車の購入を検討しておりまして」

「ふーん…」

「鍵をお預かりしても?」

「スマートキーなんだから私が乗ってさえいればエンジンがかかるんだから陣左にわざわざ渡す必要なんてないでしょ」

「そう言わず。雰囲気を味合わせて下さい」

「雰囲気ねぇ…」


外回り後に陣左にそんな提案をされた。別にいいけど、と鍵を渡して助手席に座る。自分の車の助手席に座ることはごく稀にしかないことで、新鮮な気持ちで外を眺める。


「そういえば、お正月はいかがお過ごしでしたか?」

「んー?初売りに行った後、ジンベエザメを見た」

「というと、県外ですね。随分と足を延ばしましたね」

「あー。でも、高速は空いてた」

「でしょうね。逆方向ですから」

「お前は?帰省したの?」

「ええ。東京は混雑していました」

「だろうね。どこか行ったの?」

「はい。シャチを見に行きました」

「へぇ…」


なまえに見せたら喜ぶだろうか。喜ぶだろうな。私もテレビでしか見たことはないけど、相当大きいらしいし、どうもファンが多いらしいから。東京は出張でしか行ったことがないけど、あまりいい印象を受けたことがない。人が多過ぎる。100メートル歩いただけで七回声を掛けられていたと尊奈門に言われた。そんなくだらない回数を数える暇があるのなら助けて欲しかったと怒ったのも、もう二年も前のことだ。まだなまえと出会う前の、生きることが退屈だった頃。
私はなまえと出会っていなければ、今この瞬間もうんざりとしながら生きていたのだろう。毎日同じことの繰り返しで、特に何にも興味がなく、楽しいとか幸せだという感情さえも私は知らなかったのだから。なまえと出会っていなければ…という想像は恐怖でしかなかった。二度とあの頃には戻りたくない。だから、なまえを失うわけには絶対にいかない。
そんなことを考えていると、本来であれば曲がらなければならない道を陣左は直進した。驚いた私は思わず陣左を見る。


「ねぇ、あのさ…」

「はい」

「…お前、まさか私を裏切るつもり?」

「まさか。私は課長の忠誠な部下として今後もお仕えさせて頂く所存です。課長を裏切るような真似は絶対にしません」

「へぇ…じゃあ、お前は今、どこに向かっている?」

「………」

「答えろ、陣左!」


話をしていて直ぐは気付かなかったが、陣左は帰社しようとしていない。ふと嫌な想像が頭をよぎる。いや、ここまで来てしまっている。これはもう確定だ。
陣左は私が怒っていることに気付き、冷や汗を流し始めた。今世では数年、前世では十数年の付き合いがあったのだ、私を怒らせたらどうなるかくらい知らないわけではないだろう。その上でこの愚行。私に対して人一倍忠誠心のある陣左らしいといえば、らしい。だが、そう簡単に許しはしない。


「…運転を代わりなさい」

「生憎、停められる所がないので」

「お前…今すぐ止めなさい!」

「もう着きますので、ご安心下さい」

「陣左!」

「あぁ、見えてきましたね」

「やっぱり…」


予想通り、連れて行かれたのは病院だった。やられた。
通知が来てもずっと無視していた。遂に庶務部から部下に通達されてしまったようだ。私が健康診断を無視していると。
私が嫌だ、帰ると騒ぐと、陣左は携帯で誰かに連絡をとっていた。しばらくすると、館内から小柄な女の子が出てきた。


「な、何でなまえがここに…」

「高坂さん、すみません」

「はい。私はタクシーで帰りますので鍵をお渡ししても?」

「あ、貰います」

「終わるまで課長に渡さないで下さいね。逃げますので」

「あぁ…分かりました。本当にありがとうございました」

「いえ。課長のこと、よろしくお願いします」

「お疲れ様です」

「ちょっと!私を無視しないでよ!」


陣左から鍵を渡されされたなまえは深く頭を下げていた。私を偽って病院に連れてきた上になまえまで利用するとは…
私の怒りが先程までとは比べものにならないくらい大きくなっていることに気付いたのだろう。陣左は私の顔を見て青ざめた。にも関わらず、真っ直ぐ私を見てくるのだから、いい度胸をしている。面白い、よくここまで育ったものだ。


