雑渡さんと一緒! 76


その日は雨だった。雨音が心地よくて、深い眠りはなかなか醒めなかった。私は安心しきっていた。なまえは必ず朝食を用意してから私を起こしてくれていたから。
だから、電話が鳴って目が覚めることは久し振りのことだ。


「んんー…はいはい?何かあったぁ…?」

「何かって…それはこちらの台詞です」

「んー…?」

「もう朝礼も終わりましたよ!?」

「えっ!?」


慌てて飛び起きる。時計を見ると、既に9時を過ぎていた。
隣にはなまえはいない。ということは、起きてはいるのだろう。なのに、起こしてはもらえなかったということだ。


「すぐ行く…か…ら…?」


電話を持ったままベッドから降りようとすると、床になまえが寝ていることに気が付いた。いや、寝ているわけではなかった。青白い顔をして、肩で息をしている。
慌てて私はなまえを抱き寄せた。どんなに名前を呼んでも目も開けてはくれない。時々、呼吸が止まりかけている。
視界が暗くなった。待って、何がどうしてこうなったんだ。
私は部下に何も言わずに電話を切って救急車を呼んだ。電話をすると、とても静かな声で保険証を用意しておいて欲しいことを伝えられて頭にきた。なまえの命が危ないかもしれないのに、何て呑気なことを言うのだろうかと思った。
なまえを抱き寄せながらなまえのリュックを漁ると、保険証はすぐに見つかった。それと同時に健康診断の結果が目に入る。「不整脈あり、要再検査」と書かれていた。
待って。待って…聞いていない。何も聞いていない。何も私はなまえから聞かされていない!不整脈?不整脈!?
ドクドクと心臓がうるさい。今にも止まるかもしれないほど速く動いている。また部下から電話がかかってきた。


「課長!これから契約ですよ!?」

「…尊奈門、悪い。陣内と変わってはくれない?」

「えっ、はい…」


仕事なんてどうだっていい。なまえが死ぬかもしれない。そんな中、仕事なんて手につかない。分からない。もう、何も分からない。頭が全く働いてはくれない。
受話器の向こうから陣内の声が聞こえた。私に忠誠を誓ってくれた部下。私がなまえ以外で唯一弱みを見せられる男。


「課長?何かありましたか?」

「あのね、陣内…なまえが、なまえが…っ」


ボロっと涙が落ちた。声に出すと不安が止まらなかった。なまえは死んでしまうかもしれない。いなくなってしまうかもしれない。私を遺して逝ってしまうかもしれない。
きっと、支離滅裂で私が何を言っているのか陣内は分からなかっただろう。だけど、陣内は落ち着いた声色で今日は来なくてもいいことと、病院が決まったら教えて欲しいことを伝えて来た。同じように冷静さはあったけど、さっきの救急車を呼んだ時の事務的な対応ではないことが分かって、ますます涙が出てきた。
それからすぐに救急車は来た。救急隊員はなまえに酸素マスクを着けてから心電図を装着した。モニターに映し出された波形を見て、素人の私でも分かった。乱れている。そして、時々心臓が動いていないのだろう。間が空いていた。
私が震えていると、救急隊員は無慈悲なことを言った。


「旦那様でしょうか」

「いや、私は…」

「ご家族様に連絡は取れますか?」

「家族…」

「もしも連絡が取れるようでしたら、お願いします」


そう言って救急隊員はなまえの血圧を測り始めた。普段の私よりも遥かに低い血圧がなまえの死を予感させる。
家族。知っている。知っているし、連絡だって取れる。何なら先日も飲みに行ったばかりだ。だけど、じゃあ私は何なのだろう。こんなに愛しているのに、家族じゃないというだけで弾かれてしまうような存在だというのだろうか。
失意のまま携帯を取り出す。会社ではなく、携帯に電話を掛けると、すぐに出た。こんなにすぐに出て…あの男はちゃんと仕事をしているのだろうか。もうすぐ年度末なんだから、しっかりしてもらわないとお互い困るんだけどなぁ…


「何だ。こんな朝っぱらから」

「…なまえがね、倒れたんだ」

「倒れた!?」

「えっとね、私では駄目みたいだから、病院に来てよ…」

「待て。どういうことだ!?」

「頼むよ。頼むから…」


それ以上は何も言えなかった。モニターのアラームが鳴ったから。こんな、こんなドラマのようなことが現実に起こり得るのか。いや、ドラマよりもずっと酷い。私はなまえの手を握ることさえ許されていない。救急隊員に囲まれていて、邪魔だと言わんばかりに遠ざけさせられる。
気分が悪くなって来た。頭が痛い。視界が滲んでいく。
救急外来に着いた頃には指先の感覚がなくなっていた。大勢の医療者がなまえを迎えた。黙って促されるがままに座る。そこでも家族であるかを確認され、家族を呼ぶように伝えられた。自分はなまえにとってはただの恋人にしか過ぎず、何の権限も与えられていないとはっきり言われているようだった。どんどん嫌な気持ちになっていく。私はただの他人。家族のように二人で生活していたけど、所詮は他人なのだ。
ぼんやりと壁にもたれ掛かる。そういえば、私は部屋着のまま来てしまった。髪だってボサボサだし、顔すら洗っていない。きっと、だらしなく見えたことだろう。あぁ、昨日の夜、なまえを抱かなくてよかった。もしも抱いていたら裸のまま来ていたかもしれない。そんなことを考えていると、ふっ、と息が漏れた。私は何なのだろう。そうだ、見た目と肩書きしか価値のない男なのだった。なまえと一緒にいて最近はそんなこと、思い出しもしなかった。ここにいる私はそのどちらも持っているようには見えないことだろう。情けないことに、遂に何の価値もなくなってしまった。
もう駄目だ。もう、私は駄目だ。ぼんやりと空を眺めていると、また頬に涙が伝った。どうして私は泣いているのだろうか。もう、それすらも分からない。もう、何も分からない。


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