「お前が明日、どんな顔をして出勤するのか楽しみだよ」

「ど、どのようなお叱りも受ける覚悟は出来ています!」

「ふ…それはそれは。逃げるなんて真似は許さないから」

「そのような愚行は致しません」

「へぇ、お前も言うようになったじゃな…痛っ」

「雑渡さん!すみません、高坂さん。叱っておくので」

「い、いえ…し、失礼します」


陣左に凄んでいると、なまえに叩かれた。青い顔をしていた陣左は水を得た魚のように走って出て行った。
なまえから無言で問診票を手渡される。聞けば、受付は既に済んでいるらしい。逃げるに逃げられない状況が既に完成していた。悔しくて問診票の入った封筒を握り締める。


「健康診断は受けておいて損はないですよ」

「だからって、なまえまで使うなんて!」

「そうしないといけないくらい嫌がったんでしょ?何ですか、本来なら秋にやるはずだった健康診断を無視するって」

「…私が病院を嫌いなのは知ってるでしょ」

「ええ。知ってますよ?だからって、限度があります」


なまえは溜め息を吐いた。私は文句を言いたかったし、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけど、とてもそんなことを出来る雰囲気ではなかった。なまえが怒っていたから。
問診票のマークシートに喫煙歴や既往歴を大人しく書いていると、名前が呼ばれた。まずは機械で血圧を測れと言われる。測らなくても分かっている。どうせ高い。印刷された紙に記載されている血圧を見てなまえは悲鳴をあげた。


「血圧162/101、心拍数148…!?」

「あぁ、いつもそんな感じ」

「低血圧なんじゃなかったんですか?」

「普段はね。病院に来ると大体160から180台だよ」

「えぇ!?」

「私はね、病院に来ると逆に体調が悪くなるの」


だから嫌なんだ。この空間にいるだけでどんどん体調が悪くなってくる。これから採血があると分かっているから心拍数がどんどん上がってくる。気分が悪い。
椅子にもたれ掛かると、なまえが私にもたれ掛かってきた。


「なまえ?」

「す、凄い血圧だったので私までドキドキしました…」

「あぁ、そう…」


息が荒く見えるなまえの手から血圧が書かれた用紙を奪い取り、覚悟を決めた。大丈夫、健康診断は採血以外はいける。怖いことはそれ以外されない。大丈夫大丈夫…
自分に必死に言い聞かせていると、また名前が呼ばれた。いってらっしゃい、となまえに言われ、ほんの一瞬の出来事のはずなのに永遠なのではないかと思うほど長く感じた検査を終わらせてなまえの元へ戻る。もうなまえはいつも通りで、息も荒くないし、怒ってもいなかった。私はホッとして、なまえを連れて家に帰る。家に帰るなりなまえは夕飯の支度を始めようとした。平日の16時に私が家にいられることなんて稀だ。手伝おうとしたけど、断られてしまう。


「今日は雑渡さんが頑張った日なので、ご褒美です」

「なに?」

「唐揚げと鯖の味噌煮とロールキャベツです」

「えっ。本当に?」

「はい。雑渡さんの好きな食べ物トップ3でしょ?」

「やった!えっ、手伝う手伝う!」

「いいから座っていて下さい。私が作りたいの」


キャベツを剥きながらなまえは笑い掛けてきてくれた。私はあまりにも嬉しくて、そわそわとなまえの後ろ姿をじっと見つめて過ごした。こんなご褒美があるのなら、健康診断も行ってよかったと思えた。頑張ってよかった。
テーブルに並んだ料理は言うまでもなくどれも美味しくて、たくさんなまえと話をしながら食べた。二人で後片付けをしてからソファで毛布にくるまり、なまえとのんびりと過ごす。陣左に騙されはしたけど、もう私は怒っていなかった。なまえと過ごすこの瞬間がとても幸せだったから。


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